その263 『解かれた暗示の確認方法』
「……私が、割ったんだわ」
知らず、イユは頭を抱えていた。
グラスの中、水面に白い花が浮かんでいる。ぴきっと、氷から音がした。その花は次から次へと溶けていく氷に巻き込まれるように、水の中へと引き摺り込まれていく。
魔術書がペンダントに変わってからの流れは、思い出すまでもなく予想がついた。ブライトはただイユに命じるだけでいいのだ。ペンダントのことは忘れるように、刹那がブライトについたことを思い出さないようにと。ひょっとすると、こんなことも命じているかもしれない。シェイレスタのブライトの屋敷まで連れていくという暗示に掛かったように振舞え、リュイスを連れだせるように少しでも仲良くしておけと。イユはブライトを信頼しているからこそ、命令を忠実にこなす。ブライトは細かく指示する必要すらない。イユが勝手に判断して、ブライトの期待に応えるべく頑張るからだ。しかも当のイユは自身の異能で記憶力すら調整できる。故意に、その命令を忘れてしまえるのだ。
なんて都合の良い力だろう。イユは自身の両手を見つめた。傷一つついていない白い手は、異能の力で都度傷を治してきたものだ。この手は、異能による作り物なのだ。
「イユさん。この暗示を解きたいですか」
ワイズが確認をするように、口を開く。何かを言いかけようとするレパードを目だけで制し、イユをじっと見つめた。その目は本気だ。
イユは自身を振り返る。暗示に掛かっているとわかっていても、ブライトを裏切ることはできない。それは絶対だ。それでも、ブライト自身が暗示を解くことを望んでいる。そして、イユ自身もなくしてほしかった。自分の心が音を立てて壊れていくようで、無理やり刺された杭を引きはがしたくて仕方がなかった。
「えぇ」
イユの返事を受けて、ワイズは杖を取り出した。それをイユの前へと突き出す。
「必要な条件は揃いました。さぁ、意識を杖へもっていってください」
白い杖だった。先端に桃色の水晶玉がとりついていて、そこから片翼の羽が覗いている。近くで見たから羽と気づけたが、それは遠くから見ると鎌のようにも見えた。幼い少年の持つ、白い鎌だ。イユには少年が死神のように、その白い鎌が、死神の所持品のように思えた。
それでも、言われたとおり杖に意識を持っていく。この鎌がきっと暗示を断ち切るのだと思うことにした。
テーブルごしに杖を差し出したワイズは、そっと目を閉じて、何事か呟いた。
その途端、杖の水晶玉から空気の揺れを感じた。
好奇心を突かれたイユの意識は、完全に水晶へと向いた。耳をすませれば聞こえてくる。それは、澄みきった音だ。しかし、会話や、グラスの中で揺れる氷の音とも違う、耳には聞こえない音だった。それなのに、空気が揺れているから、はっきりと音だと分かる。擬音で表現できない音は、けれどもどうしてかイユの琴線に触れた。
その音は、まるで心に寄り添うかのようだった。音としては聞こえなくても、揺れから間隔はつかめる。トーン、トーンと。心臓の脈と同じ間隔だった。
ずっと聞いているうちに、さざ波の立ち続けていた心という水面が落ち着いていく。いつの間にか目を閉じていた。それにも気づかず、音を聞き続ける。不思議と心地よかった。暑さも痛みも吹き飛んで、今この場には心を清める音だけが、イユを包んでいた。
同時に、心に突き刺さった杭が、じわじわと溶かされていくようだ。刺さったことで傷んだ心が、棘を抜いた傷跡を修復していく。心の奥底で訴えていた痛みが消えていく。
ずっと、こうしていたかった。こんな風に落ち着いた気持ちになれたのは何時ぶりだろう。永遠と、この穏やかな音を聞いていたい。そうすれば、心を荒ませずにすむ。
ところが、そう思った次の瞬間、音がはじけた。杖が地面へと転がる音が響く。現実の音に、驚いたイユの意識は覚醒した。
「これで、いいはずです」
地面に落ちた杖を拾いながら、ワイズがそう告げる。
まるで、永い眠りから覚めたようだった。今自分がソファに座っていることに初めて気が付いた気分になる。今まで見ていたのは全て夢だった。そう言われた方がしっくりくるくらいだった。
