その311 『機関室へ』
「頼んだのは俺だが、航海室までの僅かな距離でも危険は危険だ。気を付けてくれ」
止血を終えた後、こまごまとした意見交換をしてから、レパードは最後にそう締めくくった。
レヴァスは頷きながらも、涼しい顔をしている。包帯で縛り上げて、鬱憤を晴らしたと言わんばかりの顔が、弟を連想させた。
「君は医者が戦えないと思いこんでいるようだが」
そう言って、白衣からメスを取り出すのはわざとらしい。持ち歩いているのは謎だが、武器を持っていると言いたいのは伝わった。
だが、その武器は人の腕ほどもないのだ。ついでに言うと、メスなのだから殺傷目的のものでもない。
「そんな貧弱なナイフで戦えると?」
「ふっ」
と、レヴァスは笑った。
「これでも僕は子供のころ、殺されかけた『龍族』の子供を守ってみせたことがある。これで、腕っぷしには自信があるんだ」
突然の昔話には、あまり説得力がない。そう思われたのを察したのか、レヴァスは補足した。
「巷では有名な殺傷事件だよ。覚えていないかい?外から来た人間たちが暴動を起こした」
レパードは首を横に振った。
「あいにく、俺も外からの住民でな」
「そうか、それは失礼」
あまり困っていなさそうな淡々とした言い方で、レヴァスが返す。
それにしてもと、レパードは首を傾げる。殺傷事件。その単語をどこかで聞いたことがある気がする。
首を横に振った。今思い出すことでもない。それよりも、やるべきことがあった。
「あんたが子供のとき強かったのは分かった。けれど、あくまで餓鬼の頃だからな?」
念押しだけして、開けられた穴へと近づく。耳を澄ますが、静かだ。人の気配もない。
一緒になって歩いてきたレヴァスの、背後で頷く気配を感じた。
「分かっている。君こそ、これ以上怪我をしないことだ」
今度は絞めつけではすまないぞと、怖い脅しまでされた。
二人はそれぞれ背を向けて、目的地へと走り出す。
廊下に出ると、途端に血の臭いが周囲に漂った。見回して、すぐに気が付く。死体がいくつか転がっている。火傷のような跡を見るに、魔法にやられたのだろう。
それにしても、レヴァスの言い方では、あの男だけが廊下にいたように聞こえたが、実際は違ったらしい。恐らく、この惨状を伝える気にはならなかったものと思われた。同感だ。今は都中がこの有様なのだから、見知った気の滅入る報告まで聞きたくはない。どのみちこうして目に留める羽目になるのだ。
右手を歩き、曲がり角を曲がると、甲板に出る通路に戻った。ここまで来ると、死体は見当たらない。リュイスたちのいる倉庫の前に立つ。外から見る限り荒らされた様子はなかった。やはり、ここだけが今のところ無事なのだ。そっと、胸をなでおろす。できれば中を確認したいところだった。
しかし、そこまで寄り道する時間はないだろう。
くるりと体を反転させると、はじめは航海室にいくために上がった階段を、今度は駆け下りる。
その時、ふわりと体が浮く感覚に襲われた。この感覚は、半年ぶりだった。間違いようもない。懐かしさすら込み上げるそれは、飛行船が浮遊する瞬間のものだ。
空を飛んだという事実に、ほっと一息つきたくなる。少なくとも、今、機関室は全滅していないということが証明された。空を浮かせる余裕があるぐらいには、善戦しているのだろう。
態勢を立て直して、再び階段を駆け下りる。すると、剣戟が聞こえてきた。そして、響き渡る絶叫。
あの悲鳴は、どちらの者だろう。声を聞く限りでは、分からなかった。しかし、飛行船は浮いたのだ。それならば、今の悲鳴は『龍族』であるべきだった。
そう、状況は良い方向にいっているはずだ。それなのに、何故か小さな不安が、針となって心をつく。ちりちりとする感覚に、喉が鳴った。この予感を、知っていた。いわゆる、嫌な予感という奴だ。直感というものを、レパードは信じることにしている。
だからこそ、階段を下りる速度を上げた。同時に、銃を引き抜く。答えを確認したくて、気持ちが急いた。
駆け抜けた先に、複数の男女が目に入った。階段を上ろうとしたところを襲われたらしい船員の男が、相手の『龍族』の男と刃を交わしている。その背後から、蔦が船員の首を狙って絡まりつこうとしていた。
(間に合うか?)
狙いを定めて、魔法を放つ。蔦が、その光を浴びて、消し炭になる。けれど、あわせて船員からぱっと赤いものが飛ぶ。蔦は消し去ったが、船員が剣での戦いに破れたのだろう。
苦々しさを噛みしめ、駆け寄ろうとし――、寸前のところで飛びずさった。
待ち構えていたのは、新たな蔦だ。レパードに飛びかかろうとして行き場を見失ったそれは、すぐに倒れた船員に絡み付くと、戻っていく。
一太刀浴びた船員に、抵抗する力はない。悲鳴も上がらず、奥へ奥へと引き込まれていく。
慌てて追いかけたレパードは、蔦にすかさず魔法を浴びせる。その視界の端に、斧が過った。寸前のところで、振りかぶられたそれを避ける。
船員の男は、蔦に投げ飛ばされて壁にぶつかり、倒れた。悲鳴もうめき声も上がらない。気を失ったのか、間に合わなかったのか分からなかった。
レパードは、すぐに視線を、斧を振り下ろした男へと向ける。四十歳ぐらいの、屈強な男だった。その腕は、子供一人ぐらい片手で楽々持ち上げられそうなほどに、鍛え上げられている。そして血走った眼は、蛇のような瞳孔を持ち合わせていた。
男が右手の平をかざした。その瞬間、男の背後から、蔦が伸びる。レパードに向かって真っ直ぐ飛んでいく。
右斜めに転がるように避けると、その場で魔弾を放つ。振り返った相手は動きを予測していたらしい。蔦を伸ばしてくる。
魔弾は、蔦を貫いた。勢いは止まらない。男へと迫る。
その瞬間、床から盛り上がるように現れたのは、岩の壁だった。蔦を貫通する弾は、しかし岩を防ぐには至らない。その場で、閃光が弾けた。
思わず目を細めたそこに、右手から気配を感じて飛び退く。飛んできたのは、岩の礫だ。礫といっても、人の拳ほどはある。
魔法からして間違いなかった。襲いかかってきたのは別の『龍族』だ。機関室の船員は、複数人の『龍族』に襲われていると伝えてきた。だから、敵が一人ではないということは分かっていた。
閃光が収まったところで、周囲の様子を目に入れる。まず目の前にいるのが、蔦の魔法を使う男だ。そして、視界の端にちらっと映る相手は、まだあどけなさの残る少年だった。魔法を放つときに構えの仕草をしているのが、どこかぎこちない。けれど、使っている魔法が岩を呼び出す魔法だとしたら、当たりどころが悪ければ、最悪死に至る。剣も帯刀していた。断じて油断はできない。
更に、少年の背後には、女がいた。レパードと変わらないぐらいの年齢だろうが、戦場慣れしていないのか震えている。この二人の後ろには、機関室と思われる部屋の入り口が覗いていた。扉は開けられているが、中の詳しい様子までは確認できない。




