その260 『解いて』
ソファは、来客用というだけあってふかふかだった。沈んでいく体が、どっと疲れていることを意識させる。先ほどまでの道を歩いただけでも疲れがでていることに、誰よりもイユ自身が驚きだ。
「それで、話の続きは?」
促すレパードの前に、グラスが置かれる。透明な水の中で、氷が踊っていた。ワイズが部屋の奥から持ってきたものだ。来客用というのは嘘ではないらしい。狭い部屋の奥に、給湯室が用意されているのだ。
「シェイレスタは客人にお茶ではなく水を出す流儀なので」
イユの前にも水が置かれる。よく見ると氷の中にハーブの葉や花が埋められている。溶けると、水にハーブの味が加わるのだろう。手の込んだことだ。
「お湯やお茶が良ければ、すぐに替えますよ」
とワイズが聞くので、イユは首を横に振った。すぐに水を口に運ぶと、すっとする清涼の香りとともに冷たい水が喉を通った。
「おいしいわ」
レパードは、水を飲むイユをぎょっとするように見つめていた。しかしイユの様子を見て、呆れたような仕草をする。水には絶対に手をつけようとしなかった。
「そうですね。それでは話の続きといきましょうか」
ワイズは自分の手元に置いたグラスを運んで、一口飲んだ。
「まず名前を伺っても?」
警戒を続けて名乗らないレパードを予想して、イユは先手を打つ。
「イユよ。こちらはレパード」
レパードが勝手な真似をするなとばかりに睨んでくるが、そんなことで肩肘張っても仕方がないだろう。
「そうですか。改めて宜しくお願いします。姉の分まで」
「絶対ごめんだ」
ぼそりと呟いたレパードの言葉はなかったことにされた。
「それでは、暗示を解く必要があるのはイユさん、あなたでよいですね?」
イユは思わず自身を指さした。
「……お前、分かるのか」
レパードが横から真剣な顔で割り込んでくる。
「えぇ。それに姉さんからの手紙にも、『もし会えたら、イユにかけた魔術を解いてほしい』とありましたから」
イユはただただ目を丸くする。まさかブライト自身がそんなことを望むとは思っていなかった。
「どういうこと。私はもう不要ってこと?」
乾いた喉を潤すことも忘れて、呆然としてしまう。
ワイズはにこやかに、あくまでさらっと言った。
「いらないんでしょうね、暗示のかかったイユさんは」
それから、ワイズはレパードへと向き直る。
「気づいてはいるでしょうけれど、姉さんの思惑に関係なく、あなたたちのいうところの『暗示』は、放置するにはあまりに危険です」
レパードもワイズと目を合わせている。その顔は真剣そのものだ。
「お前たちが掛けたんだろ」
「そうですね。身勝手なことを言っていることはわかっているつもりです」
ワイズは、呆れたように溜息をついてから、
「だからこそ、僕が解かなくてはなりません」
と、言い張った。そこから垣間見える強い意志が、鳶色の瞳に宿っている。
レパードもその真剣さに気が付いたのだろう。「何故だ」と問う。
「姉の失態は、弟が正すってか?」
ワイズはレパードのからかうような口調に、頷いてみせた。冗談が通じていないわけでもない。あくまで真摯に、その言葉を肯定している。
意外な心持ちがした。イユのなかの『魔術師』は、大抵イユのことをもののように扱った。せいぜいの例外が、シーゼリアのように憎悪を向けてくる者がいる程度だ。少なくとも、彼らはブライトの行為を敢えて『失態』だとは思わないだろう。けれど、今目の前にいるワイズは、あくまでイユに真摯に接しようとしている。このような心根を持つ者を、初めて見た気がしたのだ。それとも、この表情も、演技なのだろうか。そうして、近づいて、新たに暗示をかけようとするのだろうか。ブライトのよう――、いけないことを考えているような気がして、イユはその思考を振り払った。
それから、ワイズは「ただし」と前置きした。
「この暗示は解くにも危険を伴います。心の拠り所になってしまっている場合、情緒不安定になることもあります。過去の事例では、自ら命を絶った人もいます」
紡がれる言葉に、レパードの目が見開かれる。
「……こいつは、一度別の暗示に掛けられたことがある。その時は何ともなかった」
ワイズは首を横に振った。
「一度大丈夫だったからといって次も大丈夫である保証はありません。むしろ魔術で心を歪められていればいるほど、どうなるか想像がつきません」
イユには二人の会話はあまり耳に入らなかった。先ほど、ワイズは暗示のかかったイユはいらないと言った。そのことでふと思い当たったのだ。グラスの中の氷が溶けて、ハーブが頭を覗かせる間も、じっと考えをまとめていた。
「ですが、この暗示に至っては解かないという選択肢はありません。だからこそ、あなたが隣でついている必要があります」
いざという時、誰かが見張っていないとどうなるか分からないからと、ワイズはそう続ける。
隣のレパードの喉が鳴った。逡巡するように、ちらりとイユを見る。
イユはすかさず告げた。
「解いて」
グラスを置いた勢いで、氷がからんと軽い音を立てた。
「暗示のかかっている私はいらないんでしょう?それなら、解いて」
それはあくまでブライトの暗示に縛られた答えだった。それでも、イユはワイズの言葉の裏に気付いていた。暗示のかかったイユがいらないのであれば、暗示のかかっていないイユは必要とされているということにだ。
