その284 『潰えたぬくもり』
待ち伏せていたらしい自警団の男が、長銃をこちらに向けていた。
躊躇う時間はない。すぐに、イユはリナの手を離して、男へと駆けつける。男がまさに引き金を引かんとするその瞬間に、銃身を蹴り飛ばした。
鈍い音がして、銃が真っ二つに折れた。粉々になった金属片が、雪に飛び散る。
唖然とした男の顔を捉えた。その男に、体勢を整える暇を与えるわけにはいかない。それが分かっていたから、容赦はできなかった。何よりそんな余裕が自分にはない。続けて、回し蹴りにする。
男の首があらぬ方向へと曲がる音がした。
ぞっとした。これで二度目だった。こんなにもあっけなく、人の命を扱えてしまうことに、寒さだけではない震えが走った。けれど、今イユは生き延びなければならなかった。震える足で、しゃんと立とうとする。振り返ったところで、怯えた紫紺の瞳と目があった。
「あ……」
はっきりとした恐怖が、リナの顔に浮かんでいた。
その瞳の揺れが、イユの心を揺さぶった。同じ『異能者』だから、そんな理由で全て受け入れられると、勝手な勘違いをしていたことに気付かされる。タリヤの炎は、壁としての役割を果たしていた。炎で焼いたとしても、暴発前の分については、死人が出る規模ではなかった。けれど、イユの行いは特定の個人を意図的に狙ったものだ。生々しい暴力の極みだった。これは、れっきとした殺人だ。イユは、一線を越えたのだ。
いくら仲間でも、リナは人殺しを許容することなどしない。たとえこの状況であってもだ。その明快な事実に、打ちのめされた気がした。そこには『異能者』とそれ以外というような、はっきりとした境界が存在していた。
結局のところ、いくら被害者面をしたところで、イユが人を殺めてしまったという現実は変えられないし、変えてはいけないのだ。罪は背負い続けないといけない。
ガヤガヤという声が遠くで聞こえてきて、イユは、軽く首を横に振った。
怯えたリナをこの場に残すわけにはいかなかった。怯えられようとやることは変わらない。幸い、リナの怯えは時間の経過に伴い少しずつ収まってきている。どちらかというと、目の前の状況をみて呆然としていた。あまりに多くのことがあったせいで、頭が追いつかないのだろう。
そんなリナを再び引っ張って、走り出す。
先ほどの時間で、人の数が増えてしまった。続けてやってきた男を腕だけで弾き飛ばし、更に視界の先にいた男へと駆け寄って突き飛ばした。戦法も何もない、素人丸出しの格闘術だ。しかし異能が加われば、その威力は脅威になる。
けれど、相手は銃を持っている。一瞬の躊躇いが、命を散らす。それが分かっているから、手を抜けなかった。生き抜くために、必死に感覚を研ぎ澄ました。銃を構えた男に跳び蹴りをする。
男が銃で身を守ろうとした結果、その銃身があらぬ方へと曲がった。
ぎょっとした男が、慌てて後ずさる。
そこに助けようとやって来た別の男が、視界に入った。
リナを引っ張りながらも、すぐにその男に当て身を食らわせる。男が勢いで近くの家の壁まで飛び、後頭部を強打した。
休んでいる暇はない。額に汗を掻きながらも、必死に街の外へと続く道を駆け抜ける。
「待って、イユおねぇちゃん」
どれぐらい続いたのだろう。走り続けた先で、リナの声に呼び止められた。それでも、まだ敵がいるかもしれない。気を抜いたら、最期だ。捕らえられてしまう。そう思ったイユは、リナの言葉に耳を貸せずにいた。
荒い息をつきながら、リナがイユの手を払った。
その勢いに、イユもようやくはっとした。
いつしか、人の気配がなくなっている。銃声は止み、炎の何かを焦がす臭いだけが鼻先に漂った。
休む時間がある。疲れきっていた体が、そう訴えた。
リナにも、イユの速度はきつかったのだろう。暫く、息を整える時間が必要だった。それでも、リナは何とか口を開く。
「タリヤも、ロンも、死んじゃったんだよね?」
胸に刺さる確認の言葉だった。
「えぇ」
目の前で撃たれた二人を見たのだ。嘘は吐けまい。
リナは何度か腕で自身の目を拭った。嗚咽を堪えようと努力しているのが、傍目に痛々しかった。
