その270 『聞こえてくる声』
そうこうするうちに、分岐がやってくる。
ワイズが道を折れようとする。壁の蝋燭の火が、左へと揺らいだ。
「待って」
イユは慌てて呼び止めた。
「右からは行けないの?」
左の道の奥から、声が聞こえてくる。誰かがいるのだ。
「行けなくはないですが、非常に狭いです。厳しいかもしれませんね」
その言葉に、イユは諦めた。元々『魔術師』と出くわすのは危惧していたことだ。堪えて、左の道を進もうとする。けれど、足が言うことをきかない。分かっていたのだ。左の道の先にいるのが、その『魔術師』だということを。
(いい加減にしなさい!)
自身に叱咤して、足を無理やり地面から引きはがす。雪も何もない場所なのに、一歩歩くのがこんなに辛いとは思わなかった。重いばかりの足を、引っ張るようにして前へと進む。
イユの様子を伺っていたレパードもほっとしたように進みだしたのが、影の動きから分かった。
その耳に、『魔術師』たちの会話が届いた。
「……ここの『異能者』たちの数も随分増えた。おかげで仕事が終わらないぜ」
「全くだ。全員の記憶をチェックして、心を制御するって、それが回っていたのは一昔の話だぜ」
「あぁ、ほんとだよ。俺はもっと大勢の『異能者』をイクシウスに売りつけるべきだと思うぜ」
「同感だ」
聞こえてくるのは二人の男の、愚痴だ。分岐の先にいる『魔術師』たちは、きっと貴族のなかでも下の位にいる者なのだろう。異能者施設で記憶を視ていたシーゼリアともう一人の男を想起する。
それに混じって、誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。声からして子供のものだろう。
「あぁ、うるさい。静かにしろ!」
怒鳴り声とともに、鞭の音が響いて、イユは竦んだ。
「イユ?」
「……何でもないわ」
この会話は、レパードたちの耳には届いていない。イユが勝手に聞いてしまっている声だ。
「『魔術師』がいても、やり過ごせばいいのでしょう?」
イユの言葉に、レパードは「それはそうだが」と口を濁す。
「いえ、避けられるものは避けた方がいいでしょう。厳しいのを覚悟で先ほどの分岐を右に行きましょうか」
ワイズが、イユの表情を見てどこかさっぱりと言い切った。声を聞くだけで固まっているようなイユでは、『魔術師』の横を通り過ぎるだけのことでもきっと無理だと判断されたのだ。
イユは悔しくて拳をぎゅっと握りしめた。
「そうか、右の通路でいいんだな」
レパードもどこか安堵した顔でイユのすぐ後ろを歩いてくる。
「えぇ、困るのは図体のでかいレパードさんぐらいでしょうし」
「おい」
若干のからかい口調は、きっと気を紛らわせようとしているものだ。
けれど、その間も会話は聞こえてくる。
「やれやれ。餓鬼の『異能者』ほど面倒なものはないな。運ぶのも億劫だ」
「心を制御できればいいんだけどな。売り物はどうしても跡がつくってうるさいしな」
イユは何も言えず、けれど足だけは『魔術師』から離れるように分岐に戻って右手を進んだ。
「ほんとそれだよ。従順にさせれば、楽だろうに。俺ならすぐに『一生泣くな』って指示してやるけどな」
後方から『魔術師』たちの笑い声が聞こえて、拳をきつく握る。
一体、何が楽しいのだろう。どこに笑う要素があったというのだろう。これが、これこそが、イユのよく知る『魔術師』の会話だ。
確かに、すぐに道幅が狭くなった。こちらの地下道は整備されていないらしく、はじめは散見された平らな壁もなくなり、でこぼことした天然の岩壁になった。後方のレパードは厳しそうだったが、通れないほどでもない。時々荷物があちこちにぶつかってしまったが、それでも誰とも出くわさない道を進めるのはありがたかった。
ワイズの判断は間違っていないのだ。何故なら、イユの耳は聞くことを止められなかった。
歩き続けるうちに、『魔術師』たちの笑い声は止んだ。代わりに頭上から、声を拾った。きっと壁一つ隔てた先、頭上にはいくつもの部屋がある。特別区域と称された建物の各部屋には、いろいろな役割を備えているようで、何をしているのか声だけで察せられるものと容易に察せられないものがあった。けれど、時折聞こえる鞭の音や『魔術師』の声に、間違いはない。
怖いなら塞いでしまえばよかったのに、それができない。異能があるのなら、もっと自由に力を使いこなしたかった。けれど、心は人が思うよりもずっと思い通りにならない。端々から聞こえてくる音を必死に聞くまいとする。それなのに、声が意味をなしてイユに届く。
「L147号。お前宛てに家族から手紙が来ている。返事を書くように」
L147号と呼ばれた者だろう。少女の声で「はい!」と返る。
「手紙はいつものように、お前の体調を心配するものだ。書いたら見せろよ」
「もちろんです」
今度は少年のものと思われる声が聞こえてくる。
「手紙、書き終わりました!労働に戻ってもよいでしょうか?」
「あぁ、相変わらず下手な字だしひどい文章だなぁ。まぁ、お前らしくていい。速やかに戻れ」
「承知しました!」
やり取りから察するに、心配する家族からの手紙を『異能者』に書かせている部屋のようだった。ただし、その内容は当然のように検閲され、『異能者』たちもそれに抵抗を感じていない。
