その286 『十二年前』
「ミンドール、シェル、クルト!おい、誰かいねぇのか!」
叫びながら、甲板に駆け込もうとして、煙を思いっきり吸う。咳き込みながらも、レパードは再び声を張り上げた。
「レンド、マレイユ、ミスタ!」
甲板内を見渡すが、そもそも人らしい人がいない。無人の甲板には、血痕が散らばっている。ごくりと息を呑み、その血痕を辿った。一歩、一歩、見逃さないように歩いた先に、伝声管がある。触れたのだろう、そこにのっぺりと血糊がついていた。そして、その前の床には、血だまりができている。致死量ではないかと疑うほどの量だった。それを見つけたせいで、嫌な汗が伝う。
この血は誰のものだろう。セーレを襲った者であることを祈った。しかしそれならば何故、この場に船員たちの姿がないのか。祈りとは別に、自分の中に僅かに残った冷静な部分が、そう警告をする。
人を運んだのか、血だまりからは引き摺られた跡があった。それはあるところからぷつりと途切れている。船内に入る路ならば、船員が仲間を救おうと引き摺った跡かもしれなかった。けれど、それは船内とは真逆、外へと向かって伸びている。セーレを襲った何者かが逃げようとしたのか。それとも、この怪我を負ってもまだ助けを呼ぼうと動いた船員の誰かか。
その時、頬に熱を浴びた。火の手が酷くなっているのだ。こんなところでぐずぐず考えている暇はなかった。早くしないと、船内に残されているかもしれない誰かが火にやられてしまう。
船内に駆け込もうとしたところで、後ろから羽交い絞めにあった。
「ちょっと、正気ですか!危険ですって!」
身長さがあるせいで、羽交い絞めといっても腰を抑えられただけだ。無我夢中で振り払うと、船内に突っ込んでいく。後ろで尻餅をつく音が聞こえたが、今はそれどころではなかった。
セーレが、燃えている。その事実がレパードを動転させている。絶対に、何が何でも、あってはならないことだった。
廊下の一つ一つ、扉を確認していく。入ってすぐそこにある倉庫には、誰もいなかった。隣のクルトの私用倉庫には鍵が掛けられたままだ。
「レヴァス、ジェイク、アグル、いないのか!」
医務室を覗く。煙で前が見にくいが、そこには散乱したベッドが見えるだけだ。ただ、火事だけでは起こり得ないひっくり返ったベッドからは、戦いの形跡があることを否が応にも考えさせる。
「セン、マーサ、リーサ!」
食堂は既に火の手が回っていた。テーブルが倒れ、照明は落ち、クロスは焼け焦げている。火の光を浴びて、血だまりが鈍く光った。
ここに普段いるのは、非戦闘員だ。その事実を、掻き消したくなる。
「ジル、レッサ、ヴァーナー、ライム!」
階段を駆け上がろうとして、火を被りかける。反対側から登るしかない。そう判断したレパードは食堂を飛び出た。再び廊下を走る。
「クロヒゲ、キド、ベッタ!いるなら返事しろ!」
炎が迫ってくる。その熱の中で、レパードは必死に声を荒らげた。汗で、視界が滲んでみえる。この湧き上がる不安は、十二年前のあの時と同じだ。そう思うと、焦燥に駆られた。あの時、大勢の人間がこの船の中で亡くなった。多くが、助けられなかった。いくら振り払っても、あの時の光景が浮かんでくる。廊下を走る路が二重に見えた。
(生きててくれ)
レパードは強く願う。
(誰でもいい、一人でもいいから、生き延びていてくれ)
それは、十二年前と全く同じ心の声だった。
全身が焼けるようだった。体中が悲鳴をあげ、前に進むたびに血が滴り落ちる。自分の様子すら確かめる余裕はなく、無為に動いていた。そうすれば、ハゲタカが獲物を見つけて、自身を喰らっていくかもしれない。或いは奈落の海に足を滑らせて、海獣の餌食になるだろう。その最期をむしろ望むように、気だるい足を動かし続ける。時には高所より落下したこともあった。しかし、目を覚ませば、再び歩き始める。それをいつまで続けたのだろう。何も食べず、何も飲まず、ぼろぼろの状態で歩く。右目が熱く、視界が定まらない。
(一体、ここはどこだ)
不意に浮かんだ疑問に、答えはなかった。いつの間にか雨は止み、清々しいほどの青空が場違いなレパードを見下ろしている。視界に映るのは、白い建造物。見たことがない造りだが、きっと街だろう。人の気配と声が聞こえてくる。けれど、皆が皆、遠巻きにレパードを見ているだけで、誰も声を掛けにはこない。警戒しているのだろう。
(今度こそ、殺されるかもしれないな)
そんなことをちらりと思う。けれど、あれだけ逃げ続けておきながら、今はもうそれでもいいかぐらいにしか思わなかった。どのみち、自分はもう長くない。この怪我では誰が止めを刺そうとも同じことだ。
結局、誰にも襲われることのないまま、街の中を歩き続ける。視界がおぼつかないせいで、街の白が目に堪えた。周りの光が眩しく、その光の中を訳も分からずに歩いている心地である。そうこうするうちに、視界が反転した。
あっと思ったときには、太陽の光が一瞬視界に入り、頭部に衝撃を感じている。倒れたのだと分かった。視界に入る光が、変わらず眩しい。
これで終わりなんだなと、思った。白い世界に焼かれて、体がすっと楽になる。光の筋が、レパードを迎えようと延びていく。その光に、左目を細めた。
「あの、大丈夫ですか?」
その時、凛とした少年の声が、頭上から振りかかった。
その声に答える余裕は、残っていなかった。ぼやけた視界、真っ白の世界の一部を隠す、暗い何かに目に留める。それが翠色をしていることに気付いたレパードは、そこに向かって、更に手を差し伸べようとして――、持ち上がらなかった。
ぴくりと動いただけの手を、温かい何かが触れた。そのぬくもりだけを唯一感じ、レパードの意識はそこで途切れた。




