その300 『セーレ目前』
「リュイス、どこだ!返事をしろ!」
診療所を抜けると、周辺は炎に包まれていた。火の手はひどくなり、血の匂いもきつくなっている。
学校の場所は分からなかったから、誰かを捕まえて聞きだしたかった。だが、生きている人間が見当たらない。いるのは、あちこちで非道を繰り広げる『龍族』だけだ。都が完全に蹂躙されるまで、きっとそれほど時間は残っていない。
かつて花畑だった場所を駆けながら、レパードは歯を食いしばる。踏みつけた花は、どのみち燃やされる運命だ。リュイスに教えてもらったティニアセージも、誰かに踏み折られてしまっている。
リュイスが学校にいるという保証もなかった。もう一つ可能性があるのが、新空式の開催される場所だ。初めてセーレという飛行船が空を飛び立つ場所。しかし、そうしたお披露目をするとしたら、一体どこで行うものなのか。広い場所であろうことはわかる。けれど、それがどこかまでは分からず、片っ端からこうして走るしかない。
そうこうするうちに、風車の前を通り過ぎる。少し前までここで犬と駆けていた子供がいたなどとは思えない、凄惨な状態になっていた。風車のプロペラ自体、一部が吹き飛び草地へ落下している。花は残らずへし折られ、火の粉が飛んできたのか、一部焼け焦げている。
あんなに美しかった花畑は、今では絶望の象徴のようだった。たまらず、顔を上げる。
あっと声を上げかけた。見上げたその先に、広々とした空間がある。広場だと気がついた。白い煉瓦で舗装された地面が、目の前に広がっている。建物は何も立っていなかった。だから広場の先で、紋様を描いていた障壁がくっきりと見えた。場違いな青い空が、そこに広がっていた。
はっとする。その青い空と白い地面との間に、飛行船が佇んでいた。戦艦ではない。木造の船だ。ギルドでよく使われる形に近いが、遠くからでも大規模なものであることが分かる。
ここだったのだ。そう悟った。花畑を少し歩いたその先、ここにセーレがあったのだと。
そのとき、大きな音が弾けた。
目を凝らして、見つけた。飛行船の前で、何かが起きている。激しい火花が飛び、風が吹き、氷が地面から立ち上る。残された人々のわめき声と、剣のぶつかり合う音が聞こえてくる。空を飛んでいる何人かは『龍族』だ。下降する彼らを待ち受けるのは、『龍族』と『龍族』でない人たち。急襲者との攻防が、そこで繰り広げられていた。
いてもたってもいられなかった。あのなかに、リュイスがいるかもしれない。その可能性に、掛けた。
「リュイス!」
今度こそ、生きててくれ。のろまな豹が守れなかった、どこかのやぶ医者のように、お前はならないでくれ。
追い風が、火の手とともにやってくる。それに合わせて、翼を伸ばした。折れていたが、この半年で完治に至った。足が、空を蹴る。風に乗って飛ぶ体は、走るよりはずっと早い。それに、白い煉瓦道には、数えきれないほどの亡骸が落ちていた。真新しいそれを、足蹴りにはしたくなかった。
人の群れが大きくなっていく。彼らは飛行船を前にして、『龍族』の集団に囲まれていた。本当は船内に逃げ込みたかったのだろう。けれど、逃げ切る前に囲まれてしまった。もし、彼らが花畑の方からセーレに向かって逃げてきたのだとしたら、彼らは亡骸の仲間にならずに相当持ちこたえていた方だろう。好き放題魔法を使える彼らに対して、人間は限りなく不利である。
一人の『龍族』が人々の群れの中に突っ込んで、ある男を空中まで連れ去った。そうして空から放り投げる。
嫌な音が聞こえる気がして、思わずレパードの顔が歪んだ。悲鳴があたりに響き渡る。混乱に乗じた他の『龍族』が、人の輪の中に突っ込んだことで、人の群れは大きく二組に両断された。そんな中で数人の人間と『龍族』がともに戦っている。剣をぶつけあい、魔法を飛ばし合っている。
まだ、彼らに近づくには距離があった。大きくひび割れた煉瓦の道を、ひたすら飛び続ける。せめて魔法が届く距離まで近づかなければ、誤射してしまう。それだけは絶対にしたくなかった。
人の輪郭がはっきりと見えてくる。襲っている『龍族』は全部で十二人のようだ。否、たった今一人の人間が『龍族』の胸にレイピアのようなものを突き刺したから、十一人だ。一方で襲われる側の人数は十二人。しかし、中には子供も混じっている。どこにも翠の髪をした人物がいないのを見て取って、レパードは、外したと気が付いた。ここに、リュイスはいない。
だからといって、ほおっておける状況ではない。今まさに一人の人間が膝をついた。そこに『龍族』が斬りつける。子供のものと思われる悲鳴が上がる。それに気をひかれた『龍族』の男が、更に子供のもとに駆け付けようとする。剣を掲げて、振りかぶろうとしていた。
仲間の『龍族』と思われる男はいるが、ちょうど背を向けた位置で戦っている。手が離せないのだろう。振り返る余裕はないように見受けられた。
「させるか!」
この距離なら誤射はあり得ない。たとえ、右目を失っても、ここでミスすることは許されない。引き金を引いたレパードは、魔法の力をありったけ込めた。閃光が走り、子供に剣を振りかざそうとした『龍族』の頭部で、その光が弾ける。
「目を閉じてろ!」
子供に命令してから、すぐに右手にいた新手の『龍族』へ魔法を飛ばす。相手は突然の乱入に対処できなかったらしく、光を受けてひざを折った。