ふいにイユの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「イユ?大丈夫か」
レパードの瞳に、イユの姿が朧げに映っている。それで初めて、イユは自分が泣いていることに気が付いた。
どうしたことだろう。抱けた感想は、それだけだった。
心が痛いわけではない。むしろ、痛みはひいたのだ。それなのに、自分の目から溢れる涙が止められない。レパードに返事をかえそうとしたが、それすらできなかった。
涙が止めどなく溢れてきて、どうにもならない。頭の片隅では泣いてはいけないと思っていた。泣くことは弱さをみせることだ。それはだめだと。それなのに、心が言うことを聞かない。異能で無理やりにでもと思ったのに、その力すらうまく使えない。
イユは、涙を流し続けた。
自分でもこの気持ちに、訳がわからなくなっていた。
「落ち着いたか?」
暫くしてから、再び声をかけられて、イユは頷く。涙がようやく引いていった。
「イユ。お前はブライトのことをどう思っている?」
それは、レパードにとって、暗示が解けたかどうかの確認だろう。それならば、イユは信じていないと答えるべきだった。けれども、イユはどうしても嘘がつけなかった。
「わからないわ」
いきなりブライトのことをと言われても、心がついていかない。まるで遠くにあるみたいにぼやぼやと、心のピントが合わない。考えたくないのだ。
けれど、それではいけないということも分かっている。一息ついて、ブライトの顔を思い浮かべる。赤い瞳がイユを見つめている。にやりと笑みを浮かべたその顔に、びくりとした。
「怖い。それは間違いないと思う。でも、できればあまり考えたくないわ」
信頼すべきではないということも、理性では分かっていた。他でもない、イユはブライトに裏切られたのだから。けれど、ブライトのことを信頼していた自分が、いなくなったわけでもない。杭は外れても、長い間杭を打たれていれば、痕が残る。そのせいか、心が考えることを否定する。
「どういうことだ?」
訝しむレパードに、ワイズが答える。
「こういうのは人それぞれですから、なんとも。ですが、心は紙のように裏表がはっきりしているわけでないのです。暗示を解いた瞬間、好きだった相手を憎むことはできないのでしょう」
「それだと、お前の言う確認ができないわけだが」
レパードの言葉に、ワイズは首を横に振った。
「聞き方次第ですよ。無茶なことを言っても、実践しようとしてしまうのが暗示ですから」
そうして、ワイズはイユに向き直る。
「僕はあなたが信頼していたブライト・アイリオールの弟です。つまり、僕の命令は姉さん、ブライトの命令と思ってください」
無理があるだろうとかそういうことは、なるべく考えない。試されていると分かっているイユは大人しく頷いた。
「それでは、命令しますね。自分の首を絞めてください」
「お前な!」
間髪いれず、レパードが立ち上がった。怒りのあまり、声が震えている。
「本当にお前たちは姉弟だな!」
ブライトはイユの首にナイフを当てるように迫った。今回は首を絞めるようにと命令されている。レパードの言いたいことも分かる。
しかし、ワイズはそんなレパードを冷ややかに見つめている。幼い顔に映る冷淡な表情に、ワイズもまた『魔術師』なのだと、意識させられた。
イユは、首を小さく横に振る。
「そんな命令、聞けるわけないわ」
「当たり前だ」
憮然とした顔でレパードが座り直す。イユの返事を聞いて落ち着いたようだ。
ワイズは頷いて返した。
「どうやら暗示は解けているようですね」
「こんな物騒な確認方法があるか!」
レパードの文句など、どこ吹く風だ。
こういうところは、本当に姉弟だった。顔のパーツも髪色も全く似ていないのに、確かにそこに似たものが感じられる。だからか、イユはワイズのことも怖いと思った。人という尺度で測れない物事の考え方をしてしまえる、そんな『魔術師』が怖かった。
鳥肌がたっている肌を隠すように、そっと腕を抱いた。
「この、クソガキが」
レパードも、同感のようで、そう毒突いた。




