その277 『鞄とチケット』
次に目を覚ますと、部屋は真っ暗だった。夜なのだろう。窓をみても、漆黒の世界が薄膜越しに見えるだけだった。
男は時間のせいか、いなかった。しかし僅かに開いた扉の隙間から光が伸びているのに気づく。食事を下げにきたときに、扉を閉めきらずに出ていったのだろう。
イユは、体を起こした。立ち上がったわけではないのに、ふらふらする。それに腰から上が寒かった。体は以前よりずっとよくなったが、まだ完治とはいかない。それに、雪原よりましとはいえ夜は冷えた。毛布を手繰りよせ、顔まで被って再びベッドに横たわる。
ベッドの中で、朱を帯びている自身の手の爪を確認する。手は、すっかり元通りだった。擦り傷一つない。暫くは感覚がなく痙攣していたものだが、今では自由に動かせる。その手を見ながら、改めて生きていることが我ながら信じられないなと、感想を抱く。今だから分かるが、何日も雪道をさまよって、逃亡するというのは、無謀以外の何物でもなかった。異能者施設は中も厳重だったが、外も天然の牢になっていた。寒さという最大の格子は、運がよくなければ絶対に中の者を逃がしはしなかった。
ほぅっと息をついたイユの耳に届いたのは、男の反論の声だった。
「知らなかったんだよ!いいところのお嬢さんだと思ったんだ」
言い訳をするような声は、駅員の男のものだった。いいところのお嬢さんと聞いて、イユは自分の服を見返す。ぼろぼろだったが、温かい生地のこの服は、紛れもなく馬車で盗んだものだった。だから、イユのことを話しているのだろうと勘づいた。
会話が気になり、耳に意識を集中させる。それで、いっそう話し声が鮮明に聞こえるようになったのに気がついた。
「しっ!声が大きい」
そんな男の注意の声すら耳にできた。男たちが声を潜めたところで、イユの耳には筒抜けだったのだ。
「どうするんだ、このまま自警団に突き出すのか」
駅員の男のものではない声が、再び聞こえた。低く、落ち着いた声だった。それで、イユは始めて気が付いた。ここは男の一軒家ではない。男は複数人で暮らしている。
イユはぎゅっと毛布を握った。自警団が何かは分からなかったが、イユをどこかに引き渡す話をしているのは分かった。きっと男はイユを『魔術師』の娘だと思って助けてしまったのだ。それが違ったから、こんな口論を続けている。ひょっとすると……。イユは嫌な予感に突き当たる。イユが『異能者』だと、ばれたかもしれない。
「いいや」
男の否定に、イユの強張った肩がほぐれた。
そんなイユをよそに男は言葉を続ける。
「俺たちは駅員だ。レイヴィートに彼女を連れていけるだろ」
「お前、正気か?自警団には黙るつもりか」
男たちの口論は続いている。会話から察するにどちらも駅員らしい。
「あぁ。あいつらは、全部自分の手柄にしちまう。それじゃあ、ダメだ」
イユは再び起き上がった。目の前の机に置かれた鞄が、今日はやたらと目についた。
それを眺めているうちに、イユの耳にとうとうその言葉が届いた。
「いいか?あの『異能者』を『魔術師』様に引き渡すのは俺たちだ。汽車に乗れば、彼らの部隊に会える。誰でもいい、そこで報告するんだ。そうすれば、俺たちは一生遊んで暮らせる」
男の言葉の意味は全く理解できていなかった。けれど、『異能者』に『魔術師』という必要な単語はしっかりと耳に入った。ばれたのだと確証に至る。ここまできてしまったら、もう逃げるしかなかった。
(立てるわね?)
