その264 『帰りたい』
「しかし、本当にもう大丈夫なのか?」
レパードの心配した声が降ってくる。
イユはかろうじて頷いた。
「何故か、涙が止まらなくなっただけ」
他に言えることはなかった。レパードはまだ複雑そうな顔をしているが、何が起こるか分からないと言われ付き添ったほどなのだ。レパードからしたら、不安を感じるのも分かった。
けれど、今のイユには、泣き張らした後の、憑き物が落ちたかのようないっそ清々しいほどの感情があるのみだ。いや、正確には違う。心が散り散りになったまま、集まりきれていないだけなのだ。そんな状況では何も浮かんでくるはずもない。あるのはせいぜい、ブライトに感じた恐怖のみだ。
「……厳しいことを言うことになるんだが、一つどうしても確認したいことがある」
レパードが難しい顔をして、見下ろしている。
イユは言わんとすることも察せず、見返した。
「サロウについて、分かることはあるか」
それが、レパードがなんとしてもほしい情報だったようだ。リュイスを助けにいこうにも、防がれたと言っていた。きっと、対策が欲しいのだ。何か手段がなければ取り返しにいってもやられてしまう。
けれど、サロウと聞いたイユに浮かんだのは、恐怖だ。ブライトへの恐怖に連想されてしまったのもあったのだろう。先ほどのワイズの命令があったから、余計に浮かんでしまったのかもしれない。
辛うじて首を横に振る。記憶が頭の中にちらついている。その記憶が、イユの知る、レパードの知らないサロウの話だ。けれど、レパードの求めている情報ではないだろう。
しかし、途端に襲ってくる吐き気に、浮かんだ記憶が遠のく心地がして、イユ自身がぞっとした。
例え無関係でも話しておくべきだと決心させられた。
話したくないと思っていた過去も全て、思い出せているうちに曝け出したくなった。隠し事は一切したくなかった。イユが覚えているうちに、レパードに聞いておいてもらいたかった。そうすればまた異能が記憶を歪めたときに、正しい記憶を語ってくれる人がいる。
「私……」
思い出そうと思えば、思い出してしまえることにも、怖くなる。いつ急に記憶が戻って、その衝撃に意識が飛ぶかもしれないと懸念する。けれど、それが本来のイユなのだ。聴力を調整できるように、記憶力もまた、異能で調整できてしまう。そして、今まで歯止めをかけていた暗示は、もうないのだ。
そっと、自身の首に手を当てる。まだ暗示の心配をしているのだろう、レパードがすぐに視線を寄越した。
「……私、あの男に首を絞められたことがあるわ」
実際に今、首を絞められたわけではないのに、声が出てくるのに時間がかかった。何故絞り出すように声を発する必要があるのか、自分でもよくわからない。分かるのは、身を凍らせるような恐怖だけだ。それも振りきれてしまって、段々何も感じなくなってきた。
「……その男が、どうかしたのですか」
事情を知らないワイズの言葉に、誰も何も返さない。
イユを支配しているのは、当時の記憶だ。若いサロウが、灰色の双眸をイユに向けている。その怒りの目が、一枚の写真のように頭の中で浮かんでいる。イユは謝っている。『ごめんなさい』と泣きじゃくりながら、訴えている。その声が、首を絞められて引き攣っている。あれほどの怒りを向けられたことが初めてで、イユの身は竦んだ。同時に取り返しもつかないことをしたことが分かっていた。
そんな記憶が、イユの中に確かにあった。
イユは、首から手を離して膝の上に乗せる。その手が震えているのが分かった。レパードの目は、心配そうなままだ。
「その男は、お前の父親じゃないのか。何で、そんな仕打ちを」
「わからないわ」
本当に分からなかった。サロウに対しては、何の実感も感慨も沸いてこなかった。過去の記憶と自身が全く結び付かない。まるで、イユという存在をもっと高い別の場所から見下ろしている気さえした。
「サロウ・ハインベルタですか」
