その265 『突拍子もない『魔術師』に』
イユは、ようやく強く意識する。目の前にいる『魔術師』に、警戒しなくてはならないことを。
暗示を解き、傷を治してもらった。今までワイズのやってきたことには正直感謝しかない。
だが、同時に首を絞めろと言われたことも忘れやしない。いくら必要なことだとしても、そういうことを簡単に言ってしまえる存在なのだ。そして、『魔術師』は無償では働かない。イユたちが帰りたいと言ったところで、素直に、『はい、そうですか』といって受け入れてくれるはずがないのだ。
「どういう意味だ」
レパードの警戒の声に、ワイズは呆れたように答える。
「そのままです。あなたたちがいるのは、特別区域だ。門以前に特別区域から一歩、第ニ市民区域に出ることもままならない。お分かりですか」
その宣言を受けるまで、イユは正直、自身が囚われているという自覚がなかった。今こうして対等に『魔術師』と話していることで、錯覚してしまっていたのだ。
レパードもまた、そんな答えで折れる男ではない。
「俺らは、お前たちに捕まった。だからお前の言うことをきくしかないとでも?」
その気になれば強行突破も辞さないと、レパードの瞳がそう物語っている。
それを受けたワイズは、そっと目を細めた。
「まさか。それなら、牢でお話しますよ。それとも、そちらがお好みですか」
ワイズの口調は挑戦的だ。けれども、イユたちを囚人として扱うつもりがないことは、その言葉から察せられた。それはワイズという少年がまだ子供で甘いからなのか、実は裏があって『魔術師』らしい強かさを身に着けたうえでの発言なのか、判別がつかない。
「よいですか。つい先ほどまで牢にいたことを忘れる鳥頭にもわかるように言いますと、僕としてはあなたたちに困難であることの自覚を持ってもらいたいわけです」
ワイズの言葉は鋭い。
だが、イユたちが外に出ることを『不可能』ではなく、『困難』だと言っているのを耳聡く聞き入れる。ワイズは、イユたちを特別区域から外へと出すつもりはあるのかもしれない。一塁の希望を『魔術師』に託す危険性はわかっていた。だけれども、縋るのが一番手っ取り早いのも事実であった。
「はいはい、悪かったよ。頭が悪くて」
レパードも悟ったのか、ワイズの言葉に一応の謝罪を述べる。
もっともその態度に納得するワイズではない。鋭い切り返しが入った。
「それと、悪いのは体調と態度もですね。困りました、何も良いところがありませんね」
「……言ってろ」
ブライトといい、この姉弟は軽口の応酬が好きらしいと、ぼんやりと思う。
「まぁいいでしょう」
ワイズはどこか諦めた声音で、溜息をついた。
「一応ご理解いただけたようですから、先に治療してしまいましょう」
手に持っていた杖を九十度傾けて、ワイズが立ち上がる。
「ほら、さっさと立ってください」
と急かされた。
「何をする気だ」
レパードの質問に答えず、目を閉じて何事かを呟く。
素直に立ち上がったイユたちは、ワイズの杖に集う無数の光の粒を見た。触れたら消えてしまいそうな儚い光が、どこからともなく集まって、ふわふわと杖の周りを漂っている。それが、ワイズの目が開いた途端、イユとレパードに飛びかかった。
驚いたイユは、飛びのこうとして固まった。光はあっという間に、イユたちの中へと入っていく。それが、不思議と温かく心地よかった。
「これであなたたちの傷は、多少はよくなったでしょう」
ワイズの言葉と先ほどの光に、本当に傷を治してもらったのだと気が付く。ゆっくりと体中を確かめ痛覚を戻していく。すぐに痛みが走ったので、完治とはいかないらしい。けれど、はっきりとわかる。今までよりずっと体が楽なのだ。
「正直、あなたたちの愚か加減にはついていけませんよ。その怪我でセーレとやらに戻る体力などあるわけがないでしょう」
馬鹿ですか、とこれ以上なく明確に愚かさを指摘されたが、イユとレパードは今起きたことに目を丸くしているので精一杯だ。傷は癒えるのに時間がかかる。異能であっても、すぐに完治とはいかない。それがイユたちの今までの常識だった。ところが、今ここにある魔術は、その常識を覆してみせたのだ。
改めて、ワイズを見やる。見ての通りの、顔色の悪い子供だ。不相応な杖を持っているが、それがなければ『魔術師』とは思えないだろう。服装も、ブライトのものと違って庶民よりなので、余計にだ。
けれど、魔術は習得するのに何年もかかる技術だ。ブライトがあれほど多くの魔術を使えるのは、自他ともに認める天才だからである。それは暗示に掛けられていなくても感じていた、紛れもない事実だ。
しかし、そんなブライトよりも目の前の子供は、遥かに幼い。果たしてこの子供に、あとどれほどの魔術が使いこなせるのだろう。『異能者』と『龍族』を目の前にしてこれほど堂々と話すことのできる子供だ。ひょっとしなくても、姉と似て多くの魔術に精通している可能性は十分にあった。
更にはこのワイズという子供、こんなことをしだしたのだ。
「あとは手錠ですね。手を出してください」
言われたとおりにレパードが手を差し出すと、ワイズは鍵を取り出す。
すぐにテーブルに手錠が落ちる音が響いた。
イユは、唖然としてレパードの腕と落ちた手錠を見比べた。あり得ないことが起きたとしか思えなかった。魔法を使えないようにレパードにかけていた手錠を自らの手で外す『魔術師』など、きっと世界中探してもワイズぐらいなものだ。殺してくれと言っているのと同義である。
「……お前は俺らにどんどん貸しを作ってどうするつもりだ?」
レパードも呆然とした顔で、手を引き戻すことも忘れて、質問している。
イユはここまでワイズにしてもらったことを頭の中で並べた。一つに、暗示の解除。二つに怪我の治療だ。今回の治療とは別に、イユとレパードは死にかけていたところを助けられたということも忘れてはならない。ワイズは命の恩人である。三つ目に、手錠を外し魔法を使えるようにもした。そして、ここからは推測が入るが、どうやらワイズは外にまで連れ出してくれるつもりがあるようだった。不可能ではなく、困難という言葉からきた推測だが、ここまでくると本当にやってくれそうで期待したくなる。
けれど、それでもイユはワイズを信じきれなかった。確かにここまでくると聖人のようだが、慈善事業の類でうごかないことは『魔術師』を相手にしてきた経験からわかる。むしろ恩を売られれば売られるほど、対価が恐ろしくなると言うものだ。
レパードもきっと腑に落ちていないのだろうことは、今のイユの心境と全く同じ表情をしているからよくわかる。
「姉さんが世話になったようですので」
ワイズの返答に、やはりレパードは納得しない。
「善意や贖罪の類は、ことお前たちに対しては、信用に値しない」
ワイズがやれやれと言うように肩を竦めてみせた。けれど、あまり残念がっているようにはみえない。きっと予想していたのだろう。
「対価が必要ですか?そうですね。それなら話してもらいましょうか。三角館であなたたちが会っていた残りの人物について」
ワイズが見返りに求めているのは情報のようだった。それも、ブライトと会っていた人物に興味を持っているらしい。そして、三角館にいたのはサロウ一人でないとも踏んでいるようだ。




