その303 『守れなかった』
目を離している間に、船外に残っていた集団は一握りになっていた。女一人と子供一人。いや、女の前に乳母車があるから、赤子を入れて三人。そして、それを守っているのが、狩人の女、マレイヤと『龍族』の焦げ茶色の髪の男、そして『龍族』ではないが剣を持った別の男。合わせて六人だ。
一方で戦っている『龍族』は三人だった。互いに向き合う形を取りながら、武器をぶつけあう。
両者の足元には、大人子供関わらず多くの死体が転がっている。その戦場の悲惨さを思えば、すぐにでもかけつけるべきだった。船の上もいささか不安だったが、それよりも過酷なのがこの船外だ。急げと、体に鞭を打って走る。
けれども、現実は無情だ。たどり着く間にも、状況は刻一刻と変わっていく。
『龍族』と剣を交えていた黒髪の男が、足元の血だまりに、足を滑らせたのだ。その隙を逃さず、『龍族』の男が、斬りかかる。足を滑らせた男に、避ける余裕はない。
「あなた!」
乳母車を引いた女が、慌てて駆け寄ろうとする。それを制したのは、腕を斬られた男だ。あなたと呼ぶ、その女の反応から察するに、この二人は夫婦なのだろう。乳母車の赤ん坊と、黒髪の子供が、二人の間の子かもしれない。だからだろうか、男は腕を斬られようと決して屈しなかった。左腕を庇いながらも、どうにか剣を振ろうとする。背後にいる妻たちを『龍族』に近づけさせまいとする意志が、そこから垣間見えた。
その反対側で、絶叫が上がった。
はっとして見やった先で、焦げ茶色の髪の男が手首を抑えて悲鳴を上げている。漆黒の鋭い瞳が印象的だった男だ。その男が、そのまま横切った剣に腹を裂かれ――、その先にいた子供がびくっと体を震わせたのを確認する。
「ギノ!」
マレイヤの焦った声からして、仲間だったのだろう。マレイヤから放たれた風の矢が、今まさにとどめを刺すべく剣を振り下ろそうとした『龍族』の喉を掻っ切る。けれど、そのせいで完全に意識が仲間に向いてしまった。マレイヤと向かい合っていた男が、機会とばかりに剣を握りしめる。
「マレイヤ!」
魔弾が、ぎりぎり間に合った。目の前を掠ったそれのおかげで、男がひるんだのだ。それに気づいたマレイヤが、男へと斧を振り仰ぐ。
「パパ!ママ!」
マレイヤに注視している余裕はない。もう一人の『龍族』が魔法を放ったのが分かった。子供の両親ともども突き抜けたそれが、子供にまで迫る。
レパードはその殺気に向かって、剣を投げた。それが何の魔法かは分からなかった。ただ、弧を描くように飛んだ剣が、子供と魔法の間に入ったことだけは分かった。弾かれた剣が、あとかたもなく真っ二つに折れる。
その隙に、子供のもとに辿りついたレパードは、彼女を抱えるようにして横なぎに倒れる。
髪のすぐ上を何かが通り過ぎた。そこで始めて、魔法の正体に気が付く。これは、風だ。風が見えない刃物となって、二人を引き裂いたのだ。
「おい、大丈夫か!」
子供に声を掛けながら、レパードは起き上がり様に、魔弾を撃ち放った。一発、二発。相手が魔弾を避けようと大きく仰け反る。
レパードの中では、焦りが生まれている。魔弾が、当たるとは全く思っていなかった。狙っていなかったからだ。だからそれはいい。それよりも、厄介なのは相手の魔法だった。空気の振動しか感じない魔法を、避け切ることはできない。当然、雷の魔法で相殺するなんてことができるかどうかも不明だ。
今までは子供の父親が相手の集中力を削っていたから魔法を使われなかったのだ。それに気づいたレパードは、すぐにでも魔法を連発することで、相手の集中力を削ぐしかなかった。
一方、子供からは、返事がない。ただ、父親と母親の亡骸に近づこうとする気配だけは感じた。
「動くんじゃない!」
レパードの怒鳴り声に、「ひっ」と引き攣った声が返る。酷だが、この魔法の使い手を前に、無防備な子供を前には出せまい。
目の前にいた『龍族』は、剣を握りしめて襲い掛かってきた。風の魔法の優位性はわかっているが、距離を離せば滅茶苦茶な魔弾が襲ってくる。だから、そうさせないようにと考えたのだろう。或いは剣技にも自信があるのかもしれない。
レパードはすぐさま折れた剣を拾った。拾った体勢から起き上がる時間はなかった。屈みこんだ姿勢で、そのまま相手の剣を受け止めきる。ぐっと体が沈む心地がした。
男が歯をむき出しにして、渾身の力を剣に乗せてくる。
ここまでされると、レパードにも魔法を放つ余裕はない。この現状を維持するのに必死だ。おまけに態勢が悪かった。相手の剣を受け流すこともできないまま、必死に堪える。
それが、男の描いた想像だったのだろう。
残念ながら、レパードは、なんだかんだでギルドで修羅場をくぐってきた『龍族』だ。だから、こんな状況でも魔法を放つのに慣れている。体中が凍りついたり、痛みが走っていて思考が乱されていたら、さすがに無理だ。けれど、男よりは余裕がある。それこそ、にやりと笑ってやるぐらいには、だ。
はっとした男が、危険を感じて飛び退った。それが好機だった。一瞬体にゆとりができたレパードは、すかさず閃光を放った。威力など考えもしなかった。殆ど暴発しかけた魔法を、それでもこの範囲であれば大惨事にはならないだろうという経験則のままに、撃ち放つ。