「お母さん!」
子供の悲鳴に近い声で、子供が目を閉じていなかったことを知る。そして、その声と同時に、気が付いた。子供の近くにいた母親と思われる人間の腹から、剣が生えていた。崩れ落ちる母親の先で、血走った蛇のような瞳の男が立っている。あの男が今、子供の母親を刺したのだ。
レパードは渾身の力を魔法に込めて、叩きつけた。光が男の元へ駆けたその寸前で、白い壁に阻まれる。
なんだあれは。訝しむレパードの目の前で、男の口の端が上がった。察するに、あの謎の壁が、男の魔法らしい。魔法を弾く特別な壁だろうか。まるで、雲のように渦を巻いて、降りかかる魔法をその中に吸い込んでいってしまう。
「こいつを借りる!」
銃も魔弾だ。同じ壁が相手では、恐らく効果が薄い。近くに落ちていた誰かの剣を握りしめて、子供の前へと立つ。子供は、母親に近寄ろうとしているところだった。こうしてみると、リュイスよりは少し年上だろうか。茶色の髪を肩まで伸ばした色白の少女だ。
目の前で、母親を刺されたと思うと、胸が痛かった。せめてと、母親ごと背にして、男と剣で向かい合う。
すぐに腕に衝撃が走った。正直に言うと、剣は不得意だ。握り方からして怪しい。相手もこちらが素人だと気が付いたのだろう。にやりと口の端がさらに上がっていく。相手の態度を見るに、向こうの方が分がある気がした。
じりじりと、剣が手前に押しやられていく。歯を食い縛り、両手で食らいつくように剣を握りしめた。男の顔が近づいてくる。このままだと押し切られる。直感したレパードは、すぐに剣での勝負を取り止めた。
押しきられるその寸前のところで、相手の剣に向けて、雷を放ったのだ。稲妻が、剣を辿って男に走っていく。瞬きする間もないその時間に、相手の体が不自然なほどに痙攣して、一気に後方に吹き飛んだ。壁を出す余裕はなかったらしい。おかげで助かった。ただ、余裕がなかったのもあって、レパードの魔法が思いの外強すぎた。地面に体をぶつける男の、嫌な音が響く。放電したせいか、皮膚の焼け焦げる匂いもした。
「仲間か!助かった」
別の相手と対峙していた『龍族』の男が、こちらにやってくる。見たところ、レパードより年上だろう。焦げ茶色の髪に、漆黒の鋭い瞳が印象的な男だ。すらりとした背に、鱗だらけの耳がリュイス並みに長い。筋肉質な腕には剣が握られている。その剣から血が滴っていた。戦っていた相手を倒したところらしい。レパードも三人倒したので、これで七人には減ったはずだ。
「俺はあっちにいく。この子たちを頼む!」
ろくな挨拶もなしに、『龍族』の男から指示を受ける。頷く暇もなかった。その時にはもう、男は分断されたもう一組に向かって走っている。こうなっては、大人しく指示を聞くしかない。
「大丈夫か?」
振り返ると、子供が母親から何かを受け取ろうとしているところだった。すぐに気が付く。赤子だ。赤子が、布にくるまれていた。母親はこの赤子を守ろうとしていたのだろうか。剣で刺されながらも、子供にゆっくりと引き渡す。
赤子の泣き声が響き渡った。まるで、母との別れを悟ったかのようだ。
子供の目にも、涙が浮かんでいた。それでも、口をぎゅっとつむって、何度も頷いている。母親が何かを伝えたのだろう。それを聞いているのだ。
一通り伝えきった母親が崩れるように、力尽きた。
最後に、赤子を受け取った子供は、母親を安心させようとしてか、声を張り上げた。
「クルトは私が守るから、大丈夫だよ。お母さん」
それは、或いは自身に言い聞かせるような声だった。
そうして、切り替えたのか、少女は立ち上がり、レパードに向き直る。
はっとする。子供とは言ったが、その桃色の瞳からは、はっきりとした意思が宿っている。顔についた血糊にもうろたえず、ピンと背筋を伸ばしたその様は、大人顔負けだった。
「私は、平気です」
こんな事態でも動揺を顔に出さない。その強さが眩しかった。
「生き残っている人たちで、飛行船のなかに立て籠っているって聞いています。ついてきてもらえますか」
そうか、とレパードは合点がいく。恐らく新空式の関係で人が大勢集まっていたのがこの場所だった。だから自然と皆、ここに逃げ込み立て籠ろうとしたのだ。そうして残りの新空式に参加しなかった人も、噂を聞いてか、飛行船のなかへ避難しようとした。そのうちの数名が、今の集団なのだろう。
ただ、それにしては、しっくりこないことがある。
こうして、ほぼ飛行船の目の前にたどり着いたというのに、飛行船から助太刀がないのだ。飛行船も飛行船で余裕がないのかもしれない。少なくともセーレにたどり着けば助かるなどと、安易に考えることはできまい。
「分かった。お前のお母さんは……」
どう運び出そうかと考えたところで、子供が首を横に振った。その勢いで隠れていたメッシュが覗く。
「母は既に亡くなっています。父と一緒にいさせてあげてください」
その言葉で、ようやく気が付いた。レパードが今握っている剣は、落ちていた誰かの剣だ。その誰かは背から血を流して地面に横たわっていた。あれが、父親なのだ。レパードは、この子の父親の剣を使っていた。
「とにかく、こっちです。えっと……」
「レパードだ」
子供は、こくんと頷いた。
「私はラビリです。よろしくお願いします!」
飛行船はすぐ目の前に見えている。赤子を抱えて走り出した少女を守るように、レパードも駆けだした。




