その259 『あの『魔術師』の弟』
「おい、そんな話は聞いていないぞ。お前が、ブライトの弟だって?」
レパードが立ち上がるのを見て、イユも同じように立つ。立ち眩みが起きたが、そこはレパードの腕に掴まって何とか耐えた。
「今、お話しましたから」
涼しげな口調を崩さないワイズに、レパードの眼光が鋭くなる。怒っているのだと気が付いた。
「お前の姉さんには言ってやりたいことが五万とあるんだが?」
イユですらぎょっとしてしまう声音なのに、ワイズはどこ吹く風と流している。それどころか、「そんなことよりも、場所を変えませんか」などと話を変えていく。
その様子を見れば、姉弟という話は事実なのだと察することができた。見た目は全く似ていないが、挙動がどこか共通しているのだ。
「おい、待て」
ワイズは背を向けて長い廊下を歩いていってしまう。鉄格子の扉は開けられたままだ。
顔を見合わせたイユとレパードは、牢から抜け出した。飛び出た先で兵士たちが脱走したイユたちを捕らえにくる、ということはなかった。右手を見ても左手を見ても続いている長い廊下には、兵士らしき者は一人もいない。ただ、ワイズと名乗った子供だけが、一人廊下を歩いている。
レパードからの視線を受けて、イユは頷いた。
二人は、ワイズの背中を追いかけて進みだす。勿論、この状況なら敢えて『魔術師』に背を向けて逃げるということもできた。それにイユは手錠をしていないから、その気になればレパードの錠を壊し、レパードに魔法を使わせることすらも可能だ。
けれど、ワイズはイユのことを正しく『異能者』と呼んだ。それならば、逃げられる可能性を何も考えていないとは思えなかった。
イユの想像では、ワイズのいないもう片方の道は、きっとただの行き止まりだ。そうなれば、向かうべきはワイズのいる方角だけである。ワイズに追いつこうと、足を進める。
「……大丈夫か?」
「平気よ」
知らなかった。背中を刺され一週間寝込んだ人間が長い廊下を歩くということは、想像以上に大変なことだった。異能で痛みを調整しているのに、レパードの支えなしでは満足に歩けなかった。
本当は、レパードも怪我をしているのだから支えるのはつらいはずだ。だから、なるべく負担にならないよう自分の体に無理を言わせようとする。そのたびに、痛みが突き抜ける。
痛そうな顔をするとレパードが心配するのは目に見えているので、何気ない顔を頑張って作る。
やせ我慢ではレパードに勝てそうにないなとちらっと思った。レパードの顔は、いつも通りにしかみえない。けれど、怪我が完治していないのはお互い様のはずなのだ。
あまりにも遅いので、ワイズが振り返って、二人を待っている。その鳶色の瞳が、まっすぐにイユたちの様子を観察している。
見られている。そう思った。今のイユたちがどれほどぼろぼろなのか、確認されていると。
『魔術師』に弱みを見せてはならない。膝をつくと鞭で打とうとしてくる兵士と同じだ。だから、この醜態をなんとしても見せてはいけなかった。
イユは足を更に一歩先に進める。動けない体に無理を言わせて、ワイズの元へと近づく。
追いついてしまえば、こちらのものだ。イユには異能があるし、レパードほどの男なら錠を壊さなくてもひ弱な子供の一人ぐらいどうとでもできる。ワイズを腕力で脅せば、何か吐くかもしれない。そうしたら、主導権はこちらのものだ。幾らでも好きな場所に逃げることができる。
ところが、ワイズは再び背を向けて歩き出す。
イユたちに追いつかれないよう、敢えて背を向けたとしか思えなかった。イユは躍起になって、足を更に踏み出す。ふらついたが、そこは仕方なくレパードに支えてもらった。
再びゆっくりと歩き出しながら、イユは先ほどまでの考えを訂正した。冷静に考えれば、歩くのもやっとのイユたちが子供一人無力化することができるとは思えなくなった。きっと、ワイズもそうなるとは考えていないのだろう。そのうえで、一見無防備に背を向けて歩くことで、知らせているのだ。特別区域にいる以上、イユたちは籠の鳥であるということを。
イユは隣に見えてきたもぬけの殻の牢を確認する。その牢の中で、黒い虫のようなものが走って逃げていった。その先の牢も、空だ。けれど、薄暗闇のなかで薄っすらと黒いシミが見えている。
振り払うようにイユは前へと向き直った。ちょうど、廊下の終焉が見えてきた。ワイズがそこで待っている。
ふいに、ワイズが右に向きを変えて歩き出した。その姿が、壁に阻まれて消えた。
イユたちも同じようにして通路を曲がる。その少し先、一つの扉の前でワイズが足を止めていた。
「ここです」
「部屋に入ったら、法陣が待っていましたっていうことはないだろうな」
警戒を止めないレパードに、ワイズはにこやかに笑った。
「いいですね。そういう警戒心は、持っていて損はないですよ」
「言ってろ」
ワイズがレパードの言葉を聞いて、扉を開ける。ギギギという鈍い音がした。
「では、どうぞ」
先に入れということだろう。レパードはイユの視線を確認することもなく、歩き出した。法陣が待っていようがなかろうが、中に入るというのがレパードの答えらしい。
実際、部屋に入ると、確かにそこにはなにも待ってはいなかった。三人が入って窮屈になる程度の、こじんまりとした部屋があるだけだ。せいぜい、そこにテーブルとソファが置かれているぐらいだった。
「来客用なんですよ」
呆然と立つイユたちの横をすり抜けて、ワイズが部屋の奥へと進んでいく。折角追いついたのに捕まえる暇など、到底なかった。
「そこの鍵、閉めてもらってもいいですか」
言われて、イユは扉のあったところを振り返る。金具が扉の先についていた。その造りをみれば、内側から鍵を掛けられるようになっていることが分かる。
大人しく鍵を閉めるイユに、「おい、イユ」とレパードが止めに入った。
「鍵を掛けた方が、誤って外から兵士たちが入ってくる問題を防げますよ」
ワイズの声に、レパードが黙り込む。
その隙に、イユは言われたとおり鍵を掛けた。何故か、反論ができなかった。今まで、イユはワイズに追いついてその力で脅そうとすら考えていたのに、体が言うことを聞いてしまっている。
少し考えてから、思い当たる。事情はよくわからないが、ワイズはブライトの弟なのだ。そのワイズが命令を出したというのならば従った方がよいと、心のどこかで判断している自分の存在に気が付いた。
「それは、人払いをしてあったってことか」
レパードが、ワイズの言葉から推察したらしい。そう、確認を取った。牢の前なのに、先ほどまでの道に兵士がいなかったのは、やはりワイズが手をまわしていたのだろう。
「えぇ、邪魔されたくなかったものでして」
ワイズは向き直ると、ソファを示した。
「どうぞ」
席まで勧められたレパードは何とも煮え切らない顔をしている。敵か味方か、このワイズという少年、全く読めないのだ。
イユはレパードの腕を引っ張ってソファに座るよう合図をする。
『暗示』は杭のように、イユの思考の根本に刺さっている。自由に考えられるうちは全く気にならないのに、こうして杭の存在に気付いてしまうと、もうその通りにするしかない。
レパードが、諦めた顔をした。