自分に確認する。全く動かなかった足は、この数日で人並みに回復しているはずだ、そう言い聞かせる。実際は起き上がっただけでふらふらする容態なので、ベッドから出歩いたことすらなかったが、甘えてはいられなかった。
もし動かないなら、今すぐに治すしかない。イユは足に力を入れた。感覚のなかった足に、徐々に血の気が通ってくる。それを確認して、何とか立ち上がった。
ふらりとしたが、じっと耐えると収まった。すぐに靴を取りに行く。靴をとろうと屈んだ途端に、またしても視界が霞んだ。それでも、深呼吸すれば視界が落ち着く。
ぼろぼろの靴は、まだ履けた。雪に濡れていたそれは、今ではすっかり乾いている。
靴を履き終わると、今度は帽子を手に取った。この帽子はよれよれだったが、まだ使い潰してはいない。目深に被れば、雪避けになる。意外と重宝するのだ。
帽子をかぶり終わったイユは、続いて目の前にある鞄を見つめた。
「それじゃあ、あの子どもをまずはどうやって汽車にばれないように乗せるかだが」
「何言ってるんだ、俺たちは駅員だろ。チケットなんて山ほど用意できる」
確認のため、鞄の口を開ける。そこには何も入っていなかった。持ち上げてみたが、思ったより軽い。
何かの役に立つかもしれないと、思案する。さすがに布団は持ち運べる大きさではないが、鞄ぐらいは貰っていってもいいかもしれない。そう判断したイユは鞄を背負った。その時、空いた引き出しが鞄の紐に引っかかる。
(あっ)
勢いで更に開いた引き出しからは、大量の書類が出てきた。そのうえに一枚、小さな紙きれが乗っている。
それは変わった素材の紙だった。他の書類とは明らかにが違う、なめらかな淡黄色だ。
思わず手に取って見てみるが、書かれている文字は何も理解できない。ただ、イクシウスの紋章が描かれているのだけは分かった。国章は、何かの所有物の証明だ。だから、これが何か分からなくても、何かの役に立つかもしれないと、咄嗟に考えた。早速背負った鞄に、その紙きれを突っ込む。
ついでに、他の引き出しも確認してみる。どれも同じような書類が入っていただけだった。
ひとしきり物色したイユは、窓へと近づく。曇ったガラスに触れると、冷気が指を伝った。曇りを擦り落とすと、そこから星空が見えた。地面は、思ったよりも遠かった。どうやらここは二階建てらしい。飛び降りたら、怪我をするかもしれないという不安がちらりと過る。それを、払いのけた。例えそうだとしても、他の手は思い付かなかったのだ。
「おい、開けろ!」
その時、扉を叩く音が聞こえた。男二人が、がばっと体を起こす音が聞こえる。
「なんで、自警団が」
「嘘だろ、早すぎる!」
男二人の動揺の声に、急かすように扉の音が響き続ける。
「開けろ!中にいるのはわかっている!」
イユは慌てた。窓を開けようとして、開け方がわからない。早くしないと、男たちがやって来るかもしれない。
暫くして、鍵がかかっていることに気がついた。開けるのに手間取る。鍵なんて今までの生活にはなかったから、イユには未知のものだったのだ。
「とにかく、俺は上の『異能者』を隠す」
「オ、オレは?」
「てきとうに誤魔化して、時間を稼いでいろ!」
二人の相談が終わる頃には、窓を開けることに成功した。
がらがらと音を立てて開いた窓から、冷たい風が飛び込んでくる。乗り出せば、みたことのない建物が立ち並んでいる。
階段を上がってくる音が聞こえてきた。ぐずぐずしてはいられない。
イユは思いっきり窓から身を投げ出した。背後で扉を開ける音が聞こえた気がしたが、振り返る余裕はもうなかった。
「それじゃあ、鞄はその駅員の人が持っていたものだったんだね」
リナがイユの話を聞いて、納得した顔をする。
「そっか、じゃあ、イユおねぇちゃんはそこから村の中を逃げ回って、私たちのところに来たんだ」
イユは頷いた。