そうして落ち着くと、リナはイユを見据えた。
「ありがとう、おねぇちゃん」
「え」
それは意外すぎるお礼だった。
「助けてくれて。何もできなかった私の代わりに、戦ってくれて」
真っ直ぐに見上げてくる紫紺の瞳が、涙で揺らめいている。目もとは赤く腫れていた。
リナに罵倒される覚悟はできていた。タリヤもロンも救わなかった。イユは逃げ出しただけだ。せめてタリヤの思いに答えるなら、ロンは逃がさないといけなかった。それなのに、それすらできなかった。そのうえ、人としては許されざる行為にも手を染めた。
生きるために必要だったと言い張ったところで、手に残る感触はおぞましかった。最も怖いのは、その感触に段々慣れていく自分を感じることだ。今は逃げないといけないからと考えることを放棄した結果、手を染めることに抵抗が消えてしまった。
善か悪かで言えば、イユのしてしまったことは悪だ。けれど、それは世界が悪いのだと言いたかった。イユは、生きようとしただけだと。正当防衛だと。
それに、彼らが手を出さなければ何もしなかったのだ。ほそぼそとごみ捨て場を漁って毎日を生きていくだけで、幸せだったのだ。雪原で『魔術師』を襲ったイユならともかく、少なくとも子供たちは無害だった。
しかし、ここでは自警団が正しく、イユたちは文句を言える立場にない。むしろ被害を出さずに大人しく消えてもらえることこそが、彼らの望みだった。イユたちは、そんな彼らのいる世界に、憎むべき悪として生まれてしまった、それだけのことなのだ。
ゆっくり息がつけるようになって、そんな思考が頭の中に回ってくるようになった。最悪な気分でいるイユに、しかしリナは全てを悟ったように、イユを見つめている。
「イユおねぇちゃんにだけ、嫌な思いさせてごめんね。泣いてばかりの私でごめんね」
イユにはリナが理解できなかった。ただ、凄いなと思った。こんなに小さい子供なのに、仲間を救わなかったイユを怒ることはせず、むしろ自身の無力を恥じている。そして、イユのことを代わりに戦ってくれたと、手を汚させてごめんねと謝ってくれる。聡明な少女だった。言葉だけ聞いたら、幼い子供には到底思えない。タリヤといい、リナといい、どうしてこの子供たちはこんなにも大人びているのだろうと思う。イユがこれぐらいの年のときには、きっと泣いてばかりだった。
「こんな私じゃダメだよね。私も、頑張らなきゃ」
それ故に、守りたいと思った。
「だから、私も――」
その時、イユは何かの気配を感じた。すぐに耳が音を捉える。リナには聞こえていないのだろう、とても小さい音だ。イユの体が無意識に強張った。
「戦うね」
気配に気付いていないリナの言葉が聞こえたその時、引き金を引く音が聞こえた。あの小さな音は、銃を構える音だったのだ。イユは咄嗟にリナの腕を掴もうとし、寸前のところでその手は止まった。
あとコンマ数秒あれば、問題なかった。けれど、そのコンマ数秒が、今のイユには与えられていなかった。わかってしまった。イユの本能とでもいうべき部分が、このまま手を伸ばしリナを引っ張って逃げようとしたところで、自分ごと撃たれるだけだと悟ってしまった。
イユの手は、空を切った。またしても、間に合わなかった。イユは、リナの手を引ききれなかったのだ。会話の間ももっと周りに気を張るべきだった。間に合うと判断したその時間の間に、リナの手を引いて逃げられるほどに、早く動ければよかった。全てが遅かった。リナの手を引ききれないまま、音のする方角から遠ざかるように身を転がすことになった。
見捨てた。続けてやってくる銃声に、振り返る余裕もなかった。身を転がし続けたその先で、イユは初めてリナがいた場所を振り返る。
そこに、小さな体を赤く染めたリナが手を伸ばして立ち尽くしていた。その手の先に、さきほどまでいたのはイユだろう。リナはイユに救いを求めたのだろうか。それとも、置いていったイユを指差して侮蔑しているのだろうか。
紫紺の瞳は、もう何も映していなかった。リナの体が、ぐらりと揺らいで崩れ落ちていった。