フルネームでその名前が呼ばれた。それに、二人の視線が声の主、ワイズへと集う。
ワイズは肘をテーブルに乗せて考えるような仕草をしていた。
「何者か分かるか」
「確か、イクシウスの異能者施設の施設長です」
別の国の『魔術師』の名なのにも関わらず、すらすらと出てくるあたり有名な人物なのかもしれない。そんなことをぼんやりと考える。
ふいに、イユの頭にシーゼリアの顔が浮かんだ。恐怖を感じると同時に、そうかと納得がいく。シーゼリアは、イユの父親がイクシウスの施設長だと言っていた。その通りだった。彼女は何も嘘をついていなかったのだ。
そして、気が付いてしまった。異能者施設の施設長でありながら、イユを助けにこなかった理由だ。他でもない、施設長自身がイユを殺そうとしていたのだ。それは確かに、助けに来るはずがない。凄いなと乾いた感想を抱く。異能者施設を逃げ出したイユを追って、こんなところまでやってきた。なんて執念深い『魔術師』なのだろう。そこまでの憎しみを彼に与えたイユは、一体何を……。
必死に首を横に振った。今、思い出したくなかった。次から次へと来る衝撃に、心が耐えられる気がしなかった。できれば、どこか安心できる場所で、心行くまで休みたかった。そうして立ち向かう気力を養ってからでないと、歩き出せない気がした。
「お前の姉さんに連れていかれたあの議事堂に、あいつがいた。あの男に、イユは殺されかけたんだ。俺も、あんな男がこいつの親だとは考えたくはない」
親失格だろと、レパードが吐き捨てるように言った。そんなレパードの憤りが、どこか優しい。
その優しさに、セーレが思い起こされる。無性になつかしかった。
帰りたい。そう、意識する。意識してしまったら、急に空っぽだった心に、欲望が芽生えだした。
会いたい。帰りたい。もう一度、セーレを見たい。
「姉さんは、サロウと繋がっているのか……」
一方で、ワイズは今得た情報を吟味するかのように、考え込んでいる。
「他に関係者はいましたか?」
ワイズの質問に、レパードが一瞬躊躇う素振りを見せた。折角の交渉のカードをガンガン切ってしまうことは、たとえ相手が子供であってもしたくない。そんなレパードの思惑が垣間見えた気がした。
「……私、セーレに帰りたいわ」
ワイズの質問を無視する形で、ぽつんと呟いたイユに、二人の視線が集まる。せめて一通り話が終わるまで待てばよかったのかもしれないが、他人の話を聞く余裕がなかったのだ。
「セーレとは何でしょうか」
ワイズの質問に、レパードが肩を竦めて答えた。ひょっとすると、ギルド名は伏せたかったのかもしれない。
けれど、イユの頭の中は、既にセーレでいっぱいだった。リーサに会いたかった。マーサやセンならいつも通りの落ち着いた顔でイユを出迎えてくれる気がした。あの顔を一瞬でも見られたら、前向きになれる気がした。
「俺たちの所属する船の名前だよ。シェイレスタに着いた時には物資が尽きかけていてだな。本当のところは、それを補給するために都へ寄っただけなんだ。早くしねぇと、あいつら全員飢え死にだ」
レパードの言葉は大袈裟でもなんでもないのだが、ワイズはすっと眉を眉間に寄せた。
「……都の門は、まだ閉ざされているのかしら」
イユは都の門が閉まっていたことを思い出して、そう呟く。少しでも早く帰る手段がないかと、思案した結果だ。門を異能でかけ上がるよりも、開いている門をくぐった方がよほど早い。
それに、できれば食糧も持っていきたかった。そうすれば皆きっと喜んでくれるはずだ。ミンドールは、ギルドの仕事と称してよくお小遣いを渡してくれた。今回も、あの笑顔で迎えてくれるだろう。
それで元気付けられたら、今度はリュイスを助けにいくのだ。
「門は開いていますが、正直あなたたちにとっては門が開こうが閉まろうが、どうでもよいことですよ」
ワイズは、そんなイユの思考を断ち切るかのように、辛辣に答えた。