あのときは夜だが眩しく感じた。何より、村のなかには明かりがあった。家の光が、往来に零れていたのだ。月の光がせいぜいだったイユには、その明かりは、厳しかった。どうしても、馬車で自分がしでかしたことを思い起こされた。
きっと夜でなかったら、村の活気という眩しさに眩んで、捕まってしまったことだろう。
けれど、闇はイユに味方した。家から溢れた明かりは、ただ眩しいだけでなく、影を作った。人通りの少ない道に家々の壁にできた影を伝って走った。幸い、誰かと出くわしても影に紛れることができたのは僥倖だった。大勢の人に悲鳴をあげられ、大騒ぎになる心配はなかった。だから、とにかく村の外に出ようとして、土地勘のないイユは、散々村のなかを走り回った。
そうして、かろうじて逃げ込んだ先で出会ったのが、リナたちだったのだ。
「それで、その紙きれというのは……」
イユが鞄から取り出すと、リナがあっと声をあげた。
「それ、チケットだよ!駅のチケット!レイヴィート行きってなってる!」
リナの騒いだ声が気になったのか、ロンとタリヤもやってきた。
「おぉ、すっげ!本物だ!これ、レイヴィートまで行けるって」
首を傾げるイユに、ロンが説明する。その背後で、リナが「凄いなぁ、これ鳥の子紙だよ。イクシウスの紋章も入っているし、間違いなく本物だよ!」なんて叫んでいる。
「レイヴィートは、イクシウスといわれるこの国の中で最も大きな都市だよぉ。ここと違って兵士さんもいっぱいいるんだけどね」
そんなところのチケットを手に入れても仕方がないではないかとイユが言うと、タリヤが首を振った。
「いいや、そうでもない。レイヴィートには港があるんだ」
タリヤが近くにあった木の小箱を持ってきた。真っ白な埃がびっしりと積もっている。それをテーブルの上に置いた瞬間、埃が舞った。
リナがむせた。嫌そうに、ばたばたと手を振っている。
タリヤはそんなリナの様子も気にせず、木箱に指を載せて、何事か絵を描くようになぞった。埃が退かれてそこに確かな線が出来上がる。
じっと見ているうちに、それが大きな円を描いていると分かった。
「港はこの辺。父さんが以前この辺りに住んでたからわかるんだ」
タリヤが描いているのは地図だった。どこか誇らしげなのは、元々都会っ子であることをアピールしたいかららしい。
「タリヤはどうしてこの村に来たの?」
イユの疑問に、タリヤが少し寂しそうな顔をしてから、鼻の頭を掻いた。
「ただの旅行だよ。父さんと一緒にここに来て、雪山で遊んでいたんだ。そしたら事故に巻き込まれて、遭難してさ」
遭難した親子は、雪山で凍死しかけた。なんとか暖かくしないと死んでしまう。そう思ったタリヤは、我知らず異能を使い、火を起こしたという。けれど、異能が使えると気づいたときには一足遅かった。父親は暖まる前に凍死してしまい、タリヤは救助にきた村人に『異能者』とばれ、逆に追われる羽目になった。
「暖かくなっても、腹は減るだろ?それで、ごみ捨て場にこっそり通うようになったところで、ロンに会ってさ」
ロンが当時を思い出してか、嬉しそうに頷く。
「あのときは、家族に追い出されて心細かったから、本当に助かったよ」
リナがその発言にぷぅっと頬を膨らませた。
「ロンの家族ったら、酷いのよ。『異能者』が自分たちの家族から現れたことを知られたくないから、出ていけって言ったらしいの。吹雪の凄い日に、わざと!私のお父さんは、最期の最期まで庇ってくれたのに……」
後半の言葉が尻すぼみになったのは、当時をまざまざと思い出したからなのだろう。
気を取り直すように、タリヤが話を戻した。
「と、とにかく!港に行けば、飛行船に乗ることができる。この国からだって逃げられるかもしれない」
分かるか?とタリヤが聞いた。
まわりをぐるりと見回し、それぞれがタリヤに目を向けていることを確認する。そのタリヤの仕草は本気そのものだった。
「俺たちは、いつ捕らえられるかとびくびくしないですむ、安全な場所へ逃げられるんだよ」
誰にも追われるのことない、安全な場所。それは、イユの目的にもなった。




