その294 『リュイスの家』
二か月も経てば、松葉杖をついて歩けるようになった。少しずつリハビリも始めている。けれど、やはり右目だけは治る見込みがないらしく、薄っすらと光が分かる程度にとどまっている。おかげで、感覚を掴みきるまでに時間がかかった。
テーブルに置かれたサンドイッチを掴もうとして手が空を切る。体中が満足に動かないせいで、無駄な動きをするのが堪える。
体を再び伸ばして今度こそサンドイッチを掴むと口に入れた。
他が治りさえすれば、きっと片目だけでも生活はできるのだと実感する。けれど、レパードの武器は銃だ。遠近感が分からないようでは、魔物に襲われたときに生き残れない。実際、片目になってもギルドに居続けた知り合いが半年以内に亡くなった。視野が狭まっていることはそれだけ危険に晒されやすいということだ。危険のない今のうちに、右目の不足を補えるようにしておく必要がある。
それにしても、相変わらず、サンドイッチは絶品だ。瑞々しいトマトに、しゃきっとしたきゅうり、鶏肉のしっかりとした味が口の中で広がる。そして、ふわふわとしたパンだ。これが具材を優しく包み込んでいる。美味と感じることに、不思議な心地がした。作り手がうまいのもあるが、所詮はサンドイッチだ。できることには限りがあるはずなのにと首を傾げる。その時舌の上で塩分を拾った。
「そうか、野菜に塩が……」
水分を飛ばすのに使っているのだろう。だからパンが水気にやられずふわふわなままなのだ。
感心以前に、疑問が浮かんだ。塩は、特別な岩がないと取れない。レパード自身詳しくはないが、特別な岩は特別な岩山にあるものだろう。けれど、この都はドーム状の障壁に覆われている。あの限られた範囲に、岩の手にはいる場所などあったのだろうか。
リュイスが以前話していた狩人の存在を思い出したが、その名のとおり狩人だ。狩猟をしているのだと思うと、塩を採取しているかどうかは疑問になった。何せ岩は重い。味を知らなければ、削って持って帰ろうなど考えないだろう。
「あぁ、客人から聞くんだよ」
疑問をぶつけにティルツのいる受付まで向かうと、ティルツはそう答えた。今日も診療所は閑散としていて、客などレパード以外にいない。そんなところでぽつりと受付をやっている医者は、どうせ客がこないのをいいことに椅子に崩れ落ちるように座り込んで、片手で本を読み漁っている。とてもではないが、商売繁盛しているとは思えなかった。
「客人?」
「君たちのことだ。外から知らずにカルタータに入り込んだ者たち」
あぁ、と合点がいった。外からの文化はレパードたちのような存在を通して、伝わっているらしい。しかしここで新たな疑問が生まれる。カルタータは『龍族』以外には一方通行だ。『龍族』など、殆ど外にはいない。つまり、外から来た者たちの大半は、出られなくなるということだ。
「そいつらから不満は出ないのか?迷い込んで入って、一生出られないんだろ?」
「あぁ、出るね」
当たり前のように、ティルツは本を顔に向けたまま頷いた。
「昔なんてそれで殺傷事件にまでなってね。大変だったよ」
まぁそうなるよなと、レパードは腕を組もうとして松葉杖だったのを思い出す。全く、不自由な体である。
「まぁ、君は幸いいつでも外に出られる。気のすむまでいればいいさ」
ティルツの言葉に、「まぁな」と返す。それから閑散とした診療所内を見回した。
「にしても、金は本当にいいのか?」
ティルツは、レパードから治療費を一銭も取っていないのだ。
「構わないよ。どうせ、ここの通貨など持ってはいないだろう」
「まぁそうだが」
だからといって無償奉仕でどうにかできるような余裕はない気がした。
「いいさ、食っていけない分は兄さんからもらう」
「おい」
見たことのない兄の、苦労する顔が浮かぶようだ。相変わらずである。だが、ここまでの付き合いで大体把握している。ティルツは、妙なところで、気を遣う。文無しのレパードから金をとろうとしない、一種の照れ隠しなのだと受け取ることにした。
