その276 『駅員の男の家』
「それが駅員の人?」
「えぇ」
リナの質問に、イユは頷いた。
イユが倒れたのは線路の近くで、その駅員の男は、線路の状況を確認すべく雪原を歩いていたのだ。そこで、倒れていたイユを偶然発見した。
「私は、その男の家に運び込まれていたわ」
初めに感じたのは、体を蝕む熱さだった。あまりの熱さに、喉を焼かれた。火照り続ける体は、鉛でもつけられたように重く、手足一つ満足に動かせなかった。瞼も重く、視界はずっと暗闇の中をさ迷った。それなのに、どこかから光を拾ったように視界がちかちかする。少しでも動かせば頭が殴られるように痛く、吐き気がした。同時に、熱を感じているにもかかわらず、体が寒くて仕方がない。そんな時間が、延々と続いた。ここは地獄かもしれない。そんなことをちらっと考えた。
そして、次に目覚めたとき、イユは真っ暗な闇の中にいた。視界だけは変わらず、ちかちかしている。じっと見ていると、ようやく目が慣れてきた。
(白くない)
まず浮かんだのが、その言葉だった。白銀の世界がイユの周りからなくなっている。そうなると、いよいよここは地獄かもしれない。そんなことを思っているうちに、イユは自分の目に映っているのが天井であることを悟った。
僅かに頭を動かして、視界に他の情報を入れようとする。動かすだけで頭が金棒で殴られたかのような痛みが走って、ぐっと吐き気を堪えた。再び点滅しだした視界を、じっと睨みつける。
暗闇の中で、ようやく窓枠を捉えた。けれど、暫くはそれが何か分からなかった。
(これが、窓……?)
そもそも、異能者施設には窓がなかった。それは脱走者を逃がさないためだった。だから、異能者施設と雪原しか記憶に残っていないイユには、それが知識にある窓だと気づくのにも時間がかかった。
それから、イユはそこで自分に掛けられている毛布に気が付いた。
布地の感触が、今まで感じたどれとも違う。つい指先でその感触を確かめた。ごわごわした温かさに、どきっとした。
ゆっくりと頭を動かして、再び天井へと体を戻す。ここがどこだか分からないが、助かったことだけは認識していた。そして、まだ体が動かせる状態でないことも。
イユは再び目を閉じた。すぐに意識が沈んでいった。
イユが目を開けたとき、視界に映ったのは男の見張ったような緑の瞳だった。
イユと目があったその男は、驚いた顔を暫く崩さなかった。
イユもまた目を開けたばかりで、まだ頭がぼおっとしていて、反応に遅れた。
互いの間に、謎の沈黙の時間が生まれる。その硬直から立ち直ったのは、男が先だった。
「や、やぁ。良かった、目が覚めたんだね」
イユは目を瞬いた。どうしていいか分からなかった。
「君は、線路の近くで倒れていたんだ。僕はこう見えて駅員でね。偶然見つけて良かったよ。雪原は寒いから、もう少し遅かったら助からなかったかもだ」
捲し立てるように一気に告げられ、イユは呆然と聞くしかない。
そんなイユの様子に気づいたのか、男は少し間を開け、こほんと咳払いをした。そうしてから、ゆっくりと切り出す。
「えっと、どこか痛むところはあるかい?気持ち悪いとか」
男に質問されているのだと気づいたイユは、声を発しようとした。そこで、初めて気が付いた。
慌てたイユは喉に手を当てる。声を出そうと、口を開けた。しかし、僅かに掠れた音が零れただけだった。
イユの動作に、男は悟ったようだ。
「ひょっとして、声が出ないのかい?」
男の質問に、イユは困った顔を向けた。そうして初めて、頭を動かしても気持ち悪くならないことに気が付いた。けれど、今は声だ。一体、どうしてしまったことだろう。ひょっとして、もう一生声が出ないままなのではないか。そんな風にさえ感じる。
不安になったイユに、男は笑いかけた。
「大丈夫だよ。君は高熱で長い間寝込んでいたんだ。きっと風邪をひいていたんだろうし、声も一時的なものさ」
男は安心させるように言うと、ふと思いついたように手をぽんと合わせた。
「そうだ、何か温かいものを持ってこよう。風邪をひいているなら、それが一番いい」
そうして、男は立ち上がる。部屋から出ようとしたのだろう、家具に足を躓け、転びかける。慌ただしい音が響いた。
「おおっと。あぁ、いや、すまない。大丈夫だからね」
そうイユに声を掛けてから、男の気配が、扉が閉まる音と同時に消えた。
イユはゆっくりと目を閉じた。視界が瞬いている。それでも、イユの目は捉えていた。手を合わせる前、男の手が僅かに震えていたことを。あれは一体、何を意味するのだろう。
暫くすると、男が戻ってきた。手に木の皿を持ってきていたので、食事なのだと気がついた。
「ここに置いておくから、食べられそうなら食べるといいよ」
男はその皿をイユの寝ているベッドの隣のサイドテーブルに置いた。そうして、すぐに部屋を出ていこうとする。
「食べ終わったぐらいの時間に、取りに行くから」
男の言葉が伝えられると同時に、再び扉の音が聞こえた。
暫くの沈黙のあと、イユは信じられない気持ちで首を動かした。そこには、木の皿があった。そこから、何やら白いものが立ち込めている。湯気など、このときまで見たことはなかった。だから、知らずに手を伸ばして、驚いて引っ込めた。熱と言えば、今までは烙印の火傷ぐらいしかなかった。
これは、実は罠で、触ると火傷させられるのだと考えた。そうでないと、納得できなかった。食べ物は奪い合うのが今までの生活だった。それをあの男は、イユのためだけに置いていったのだ。ここでは、誰にも奪われない。