それに、イユ自身、ちぐはぐな自分の心に気が付いていた。ブライトのことを信じている。それは間違いない。けれど、心のどこかが痛い。その痛みが、信じきれない自分の心の弱さなのだというのも薄々感じている。だが、ここまでの目に遭ってこれ以上信じろというのか。
一瞬浮かんだ思考が、イユの胸の中をかき乱した。視界がちかちかと瞬く。浮かんだ邪念のせいだ。そう思ったイユは必死に今の思いを打ち消そうとする。そうしないと、心が悲鳴をあげてしまう。胸が苦しい。呼吸がしづらい。
きっと、ブライトのかけた暗示は不完全だった。いや、違う。ブライトはわざとその暗示をかけたのだ。生きるという暗示とは違う、考える猶予をイユに与えただけだ。
ブライトを、疑ってはいけない。信頼しなくてはならない。そして、イユはその信頼に応えなくてはならない。
ゆっくりと深呼吸をする。自身に言い聞かせる。
ブライトを、信じる。その期待に、応える。
そうしなければ、イユはきっと――、壊れてしまう。
「わかりました」
イユの心の中の葛藤の余所で、ワイズたちは会話を進めていた。ワイズはレパードの方をちらっと見て確認を取っている。
レパードもそれに頷き返した。
「正直、気に入らないがな。お前たちの都合で人の心を歪めておきながら、勝手に危険だとか言い出して、何様だよと言いたくなる。それに、お前が本当に暗示を解くかどうか疑ってもいる。ほかでもないお前の姉さんは、暗示を解くことを餌にこいつを自分好みの人形にしちまったんだからな」
レパードの言葉に、ワイズが深い溜息をついた。どこか投げやりに、ここにはいない姉のことを思ってか遠い目をして、
「相変わらずのようですね、姉さんは」
と呟いている。それから少し思案して、提案する。
「そうですね、信用ならないというのならば、暗示を解いたかどうかの確認を、あなたが行えばよいと思います。それに僕が怪しい挙動をしたと思ったら、その時点で僕を止めてくれて構いません。幸いにして僕よりあなたの方が体格上優位にある。武器がなくても、幾らでも僕を止められるでしょう?」
レパードはそれを受けて答える。
「その安請け負いが信用ならないんだが」
「面妖なことを言いますね。これ以上ない譲歩だったつもりなのですが」
レパードは、気に入らないという顔を崩さなかった。ブライトが、幾らでも譲歩する姿勢をみせていたから、この程度ではなびかないのだろう。
「お前の目的は何だ。まさか本当に姉の尻ぬぐいだけじゃないよな?」
レパードの言葉に、ワイズが不思議そうに目をしばたかせる。
「目的がわかれば、納得するんですか」
レパードは一瞬言葉に詰まったようだった。その間に、ワイズがぺらぺらと話している。
「それなら、お答えしましょう。尻ぬぐい以外には、あなたたちを助けることで、姉さんの思惑が分かるかも知れないと考えています。あの姉は、ご存じでしょうが、自由奔放でどこをうろつきまわっているのかよくわからないので、少しでも情報が欲しいのですよ」
つまりですね。とにこやかに続ける。
「僕の目的は、あなたたちを助けないと始まらないわけです」
暗示にかかったイユでは、ブライトの目的を話さない可能性がある。そう暗黙のうちに告げている。
「実を言うとですね」
こういうところは、姉そっくりだった。ワイズはレパードに考える隙を与えないうちに、次から次へと言葉を重ねていく。
「暗示の中身を、僕は知りません。ですが、危険な類いのものであるのは彼女の反応から察しがつきます」
「危険な類い?」
「えぇ、本人の思考を無理やり変え、依存させるものです。この手のものは、心に傷を残しやすい」
早く解いた方が身のためだと、にこやかに締めくくる。
レパードは苦虫を噛み潰したような顔をしている。ワイズに、ブライトの影を見ているのは、似ていると感じているイユにも分かった。
二度あることは三度ある。あまりにも似た展開に、レパードは躊躇しているのだ。
けれど、あの時はイユ一人で決めた。今ここには、レパードとイユ二人がいる。怪しい動きがあれば止められる人物が確かにここにいる。
イユはレパードの手をそっと握った。
驚いた顔をしたレパードが、視線を向けてくる。
その視線にどんな顔をしていいか分からなくなったイユは、努めてワイズの方を見つめた。それで意図が伝わっていると思いたかった。
視界の端で、レパードが小さく頷くような仕草をし、そしてワイズの方を真剣な目つきで見つめ返した。
レパードも、イユの判断を信じたのだ。
最も、イユには読めていた。たとえレパードがここで断ってもだ。最終的に頼りになるのはワイズしかいない。レパードがいくら探し回ったところで、暗示を解くという『魔術師』に会う機会はもうないだろう。仮に会えたとしても、今まさにワイズに感じているように、もっとひどい目に合うのではないかと疑うことしかできない。それならば、一生イユの暗示を解く機会はやってこない。
裏切り続けられたからといって、拒絶し続けることはできない。いつか向き合わないといけないのだとしたら、イユはこの機会に暗示を解いてしまいたかった。それがブライトの望みでもあり、心の底で時折あがる小さな痛みにも通じているものであった。
レパードが、声音は真面目なまま、やれやれという仕草をした。
「分かったよ、さっさと解いてやってくれ」