心を制御していると、先ほどの声は言っていた。忌々しく天井を睨み付けながらも、イユはすぐに音が聞こえなくなるのを祈る。まだ、手紙に関するやり取りは続いていた。それを耳にいれながらも、頭のなかで今のやり取りを反芻する。そうすることで、きっと類似しない何かを探していた。
今まで聞いた声から判断するに、売り物となる者以外の『異能者』たちは皆、暗示を掛けられているようだ。確かにそうすれば、脱走されることは万が一にもない。それどころか、彼らは進んで労働力となる。掃き溜めにいたイユたちと違って、自殺に走る者もいないだろう。
しかし、それは、ある意味では最も卑劣な行為ではないだろうか。イクシウスの異能者施設では、あの状況であっても心は自由でいられた。鞭で打たれても、兵士を内心で罵倒することは許された。けれど、ここではそれすらできない。彼らは心すらも奪ってしまえる。イニシアの放牧された羊ですら、心の自由がある。それが、イユたちにはない。シェイレスタでは、イユたちは、羊以下なのだ。
改めて、ぞっとさせられる。彼らの行いは、人を完全に人形にしてしまうようなものだ。家族への手紙も書かせている辺りが、憎々しい。家族は手紙に安心して助けにこなくなる。それに、特別区域の生活に対して前向きな内容の手紙だ。まだ捕まっていない『異能者』の耳にその話が入っても、特別区域に抵抗は抱かない。『異能者』たちが集まって暮らしているだけだと思っているなら、彼らは逃げ出そうとしないだろう。中には進んで特別区域に赴く者もいるかもしれない。
しかし、実際は、小さい子供ですら泣くことも許されない場所だ。労働に昼も夜もないといっていた。ここでの扱いは、延々と働く機械と大差ない。
聞こえてくる音が、まさに機械の電子音に変わって、びくっとした。部屋がまた、変わったのだ。時折悲鳴が漏れ聞こえる。勝手にイユの頭が記憶と結びつけて連想する。延々と続く痛み、麻痺。意識が混濁し、記憶が朧になる。シーゼリアの苛々とした声が、聞こえた気がした。焼けるような痛みが、傷のない腕に走った。前を進む足がふらつく。
「いてっ」
後方からレパードの声が聞こえてきて、はっとした。頭を打ったのだろう、レパードが帽子の汚れを振り払う気配を感じる。
イユは浮かんだ過去を慌てて振り払った。こっそりと息をつき、気持ちを切り替える。
浮かぶのは施設のことばかりだが、思い出に浸るのだけはだめだ。せめて、建設的なことを考えれば気持ちも紛れるかもしれない。そう自分に言い聞かせる。
けれど、きっと、この上は、過去の出来事を思い出した通り、研究室だろうと思われた。イクシウスで行われていた異能の研究を、心を支配するシェイレスタがやっていないとは思えなかったからだ。
しかし、そう考えたことで、ふと疑問が浮かぶ。そうしたら何故、シェイレスタでは鞭が必要なのだろう。心を支配しているのだ。売り物という『異能者』を駆り出すだけならわかるが、水車でも聞こえてきた。売り物を労働に充てているのは思えないから、そこがよくわからない。抵抗されないうえ、全力で頑張ってくれる労働力があるのだ。鞭など、不要なはずである。
飛び付いた疑問への答えは、五分ほど歩いた先で聞こえた情報から推察できてしまった。
「おい、『異能者』のあまりはないのか」
そんな声は、電子音に混ざって聞こえる悲鳴の間を潜り抜けて、イユの耳に入った。明らかに偉そうな態度の男の声だ。
「はっ!どういった者をご所望でしょうか!」
こちらは、特別区域の担当者といったところだろうか。若い男の声で返る。
「元気な奴、3人だ。こないだ渡された奴は使えなかったからな。いいか?絶対に魔術の跡がない奴だ。こういうところが一番信用ならない。いつ他の『魔術師』に寝首を掻かれるか分かったもんじゃないからな。できれば自分の目で見て選びたいぐらいだ」
長い言葉なので、全てが聞こえたわけではない。それでも、文脈から想像してこれらの言葉になった。
「す、すみません。そういうことであれば、水車小屋まで案内します」
「あぁ、そうさせてもらおう」
水車小屋。それが最初に聞いた水車を回す音のする部屋だろう。その中から、『魔術師』が拾いものをしにきたらしいと推測する。イユはよく知っている。イクシウスの異能者施設にも時々来ていた。掃き溜めに行く前に、何回か顔を見せては『魔術師』たちは去っていった。イユは希望に添えなかったようだが、何人かはそれで姿を消した。あの者たちがどうなったか、知らない。知りたくもなかった。
ただ、今の情報で鞭の音が消えない理由を知った。全員が全員、心を操られているわけではないのだ。牢に入れられた時点で引き取りに来る『魔術師』もあるが、そうではない場合もある。きっといつでも、『魔術師』の要望に答えられるよう、何人か暗示をかけていない者を故意に残してある。それで、魔術ではなく暴力で抑えつける場が必要なのだ。
吐き気がする。相変わらずのやり方に、人としての権限は微塵も感じられない。やはり『魔術師』は、狂っている。あいつらにとってイユたちは、ただの玩具なのだ。