「今日は、外を散歩してみたらどうだ」
ティルツがぽんと本を閉じる。どうも自分自身も息抜きがしたいらしい。
「そうさせてもらうか」
ティルツにガラス扉を開けてもらって、松葉杖をつきながらどうにか外に出る。途端にそよ風が、頬をさすった。眩しさに目を細めながらも、感覚だけで前へと進み出る。外にもだいぶ慣れてきた。
ティルツが「CLOSED」の看板を立てかけている。どのみち患者も来ないのだと分かっているレパードは、当たり前のようにそれを見送った。カルタータでは怪我人、病人が少ない。それは龍の加護があるおかげなのだろうか。
空を見上げると、龍の意識体が上空から尾を垂らして進んでいく。意識体は常に動いているせいで、見るたびに位置が違う。淡い色の尾がゆらりゆらりと揺れている様は、何とも不思議な光景だ。
「今日は神殿の方面まで歩いてみるかい?」
「さすがにそこまでは自信がないな」
神殿とは、カルタータの都の中央に位置する灰色の建物のことだ。リュイス曰く、そこにある祭壇に狩人が獲物を捧げるらしい。神殿には姫巫女という存在がいて、彼女がこの都を統治していると聞く。最も今の姫巫女はリュイスと同じぐらいの年齢らしいので、実際はその補佐役が代行しているのだろう。
「まぁ、行けるところまで行くか」
白い建物の間を縫うように、ぽつりぽつりと進んでいく。体に負担はかかるが、以前よりだいぶ歩けるようになった。前までは診療所の中を移動するだけでくたくたになったものだ。せめて痛みがなければと思うのだが、この痛みこそが厄介だった。傷は治っても痛みが続いたからだ。
「この辺りに、射撃場みたいなところはないのか」
隣をゆっくりと歩いているティルツに確認をすると、おやと片方の眉を持ち上げて神妙な顔をされた。
「君からそんな前向きな発言が出るとはね」
「まぁ多少はな」
その前向きさは、ラヴェに裁かれるためであり、つまるところ死へと向かうためである。この二ヶ月でぼんやりとした考えを、今はそうしてまとめつつあった。だが、それは言わない約束だ。
「リュイスの自宅の道場を使わせてもらえばいい。あそこは狩人の練習場にもなっていたから射撃場もあったはずだ」
「なるほど」
いまだにあのあどけない少年に鍛錬という言葉が結びつかないが、確かに祖父が剣の師範代と言っていた。剣だけでなく射撃場もあるとは、ずいぶん大規模のようだ。
「折角だ。そこまで遠くはないから行ってみるといい」
こっちだ。とティルツが進んでいく。リュイスほどの子供が毎回行き来している距離だ。ティルツの発言からしても近いのだろうと思ったが、到着する頃には汗だくになっていた。
「ここか」
あまりの高さに、見上げる形になった。堅牢な白い門が、聳え立っている。隣に植えられた大樹も相まって、神聖さすら感じられた。数人がかりで開けられそうな頑丈な門扉は、今は開いていて、誰でも入ることができるようになっていた。だから、その奥に何軒か建物があるのが確認できた。その建物のどれも白い小屋の形をとっている。そこから、大きな掛け声が聞こえてきた。気迫に満ちた、威勢の良い声だ。声の数からして、数十人はいるだろう。
思った以上に本格的な雰囲気に、背筋をびしっと伸ばしたくなる。しかし、そんな余力も今は残っていない。松葉杖に寄りかかるので精一杯なので、とてもでないが、これから射撃の練習ができる体力も残っていないと判断する。当面の目標は、この道場を往復できるようになることだなと結論付けた。
ティルツも分かっていたのだろう。レパードの様子を見て、発言する。
「まぁ、今日は様子見というところだろう。射撃場の練習の許可は取っておくよ」
全く、ありがたい話だ。返事を返しながら、レパードはちらとティルツを目で確認した。門の前に聳えた大樹の影に、美顔が覆われている。その細顔は、どちらが病人か分からないほどには青白い。レパードが回復したら、せめて何か喜びそうなものを渡してやろうと心に決めた。




