その292 『男たちの花見』
「ここです!」
知らぬ間に俯いていた顔を上げた。その瞬間、入ってきた光景に、鬱々とした気持ちは吹き飛んだ。
目の前に広がっていたのは、花畑だった。赤、青、黄、水色に柑子色、紫に、白。色とりどりの花が、大地いっぱいに広がっている。
手前の地面は、濡れていた。膨らんだ釣り鐘のような形をした白色の花からは、水やりをしたばかりなのか、水が滴っている。
一方、遠くでは、風車が回っている。その近くで、子供たちが駆けっこをしている。花は踏みつぶさないよう、レンガで舗装された路を走っていた。ペットと思われる犬がその後を追いかけて、追い越す。その勢いではないだろうが、淡い桃色の花びらが、緩やかな風に乗って彼らの後を追うように舞っていく。その奥で、境界線である障壁の文様が青空越しにうっすらと浮かんでいた。
花を見て感動するのは、女子供だと勝手に決めつけていた。これまでレパードには花を愛でる習慣はなかった。そんなもので喜ぶような、心の余裕はないと思っていた。それなのに、この一面の花畑に心が震えるのは何故だろう。
「凄いな」
ありきたりな言葉しかでてこない自身が、憎い。
ティルツがしてやったりと言わんばかりの顔を向けた。
「そうだろう?足が動くようになればいつでもここに飛び込めるぞ」
余計なことを言うせいで、レパード自身がこの花畑にダイブする最悪の想像が浮かび上がる。ぞっとして慌てて首を横に振り払った。格好悪いどころではない。二十歳を少し過ぎたばかりの髭を生やした男と、この花畑という組み合わせは、滑稽過ぎるほど似合わない。第三者がここにいれば、頭がいかれたと思われることだろう。
「誰が飛び込むか、誰が」
全くどんな乙女思考をする医者だ。と、ぶつぶつと言い返す。折角の感動を一瞬で葬るほどには、ティルツは空気が読めない。
「でも、学校のみんなで育てたお花なんです。綺麗でしょう?」
リュイスが少し誇らしそうなので、見ていてほっこりする。どこかの医者とは大違いだ。
「そうか、花当番はここのか」
それに、素直に凄いと称賛できる。これほどの花畑にするには、てきとうな世話では無理だろう。
「はい!せっかくなのでお弁当も作ってきました」
一緒に食べようと言わんばかりの笑顔に、レパードの顔は引き攣った。ここに女の一人でもいれば違うのだろうが、レパードの感覚では、男三人で花見に手作り弁当とは、中々勇気がいることだと思うのだ。
しかしリュイスの表情は輝かしいばかりで、レパードの気持ちなどまるで理解していない。その純粋な笑みに、嫌だとは口が裂けても言えなかった。
「って、酒かよ」
リュイスがお弁当を広げる横で、ティルツが取り出したのは、瓶。ラベルに酒の銘柄らしい記載が書かれている。
「当たり前だろう」
そう言いながら昼間から颯爽と仰ぐティルツは、最後にぷはっと息を吐く。たまらないとか、この一杯に生きているとか、呟いていた。
「一気に爺臭くなったな」
女のいない女子力に溢れる花見も嫌だが、これはこれでごめんである。
「なんだ、君はいけない口か?」
そう言って瓶を近づけようとするので、必死に顔をそむけた。既に酒臭い。
「病人に呑ませようとするな、このやぶ医者が」
文句を言うと、ティルツがにこやかに笑う。
「酒は百薬の長だぞ」
「命を削る鉋だ」
すかさず言い返せば、「君はわかっていない」と言われる。
「リュイス、何か言ってやってくれ。君ならわかるだろ」
困った顔を浮かべるリュイスにはひどく同感だ。
「未成年に同意を求めようとするな!」
花見に来たはずなのに、怒鳴るのに随分忙しくなってしまった。
気づけば日が傾いている。弁当を平らげた後も話に花を咲かせた――、正確には酔ったティルツの相手をするのに忙しかった、レパードたちはようやく片づけに入った。
「あっ、これがティニアセージです」
空になった弁当を畳みながら、気が付いたようにリュイスが指を指す。その指の先は、今頃話題に上がるのも分かるような、一区画先の花壇にあった。
「あぁ、あの花か」
こないだ病室に飾ってもらった、桃色の花が確かに自己主張している。こうして群れるように生えている様は、中々圧巻された。
「ハーブ系は、増殖しやすいんです」
レパードの感想を先読みするように、リュイスが補足する。
「なるほどな」