イユは、木の皿の、八分目まで注がれた粥を食べようと再び手を伸ばして、あまりの熱さに引っ込めた。こんなに熱い食べ物は食べたことがなかった。指に熱の感覚を感じていると、ふと木の皿の手前にスプーンが置かれていることに気がついた。それを不器用に握りしめると、粥を掬った。
たらたらの粥は、今まで食べたスープのどれよりも具が多かった。それに、口にした途端に、温かさがはじけた。胃に流れる液体に熱を感じたのは初めてのことだ。
慣れていないせいで、何度かこぼしかけたが、その度に落とさないようにと慎重になった。そのお陰か、震える手でも段々スプーンを扱えるようになってきた。胃も、粥なら受け付けた。今までにないほど、ゆっくり食したおかげもあったのだろう。気づいたら、木の皿は空っぽになった。
その頃になって、泣いている自分に気がついた。頬を涙が伝う感触は、雪原では感じられなかった一つだ。
イユは、ここで自覚した。雪原を越えて、生きている自分が今ここにいることを。
駅員の男は、その後も何度もイユの元にやってきては、食事を置いていった。更には満足に動かない体を気遣って、毛布を掛け直してくれることもあった。その優しさが身に染みた。
声が満足に出ず、体も本調子でないイユは、男に世話をされるまま、暫くはそこで暮らした。
手は動いたのだが、足は殆ど動かせなかった。原因は凍傷で、切り落とす寸前のところまで言っていたようだ。焦げたかのように真っ黒になった肌を見たときには、我ながらぎょっとした。
そんな状況から持ち直したのは、異能による驚異的な回復力に他ならない。
ちかちかした視界も徐々に収まり、喉の腫れも引いてきた頃になると、余裕ができ、部屋の回りを見渡せるようになった。
この部屋は、その気になればイユが三人以上寝られるほどの広さがあった。その広さを活かして、ベッドとサイドテーブル、そしてその向かいに大きな机が置かれている。
机には、書類が乱雑に重ねられ、筆が立ててあった。書きものをする場所のはずなのだが、何故か筆だけでなく、見慣れない木箱や鞄まで無造作に置かれている。
イユが被っていた帽子まであった。寝るときに邪魔になるから、机の上に避難させたらしい。
まさかと思って身を乗り出せば、机の近くにイユが履いていた靴も置かれている。数日のことだったのに履き潰されてぼろぼろになった靴が、妙にその空間に溶け込んでいた。
靴のある奥、机の下にワゴンがあった。その引き出しは溢れ、隙間から紙が覗いていた。
今まで男がここを片付けるどころか、使っている姿すら見たことがなかった。それはイユがいるからなのか、元からなのか、少し考えて後者だろうと結論付ける。乱雑な書類は明らかに、イユの存在とは無関係だ。
引き出しの隣を見れば、机の下にあるはずの木の椅子が斜めに飛び出している。主人の性格を表しているようだった。
けれど、それらを見て、煩雑だとは思わなかった。むしろ、物が溢れていることに驚きを感じた。『異能者』でない人々はこうして日常を過ごしていたのだと唖然とした。今までイユがいたところは、なんて殺風景だったのだろうと感想を抱いた。
机を眺めるのに飽きると、決まってイユは窓を覗いた。窓の先には、空が広がっている。曇っているガラスの向こう側に、僅かに雲の動きが見えた。夕方になると、空は朱を帯び、すぐに群青色に変わった。そうすると、男がやって来て、カーテンを閉めた。
首の向きによっては、片隅に屋根の一部が映ることもあった。微かな変化を探すのが、密かな楽しみになっていた。
この日は、偶然鳥が飛んでいくのを見つけた。白くて小さな鳥が二羽、窓の端から端を横切っていった。つがいだろうか。そんなことを考えていると、もう一羽、窓を横切った。
この辺りは、雪原に囲われているといっても、まだ鳥が飛び交うほどには暖かいのだと意識させられる。
その事実に、ほっと息をついたとき、イユは自身の違和感に気がついた。はっとして、喉に手を当てる。ゆっくりと、口を開けて、息を吐き出した。
「あー」
一言、それが確かに声として発せられてはっとする。声が出た。その事実に誰よりもほっとした。正直、今までは男の、一時的だという言葉を疑っていた。ただの励ましの言葉だと捉えていたのだ。
けれど、声はこうして発せられた。まだ一言が限界で、それ以上話そうとすると、聞き取りづらい、がらがら声になる。咳も喉の痛みもなかったが風邪の症状もよくわかっていないイユは、あながち男の発言も嘘ではなさそうだと判断した。きっとあと数日もすれば、下手をすると数時間もあれば、もっとましになるだろう。
そう考えてから、男と会話ができるようになるのだなと気がついた。その事実は、新たな不安を呼んだ。今まで、会話らしい会話などしたことがない。違和感なく話せる自信が沸いてこなかったのだ。
幸い、考える時間は山ほどあった。ベッドのなかで、時折寝返りをうちながら、まともな会話について考える。
まず、何を言うべきなのだろう。声が出たことの報告か、それとも男の名前を聞くべきだろうか。むしろ、下手に会話をしてしまうと、イユの素性について聞かれるかもしれない。その時はどうしたらよいだろう。黙っていると怪しまれるに違いない。それなら、なんと答えるべきか。いや、もうそれならいっそ、ずっと声が戻らないふりをしようか。しかし、それはそれで怪しいだろう。どうしようか。
時間はあっても、なかなか答えはでなかった。そんなことをしているうちに微睡んでいき、そしてイユは再び眠りについた。




