その288 『つけてくれよ』
レパードの体は少しずつ快方に向かっていく。寝てばかりな毎日だったが、痛みの類いは確実に和らいでいっている。
「さて、目の調子はどうだい」
この日も、ティルツが病室にやって来て、すぐに包帯を替えにかかる。
「大して変わらない」
包帯がするりと落ち、手にかかる。左目をつぶると、暗い視界が僅かに光を感じて白く染まるが、両目を閉じているのと変わらないほどに、変化がない。
「うーん、やはり厳しいかね」
どうせそんなことだろうと言わんばかりの口調だった。医者だというのに、全くそのあたりに配慮がない。
「希望のないことを言う医者だな」
言った途端、右目に衝撃を感じた。塗り薬をわざと傷口に強く抑えるように塗ったのだと気づく。怪我人に手を挙げるとは、とんだ医者もいたものだ。
「いてて、もう少し優しくできないのか」
「それは君の口次第だろう」
飄々と言ってのけながらも、ティルツの手は替えの包帯を巻き始めた。
「全く、毎日口の悪い野郎の看病ばかり。もっとお上品な美男美女の相手が良かったとつくづく運の悪さを嘆きたいよ」
言葉にしている時点で充分嘆いているし、仮にも医者が客を選んでいいのかと言いたくなったが、ちょうどそこに、「失礼します」という声がかかった。
レパードの目に、リュイスが部屋に入ってくる様子が確認できた。
くるりと振り返ったティルツが満面の笑みで出迎えていることは、見えないが今までの経験から想像がつく。
「いらっしゃい。昨日はこなかったようだけど、何かあったのかい?」
リュイスの眦がそっと下がった。
「すみません。昨日は急遽お花当番を代わったので、来られませんでした」
お花当番とは何かというと、集団で育てている花に水を撒く当番のことらしい。
「いやいや、毎日こんな男のために通い詰める方がどうかしているんだ。責めているのではないよ」
ティルツの口の悪さは、ここ数日ではっきりと悪化している。
「滅茶苦茶言いやがるな、このやぶ医者」
けなし返すと、ティルツが本心では全く笑っていないだろうと分かる満面の笑みで振り返った。
「誰がやぶ医者だい、こと命の恩人に対して冷たい態度じゃないか」
「怪我人の傷口を抉る医者に決まっているだろ」
右目のことを根に持って告げると、ティルツもやり返す。
「おかしなことを。傷口を抉るのがだめなら、その医者は手術もできない無能な奴さ」
「患者を選り好みする奴が何を言っても説得力はないがな」
ティルツの眉がぴくりと上がった。
「ほぅ?」
「あ、あの……」
二人の大の大人のじゃれ合いに、困った様子でおずおずとリュイスが切りだす。
がばっとティルツがリュイスを振り返った。あの反応速度を見る限り、選り好みは本当にしていると思われた。リュイスのことを過去に天使と呼んだことを思い出して、レパードはやれやれとため息をついた。
「これ、差し入れです」
リュイスが籠を差し入れる。中には、いつものように二人分のサンドイッチが入っているのだろう。このサンドイッチが絶品だった。末恐ろしいことにこの少年の手作りらしい。
「いつもありがとう。ありがたくいただこう」
にっこり笑うティルツに、レパードが再度溜息をついた。二人分とはいえ元々の差し入れ相手はレパードだろうに、完全に無視されている気がする。
「悪いな、いつも」
リュイスに礼を言うと、リュイスはにこりとはにかんだ。どこかの誰かとは違う、混じりけのない純粋な笑みだ。
「それでは、僕はこれで」
短い時間だったが、これもまたいつものことだ。
「今日も学校かい?」
「はい。今日は友達に勉強を教える約束があるので、夕方はいつもより遅いかもしれません」
「構わないよ。でも、楽しみにしている」
まるで彼女が彼氏に話す言葉だろ。と心の中で突っ込みたくなる。
同じ気配を感じたのだろう、リュイスが少したじろいだ。
「えっと、いってきます」
それでも真摯に返事をすると、すぐに会釈をして出ていく。扉が閉まるのを二人で見送った。
「今朝は鍛錬をしてからいつも、ここへ来るらしい。大した子だよ」
「鍛錬?」
少年に似合わない単語に、眉をひそめる。
「あの子の祖父が、剣の道場の師範代でね。あの子も、一応参加しているらしい」
あの虫も殺せなさそうな少年が、剣を振る様は想像しにくい。さぞ苦労しているだろうなと勝手な予想をたてる。
それにしても、ここに来てから信じられないことの連続だ。部屋から一歩も出られないせいで、リュイスからしか情報を得られないが、それでも驚きだった。『龍族』が当たり前のように、学校に通い、友人に勉強を教えるという。学校の規模も聞く限り大きいようだ。花当番だけでなく、日直に、ペットの餌やり当番のようなものもあるらしい。
全く未知の世界だった。
「そろそろ、ネタばらししてくれてもいいんじゃないか」
ぼそりと、ティルツに振ると、「まぁ、そうだね」と返る。今まではこの返事も返らなかったから、そろそろ話して良いと判断したのだろう。それほどには、レパードは快方に向かっているらしい。
「大体、察していると思うが、ここには看護師がいなくてねぇ」
と思いきや、何だかずれた話をされた。
