その271 『その手をはなせない』
そして、イユはやはり、異能者施設に戻ってしまったのだ。あまりにも類似したここに、ひょっとするとイクシウス以上に悪辣なこの区域にそうと認めるしかなくなった。
折角逃げたのに、過去のものにしたかったのに、またあの時の悪夢が蘇る。
嫌だ。その思いが、頭の中でいっぱいになる。
(嘘だ。私は戻っていない。ここは異能者施設ではない。あくまで別の場所、特別区域だ)
浮かんだ思いを必死に打ち消す。シーゼリアの、ヴェールから垣間見える笑みが、頭に浮かんだ。それを、掻き消す。
関係ない。ここは、別の場所だ。名前もほら、全く違う。
言い聞かせる。心に何度も訴える。
(どうしてそんなことが言える?)
ふいに、心の声が囁いた。全く別のところから、ふりかかってきたその声に、イユは嘲笑しようとした。
(そんなの、ブライトが……)
ブライトが、なんだろう。いいかけた言葉が潰える。必死に作ろうとした笑みが崩れる音がした。
きっと、今までなら、ブライトが言っていたからだと、ブライトのことを信じるならこんな場所にイユを置いていくわけがないと言い返せた。
それが、できない。できなくなってしまった。
そうなのだ。イユは、心の枷を、打ち付けられた杭を外してしまった。今まで信奉するだけでよかった、絶対的な安心がなくなってしまった。
イユは、一人に戻ってしまった。無条件に信じられなくなったことで、心の安寧にヒビが入っていく。ぽろぽろと、零れ落ちていく心の欠片を、拾いきることができない。
何より、意識してしまったらだめだった。イユは異能者施設にいて、おまけに目の前には『魔術師』までいた。振り返った赤みのかかった鳶色の目が、訝しそうにイユを見る。
全身に鳥肌がたった。戻ってしまったと、はっきりと自覚した。もう嘘はつけない。否定もできない。言い訳が繕えない。
剥き出しになったイユを、背後からやってきた影が覆っていく。逃げられない。あの頃に戻されてしまった。イユはまた、あの灰色の場所で人を踏みにじりながら、いつくるともしれない鞭の痛みに怯えながら、そして冷たさに耐えながら、生きていかないといけない。あの時のような生きるための力など、かき集めても全く残っていないのにだ。
ぞっとした。胃の中のものが逆流して、慌てて呑み込む。胃が沁みる。喉がひりひりとする。心が委縮している。
怖い。もう二度と戻りたくなかったのだ。それなのに、異能者施設はイユを逃がさない。鞭の音が聞こえてくる気がした。鎧のガチャガチャという音が、イユを追いかけてくる。食べ物を求めて追いかける女たちの手が、イユを掴もうとする。
「イユ?おい、イユ!」
何度か揺さぶられても、暫く意識が戻らなかった。ようやく焦点のあったイユはそこで初めて、自分が息をしていないことに気が付いた。
苦しい。息をしていないから当然だ。慌てて呼吸をしようとして、うまく肺に空気が回らない。何度かむせながら、息を吸おうとする。当たり前の呼吸さえままならない事実に、世界が揺らいだ。
それでもどうにか、視界が定まってきた。
イユの手を握る、レパードの手の温度を感じたからだ。それを頼りに、ゆっくりと深呼吸をする余裕ができてきた。それまで、全く気づかなかった。レパードの心配そうな顔も。いつのまにか、広い場所に出ていたことさえ。
「……なぁ、本当にお前大丈夫か」
声を掛けられて、イユは何とか頷こうとした。視界がまだ滲んでいる。泣きかけているのだと気づいて、慌てて涙を引っ込める。
こんなところで弱音を吐いてはいけない。ここは異能者施設なのだ。それこそ、『魔術師』の恰好の的になる。
そんな思いが頭の中に残っていたから、そこだけは強がることができた。
「平気よ」
「嘘つけ。そんな風には……」
「だから、平気よ」
「無理するなって」
「平気だって言っているでしょう!」
ついきつく言い放ってしまってから、はっとした。想像以上に響いたその言葉は、鋭い刃となってレパードを刺してしまったと思った。否定しなければいけない。大丈夫でないことを認めてはいけない。そんな思いから、出てしまった言葉だったのだ。
けれど、それは心配するレパードに向けて発する言葉ではない。ふつふつと後悔の念が沸いてくる。自分の中の理性が剥がれてきている気がした。一所懸命に包み込んだ獣に成り下がってしまった心が、むき出しになりつつある。獣は、手を差し出した相手の指も平気で噛み千切る。今のイユは、まさにそれだ。全く、どこまで堕ちれば気がすむのだろう。
「……ごめんなさい。でも、お願いだから気にしないで」
無理のある頼みだと思う。レパードの顔に、心配だとはっきりと書いてあった。
嫌だなと感じる。あまり心配をかけたくなかった。レパードには、いつもの調子でいてほしい。そうすればイユもいつもみたいに少し強気になれる。
「分かった、無理はするなよ」
レパードに頭をなでられて、完全に子ども扱いをされていると感じた。それでも、今は文句が言えない。文句を言う元気もない。
それから、待っていたワイズを追いかけようとレパードが歩き出す。手がイユの頭を離れていく。
「ん?」
しまったと思った。けれども、もう遅い。
イユの手が、レパードの袖の端を掴んでいた。
「どうした?」
「……」
答えられなかった。言えるはずがない。この手を離してしまったら、一人で異能者施設に取り残されてしまう気がして、自分を保っていられないなんて、口が裂けても言えない。それに、ものすごく身勝手な自分を意識する。きつい言葉を言い放っておいて、手を離せない。なんて、嫌な奴なんだろうと思った。
けれど、そう思うならばこの手を離すべきだった。何でもないと、言い放って、イユも歩き出すべきだった。
それなのに、どうしても手離せなかった。
「ほら」
レパードが、くるりと手のひらを向けた。その勢いで、袖からイユの手が離れ、空をさ迷う。
「行くぞ」
レパードはそれ以外には何も言わなかった。代わりに、イユの手を掴むと背を向けて歩きだした。おかしいイユには気づいていたはずだ。けれど、そこに追及しないと、その背中が言っている。
イユは頷いて、レパードの手にしがみつくように進みだした。
この手があれば、まだ進んでいられた。




