その261 『二人の間の交渉』
「では、イユさん。姉さんに暗示を掛けられたときのことを思い出してもらってもいいですか。それを僕らに語ってください」
驚いたのは、ワイズが魔術を使うわけもなく、ただそう言っただけだったことだ。
イユはそれだけで当時の話をすることができた。もともと、ブライトに言われて大方思い出していた記憶だ。整理しながら、落ち着いて話す余裕もあった。
「私はまず、ブライトに記憶を見せたの」
ぽつりと、イユは語りだす。その内容に、レパードが眉をひそめた。
とにかく、一番覚えているのは、長かったことだ。記憶を覗かれる時間が、延々と続くようだった。意識が途切れ、呼び覚まされ、そしてまた途切れる。その果てしない流れをただ繰り返した。この時点で、夜明けは近づいていただろう。そして、その最後に、ブライトは言ったのだ。
「……だったんだね」
ブライトの声に意識が戻り、イユは彼女を見たのだ。いつの間にか体は地面へと横たわっていて、見上げる形になったが。
「ブライト?」
確かその時、声が出たと思う。それとも声が出たと錯覚しただけなのかもしれない。
そしてブライトは言ったのだ。
「イユは、『魔術師』の家系だったんだね」
イユの目が驚きに見開く。
意識はぼんやりしていたけれども、まだこのときは思考がはっきりしていたのだ。
「どうして、そんなことまで……」
自分が『魔術師』の家系であるという事実よりもまず、イユの口から出たのはこの言葉だった。ブライトにみせていいといったのは、異能者施設までの記憶のはずなのだ。最も、その過程で知ったのかもしれない。けれども、その前に、疑惑がイユの頭を過ったのだ。自身にとって、認めたくない過去を当たり前のように告げる悪魔に、警戒心を抱いた。
「全部見たからって言ったら怒らせちゃうかな」
ブライトは悪びれることもなく、そんな風に言ってのけた。
「当たり前でしょう!」
つい叫んだその瞬間に、イユは咳き込んだ。肺に甘ったるい香りを吸い込んだのだ。
何事だ。イユのなかで危機感が叫んだ。記憶を視るだけなら、こんな香りはしない。警鐘が頭の中で鳴る。何かがおかしい。やはり、ブライトは何かを企んでいる。
しかし、イユの体はまだかなしばりにかかったように動かない。魔術の効果が残っているのだ。
信じるべきではなかった。後悔を抱いたイユは、以前やったように、足の力を抜いた。
崩れ落ちた勢いで、地面の法陣が消える。それを確認して、イユは再び立ち上がる。とにかくこの場から逃げなくてはならない。少しでもブライトから離れて、他の船員に危険を伝える必要がある。
ところが、進もうとしたその瞬間、イユの視界がひっくり返った。
態勢をうまく保てず、顔面から転ぶように床に転がる。じんじんと響く頭痛が、危険を訴えていた。何が起きたかを悟る暇もなく、背後から声が聞こえてくる。
「無茶はよくないよ、イユ。そろそろぼぉーっとしてくる頃じゃない?」
ブライトのその声に、イユの背筋が凍った。
鳥肌をたてながらも、体を起こして再び扉へと向かう。扉までの距離はそこまでないはずなのに、今日はやけに長かった。視界が定まらず、よろめく。床に足がついた。
足取りが覚束ないイユをからかうように、ブライトの足音が近づいてくる。ブライトの足音は軽い。トン、トンと、弾くような音が迫ってくる。
それから逃げるように、必死に重い足を動かす。何度も床へと足をつき、それでも立ち上がって、文字通り、足掻いた。
そのとき、待ちかねたように扉が先に開いた。異常に気付いた船員が、開けたのだろう。助かった。心の底からそう思った。これで、ブライトを取り押さえられる。
ところが、その扉の先から浮かんだのは、白い装束だった。暫くして、薄闇の中から人の輪郭が浮かぶ。青い大きな瞳が二つ、光っていた。刹那だ。
「刹那!ブライトが!」
言いながら崩れ落ちるイユに、助け起こそうとしてか、刹那が歩み寄った。
今の言葉だけでは事情が伝わらない。そう思ったが、口もまた思ったように開けられない。自分の体なのに、全体的に鉛のように重く、自由が効かないのだ。
そこに、声がふり掛かる。
「刹那!イユ!逃げるんだ!」
声はアグルのものだ。いつの間にか、起きていたらしい。イユの言いたいことを伝えてくれる。きっと人生で初めて、まともに起きられもしない怪我人を頼もしいと感じた。
「あーあ、アグルまで起きてたの。ねぇ、刹那。どうする?逃げる?」
聞かれた刹那は、崩れるイユに近づいた状態で首をかしげた。
「どうする?ブライトは危険。皆に伝えてくる」
その時まで、確かに刹那はブライトの敵だった。
「いやいや、あたしが気付いていないとでも?刹那って、『式神』だよね?ご主人さまと協力関係にあるやつ、売っちゃうの?」
だが刹那は、始めからセーレの味方ではなかった。
イユには、式神という言葉の意味は分からない。けれども、ブライトの言い方に、刹那が決して味方ではないことを悟る頭はあった。だから、ぎょっとしたイユは、刹那から飛びのこうとした。ところが、既に体が言うことをきかない。
少し仰け反るだけで終わったイユに、刹那の腕が絡みついた。
「考えてもみなよ?ちょっとあたしに協力するだけで、ご主人さまの望み通りにことが運ぶんだよ。そう、今起きている出来事を見なかったことにして、魔術書をここに持ってきてくれるだけでいいんだよ。そうすれば、みんなハッピーでしょう」
まだ小首を傾げている刹那に、イユはせめてと呼びかけた。声はまともに出ていなかったが、代わりにアグルが叫んでくれる。
「刹那、ブライトの話を聞くな!」
それを無視して、ブライトが更に付け加える。
「いいの?刹那の正体はこの二人に聞かれたんだよ。記憶を消せるのはあたしだけ。ご主人さまのためになることはどっちか、ちゃんと考えてごらん?」
きっと、これが分かれ道だった。イユには言葉を紡ぐだけの余裕がなく、アグルはまた刹那の名前を呼ぶことしかできなかった。そして、ブライトは刹那に条件を用意してみせた。
刹那は、こくんと頷いてしまった。
「分かった。克望の望むこと、する」
そして、イユを見る。その蒼い目に何の感情も浮かんでいない。確かにここに蒼という色が存在するのに、まるで空洞な目に睨まれているかのようだ。
イユはただ、戦慄した。刹那は決心してしまった。その意思を変えることはできなかった。
刹那は、そんなイユに安心させるように告げた。
「大丈夫。ここでブライトの言うことをきけば、イユを殺さなくてすむ」
その言葉は、冷たい凶器となってイユの首を絞めつけた。あまりにも淡々と言ってのけたから、その気になれば刹那はいつでもイユを殺せたのだと言うことに逆に気づいてしまった。言葉の表面だけみれば安堵してみえるそれも、実際に声を聞くと分かる。そこには、人が抱く、仲間を殺めることへの躊躇が全くないのだ。目の前の存在が、同じ人ではないことを自覚した。
刹那の冷たい手が、イユの生気を奪っていくようで、イユの肌はずっと粟立っていた。