「お陰で、野郎の相手も私がしないといけない。面倒なことこのうえない。あぁ、美女看護師と接していられる兄さんが羨ましいったらない」
「おい」
そういう話ではないという意味で声を発する。ティルツは肩を竦めた。
「やれやれ、余裕のない男だ」
「お前がまどろっこしいからだ」
そこまでの会話が進む間に、包帯を取り替え終えてしまった。
ティルツは、一度部屋を出ていくと、手拭きを持って戻ってくる。すぐに、テーブルにおかれた籠からサンドイッチを取り出し始めた。毎回恒例の朝食時間だ。
「ほら」
「あぁ」
テーブルまで乗り出せるほどに回復していないため、サンドイッチを手渡しでもらう。見ただけで鮮やかな赤と緑がこの土地の豊かさを示しているようだった。
「君は、『龍』を信じているかい」
食べ始めて少ししてから、ティルツはそう切り出した。
「俺らに関わりのあるっていう、あれか?」
『龍族』の名前は漏れなくこの『龍』からきている。それは、レパードたちの耳や翼が、『龍』を思い起こす外見をしているからだ。その認識でいた。
「あぁ、ほかにいないだろう」
「そうだな」と相づちを打つ。正直にいうと、だからどうしたのだ程度にしか思わなかった。レパードの知る『龍』は、大空を駆け回る魔物だ。他の魔物よりけた違いに強いとは思っている。伝承になるほどだからだ。けれど、誰も実物を見たことがない。ただの誰かの妄想ぐらいにしか、思っていなかった。
だから、次の言葉に飛び上がった。
「ここ、カルタータでは、『龍』は実在する」
思わずティルツをまじまじと見てしまう。この男なら、真顔でその手の冗談を言いそうだから、のっぺきならない。
「野郎にじろじろみられてもねぇ」
視線を感じたのか、そんなことを言われて、肩の力が抜けた。脱力しつつも、本題に引き戻す。
「実在って、こんな都にあのばかでかいと噂の魔物が?」
ティルツは、サンドイッチを優雅に一口かじると、やれやれという仕草をした。
「その様では、やはり気づいていなかったようだ」
ティルツは、天井を指差した。
「このカルタータには、障壁がある。『龍』が作った障壁だ」
それは或いは、結界という表現が正しいのかもしれない。都をドーム型に取り囲んでいるという。
「そこに、『龍』の意識体がいる」
信じ難いことに、障壁を常に動き回っているという。ただあのときのレパードは怪我だらけで確認する余裕がなかっただけであろうと。
「それじゃあ、この窓を開けたら?」
まだ覗ける元気がなかったから、近くにあるはずの窓からは、同じ高さの建物の様子しか確認できない。そのうえ、眩しさが目に来るレパードのために、この窓は日頃カーテンがされていた。
「見てみたいと思っただろう?」
ティルツの言葉に、初日の出会いが思い起こされた。生きる理由を見つけろと、そう遠回しに言われたことをだ。
「おい」
つまり、全て興味を沸かせるだけの冗談か。胡乱な目を向けたが、ティルツは首を横に振った。
「それも合わせて、楽しみの一つだろう」
全く食えない医者だ。
「それよりも君は、そろそろ私たちに名前を明かしてもよいのではないかい」
レパードの握るサンドイッチに爪痕が食い込んだ。
そう、今の今までレパードは名乗っていなかった。その名を呼んでくれた女の笑顔が瞼の裏に蘇る。しかし、次に女に名を叫ばれるのは怨嗟であって、間違っても好意ではないだろう。どんな事情であれ、彼女の故郷を滅ぼしたのは自分なのだから。
それならば、その時まで別の名を名乗ろうと思った。何もレパードにとって珍しいことでも何でもない。名前は今までに転々と変えてきた。
「つけてくれよ」
気安く、なるべく軽く聞こえるようにレパードはティルツに切り出した。
「は?」
「だから、名前だ。なくても不便だろう。ちょうど変え時だと思っていたんだ」
ティルツは訝しんだ表情を崩さない。それでも暫くすると、口を開いた。
「クロ」
「はぁ?」
もう少しましな名前はないのか、そんな視線を送ってしまう。
「まるで犬猫に付ける名前だ」
そう文句を言えば、ティルツの眉が片方だけ吊り上がった。
「その犬猫に付けるみたいなノリで、頼まれたんだ。十分じゃないか」
相変わらず、この医者の舌はよく回る。
「それにしても限度があるだろ」
「態度がでかい。犬猫に失礼な気がしてきたな。もっと粗悪な名前にしよう」
口論をしていたらいつまで経ってもサンドイッチを食べ終わらない。そう思ったのか、ティルツがぱくりと食いついた。
同じように食らいつこうとして、腕が重く感じるのに気が付いた。どうも話過ぎてしまったらしい。体が、これだけのことで、ひどく疲れている。
ティルツもレパードの様子に気が付いたらしい。
「食べたら休め。駄犬のように」
労わりながらおちゃらけつつ罵るという、器用な言葉を吐いた後で、ティルツは首を捻った。
「いや、君に犬のような忠実さは皆無か。どっちかっていうと人に懐かない猫か?どちらにせよ、可愛さは皆無だな」
自分ではどちらに似ていると思う?と言わんばかりに視線を向ける。
「果てしなくどうでもいい」
かろうじてそれだけ言い返すと、レパードは何とか残りのサンドイッチを腹に収めた。