レパードは動けないので、殆ど見ていることしかできない。風にそよぐ花を見つめ続けていると、更に何か言わなくてはと思ったのか、リュイスの言葉が続いた。
「花言葉は『家族の愛情』、『生まれ変わる』、らしいです」
それはどういうつもりで口にしたものなのか、いまいち意図が掴めなかった。ただ、「そうか」と相槌を打てば、リュイスがそそくさと片づけを続けだす。
「よし、これで片づけは終わった。帰るとしよう」
ティルツの言葉に、リュイスが頷く。
レパードは最後に、名残惜しむように花畑を見回した。影が落ちてきたせいか、花びらが僅かに閉じ始める花もある。それでも、夕暮れに照らされた花には、風情があった。
レパードが納得したことを確認したリュイスが、車椅子を回してくるりと向きを変えた。
そうして、帰路を進み始める。
暫くは、車椅子を押され続ける時間だ。レパードはふと、リュイスを見上げた。
「そういえば、リュイス。お前の家はどこにあるんだ」
リュイスがくるりと首を横に向ける。視線の先には、住宅街らしい白い建物が立ち並ぶ一画がある。
「僕の家はあの区画の先にあります」
あの白い建物の更に先と聞いて、想像していたよりも遠くから通っていたのだと気づかされた。わざわざ診療所まで行ってから自宅に向かうと、リュイスは往復することになる。普段学校の帰りに診療所を寄るときよりも、更に帰りが遅くなるだろう。大人二人が子供に送ってもらうのもおかしい気がして、レパードは提案する。
「酔っているとはいえ車椅子を押せる奴は他にもいるんだ。無理に診療所まで送っていかなくてもいいんだぞ」
「いえ」
遠慮が口に出たリュイスに、レパードは続けた。リュイスの優しさはここまででよく知っているからこそ、遠慮するのは初めから分かっていた。だから、ここにはいない第三者を挙げるべきだと思ったのだ。
「今日はいつもよりも遅い。親御さんたちも心配するかもしれないだろ?」
それまで動いていた車椅子が、小石を踏みつけて止まった。
リュイスの顔が夕暮れに照らされて、曇っていた。その背後で、ティルツが天を仰いでいる。それで、レパードは失言をしたと悟った。
「その、両親はいない……、ので」
遠くで、「ただいま!」という声とともに扉を開ける音がした。「お帰り」という女の声が聞こえてくる。扉の閉まる音が、抗議するように小さく響いた。
リュイスが、同情するレパードの表情を見て、はっきりと変わった。
レパードは確信する。リュイスは子供にしては、聡すぎる。周囲の人の感情の機微を観察して、それに合わせて対応してしまえている。まっすぐで純粋ではあるものの、無邪気とは程遠いところにいる。だからこそ、取り繕われた笑みは、あどけない顔立ちにあまりに似合っていない。
「あ、大丈夫です。その、代わりに祖父がいるので」
祖父母ではなく、祖父だけなのだなとしんみりと思う。とはいえ、努力して繕われた笑みを壊すほどには、レパードも腐ってはいない。
「そうか、ならお前のじいさんが心配する頃だろ?」
今度のリュイスは大人しく引き下がった。
「はい、そうですね」
言葉だけならただの受け答えなのに、その口は、きりりとまっすぐに結ばれている。
「一人で帰られるかい?送っていってもいいが」
一応のティルツの気遣いに、リュイスは首を横に振った。
ティルツも予想していたのだろう、あくまでも軽く言う。
「そうかい。僕としては、そこの口の悪い車椅子の男よりリュイスを送った方がずっと嬉しいんだが」
「おい」
ほろ酔い状態なのか、今日はずっとこの調子だ。とはいえ、口調はしっかりしている。これで一人で一瓶丸々空けているのだ。飲めないレパードからしてみれば、こいつは底なしだと呟きたくなる。
「大丈夫です、いつも一人で帰っていますから」
はにかんだリュイスが礼をして、帰っていく。その顔は、ティルツの軽口を受けてか、先ほどよりもずっと自然だった。
ほっとしたレパードの、車椅子が再びからからと動き出す。車椅子を押す役目は、ティルツに変わったのだ。
「酒臭い」
「押してもらっているのにその言い草。置いていくのも手だろうか」
「さっきからそうだが、医者の癖に患者を置いていくとかどうなんだ」
早速言い合っている二人の言葉が聞こえたのだろう。リュイスがちらっと振り返ってこっちを見ている。
「天使を心配させるのは、悪い気がする。帰るとしようか」
あくまでリュイスを気遣う医者に、レパードは溜息をついた。
「ぜひ、そうしてくれ」