驚愕の顔が、その男の最期の表情となった。
振り返ったレパードは、ようやく子供の様子を確認できた。長い睫毛に白磁の肌をした見目麗しい少女だった。リュイスよりも幼く、あどけない。人形のような端正な美しさと相まって、どこか儚なかった。紫の宝石のような瞳が、ふるふると揺れている。
「怒鳴って悪かったな。大丈夫か」
親の元に行ってもよいという印に、レパードはそっと横に避けた。
しかし、少女は動こうとしない。
はっとしたレパードは、少女に近づいた。
彼女の瞳は、ふるふると揺れているだけではない。驚愕するように、或いは怯えているように見えた。それに、気のせいか、どこか視線がずれている。その薄紅色の唇が、何かを紡ごうとして、ぱくぱくと動いている。
そこでようやく察した。ラビリはもう少し大きかった。けれど、この子供はまだ幼い。三歳か四歳ぐらいにしか見えない。その子供が目の前で両親を失ったのは、どういうことか。ことの大きさを、今はっきりと意識する。
「守れなくてすまなかった」
子供の瞳から、涙が溢れていく。その手が、親がいた場所を掴もうと空を切った。振り返ったレパードは、気づく。やられたのは両親だけではない。そこにあった乳母車に穴が開いている。中の子供の状態は、とてもではないが口にできるものではなかった。
「本当にすまなかった」
きっと、ここにいたのがこの子の親ならば、抱きしめてやっただろう。けれど、レパードの手は今、血にまみれていた。この色を彼女に付けてしまっていいのか、思い悩む。
少女は、レパードの言葉にも反応を見せなかった。瞳から流れ続ける涙が、返事のようでもあった。
「助かったよ」
はっとして振り返ると、マレイヤが斧を抱えながら歩いてくるところだった。足を引きずっているのを見て気が付く。
「負傷したのか」
「まあね」
それでも怪我を感じさせないさっぱりとした表情は、さすがといったところだろう。マレイヤは、先ほどギノと叫んだ男の元まで行くと、彼の脈を測った。少しして、首を横に振って立ち上がる。
「生存者は私たちだけか。けど、こうして生きているのも、あいつらが戦いの素人のおかげかね。レパード、私はこの怪我だ。都を一回りしたいところだったけど、もう船に乗るよ」
マレイヤの言葉に、レパードは頷く。この急な襲撃だが、マレイヤの指摘通り、相手は戦の素人のようだった。『龍族』だから、魔法は使える。剣も持っていた。レパードよりは使いこなしてもいた。だが、練習はしても実戦は初だろう。狂気で動いているだけで、連携もなければ戦略もない。
とはいえ、逆にカルタータの都の人々が戦い慣れているかと言えばそうではない。剣を振るって応戦する人々も素人ばかりだ。今日初めて剣を握った人間もいるだろう。ここは、平和すぎた。
恐らく一番戦い慣れているのが、狩人だ。けれど彼らも外の世界で魔物に遭遇している程度のことで、人との戦いに慣れているわけではないだろう。マレイヤは平気そうな顔をしているが、きっと苦しいはずだ。人との戦いと魔物との戦いは決定的に違う。何より、人を撃つのは自身の心が痛む。そうした躊躇が、自分の身を危険に晒す。それを頭では知っていても、実際に体で実戦するとなると、心が軋むのを感じるばかりだ。
それに、仲間を失った悲しみもあるだろう。マレイヤがちらっとギノと呼んだ男を一瞥するのを見て、胸が痛んだ。
そういう点でいけば、レパードには優位性があった。二回目だからだ。魔法が暴発するぎりぎりの瀬戸際を把握できてもいる。難点は右目を欠いていることだが、それも射撃場での練習で補ってきていた。そう、自分を説得させる。レパードの今の目的は、リュイスを救いだすことだ。息切れしようと、一つ間違えば自分の首が飛んでいようと、尻込みしている時間はなかった。
「俺は人を探さなくてはならない。ついでにこの子供を頼まれてくれるか」
「分かっているよ。おいで、ちっちゃなお嬢ちゃん」
マレイヤの言葉にも、少女は反応しなかった。マレイヤはそんな彼女の手を握る。
「行こうか」
優しく声を掛けてから、ゆっくりと引っ張った。
少女は両親から離れたがらないのではとレパードは不安になる。
けれど、彼女の体は、マレイヤの力を受けて引きずられるように動いた。ただ、手だけが遠ざかっている家族の死体へと延ばされている。
「ごめんよ。私たちには死体に構っている余裕はないんだ」
マレイヤはそう呟いてから、レパードに向き直った。
「何やっているんだい?人を探すんだろう」
もう二人だけで戻れると、言外にそう言われた。本当は、いつここに再び新たな『龍族』がやってきてもおかしくない状況だった。そんな中、子供と足を負傷した女を残しておくのはどうかとも思った。
「あぁ。恩に着る」
レパードはそれを理解して尚、二人に背を向けた。マレイヤの親切心を無駄にするつもりはなかった。それに、少女の虚ろな瞳が頭の中でちらついていた。
リュイスには、どうか、生きていてほしい。それが第一だ。それに加えて、リュイスを、あの心優しい少年を、あんな目には遭わせたくなかった。




