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カルタータ  作者: 希矢
間章 『そして、底から』
257/992

その257 『約束』

 気づいたとき、イユの体は雪原にあった。雪の感触が、背中にこびりつく。連日の疲れもあるのだろう、瞼が重く、満足に開けられない。そのせいもあって、何が起きたのか分からなかった。

 けれどもイユは、反射的に体を起こした。無意識に気配を感じていたのだ。異能者施設で鞭が飛んできたときのような、身の竦むような危険を察知した。

 そのおかげで、助かった。起き上がったイユの瞼がようやく開かれる。その視界に、斧を頭上に掲げた男、御者が映った。

「―――!」

 御者が何かを叫んでいた。

 その声は怒りを孕んでいたが、イユには言葉として意味を解さなかった。ただ、今まさに、斧がイユへと振り下ろされようとしていることは、認識できている。

 殆ど本能だった。イユは必死の思いでその斧の柄を握りしめた。それが振り下ろされきってしまったら、イユの頭など、かち割られてしまう。

 異能を使ったおかげで、男の渾身の力に拮抗していた。わなわなと震える男の太い腕が、近い。御者は何度も意味不明な言葉を叫んでいる。その声に、イユへの殺意をひしひしと感じた。

 けれど、男の力ではイユを押し切ることができない。力で押し負けると気づいたのだろう、男がイユへと蹴りを入れる。

 肩を蹴られて息が詰まる。腕が痣だらけになっているのも、意識できた。けれど、立て続けにやってくる暴力に、目すら満足に開けていられない。イユは、必死に歯を食いしばる。今この手を手放すことはできなかった。

 とにかく、このまま振り下ろされるわけにはいかないのだ。イユは、生きなくてはならない。

 そんな思いが胸を突き上げる。必死の思いで、力一杯、斧を押しやった。

 ふいに、手に持っている斧が軽くなった。ほぼ同時に、パンと、何かがはじける音がした。気づけば、先ほどまで連続してやってきていた腕や肩への衝撃がなくなっている。

 おそるおそる目を開けたイユは、そこにいたはずの男が仰向けに倒れていることに気が付いた。はっとして斧を見ると、そこには血糊が付いていた。

 ぎょっとして悲鳴をあげ、斧を投げ捨てる。思わぬ衝撃に、イユの足から力が抜けた。

 膝から崩れ落ちたイユは、暫く呆然としていることしかできなかった。心臓がばくばく鳴っていた。すぐに行動すべきなのはわかっていた。馬車の中の人物が気絶しているなら今が機会だった。それなのに、あまりの恐ろしさに体が震えて何もできなかった。


(きっと、あの時の罰が当たったのよ)

 雪原を進みながら、イユはそんな思いをぽつりと呟いた。

(何が、『あれは私のせいではない』なのよ。私以外にいないわよ)

 あの時、誰がどう考えても、ほかならぬ自分が人を襲った。それなのに、人のせいにしたかった。認めたくなかった。異能者施設で強要されていたときからそうだ。イユは人を押しのけて生きてきた。今更罪悪感を抱こうが、遅すぎる。もうすでにイユの手は血だらけなのだ。それなのに、何故あんな馬鹿みたいなことを思ったのだろう。

 せめて、人の命を奪ったのならば、その命に向き直らないといけなかった。いっそのこと開き直って馬車を隅々まで物色すべきだった。そうすればその命に報いる価値が出る。しかし実際にあの時イユがしたのは愚策中の愚策だった。

 イユはかろうじて馬車の中を見たのだ。そこには母親と子供の姿があった。その首はあらぬ方に曲がっていた。怖かったイユは、それでもおいてあったクッキーにも目をくれず、ただ上等な服と靴、それに帽子を盗んだ。それで精一杯だった。吐き気を堪えながら、一目散に逃げ出した。後から振り返れば、そこには狼の群れがいた。戻ったところで、意味がないことはわかった。

 イユの瞳から一筋涙が零れようとした。しかしそれは瞬く間にイユの頬にこびりついて凍った。泣く権利などあるわけがないのだ。そう、氷の世界に言われた気がした。

(私は、最低な人間だ)

 いや、もう人間でもないのだろう。イユは、御者に叫ばれた意味不明な言葉を思い出す。

「化け物め――!」

 あの男は、そう言っていたのだ。それをイユの心は受け付けなかっただけだ。

 イユは、人の言葉も解せぬほどの化け物になり果ててしまっていたのだ。異能者施設にいる間に、人間を止め、そしていくところまでいったのだ。死にかけている人から食糧を奪い、押しのけ、自分が生きることだけを優先し続けた結果だ。化け物だから、こんな人の命を簡単に奪うようなことができてしまう。ようやく、はっきりと自覚した。

 それなのに、それを認めても尚、イユの足は止まらない。生きなくてはならなかったのだ。それがイユにかかった『暗示』だった。イユには死ぬという自由が与えられていなかった。しかも、随分都合のよい『暗示』だった。何故なら、生きるのに不要な記憶を『暗示』は、イユの異能は、封じてしまえるのだ。記憶力を調整することで、イユは生きるために人を殺めたことすら忘れることができてしまう。

 しかし、その呪縛も今はない。『生きる』ことを強制する暗示は消え、ブライトはイユに思い出せと言っていた。

 それなのに何故、イユはまだこうして雪原を歩いているのだろう。いつまでも続く、終わりのない道を歩き続けているのだろう。

 足を止めてしまってもいいのだ。自分のしでかしたことの、罪の大きさをいい加減認めて、生きることを諦めてしまってもよいはずだ。

()()()()()()()()()()()。)

 イユは自分の足をじっと見た。青紫色に膨れた指先が、雪を蹴ろうとして失敗した。

 雪が立ち止まったイユに振りかかる。動かなければすぐに雪に埋もれるだろうことは察しがついた。

 それでも、止まっていいのだと気づいたイユの足は、もう動かなかった。

 雪は足だけではない、頭や肩にも積もっていく。それがまるで冷たい氷の世界の底に、沈んでいくことのように思えた。

 それでよいのだと、イユの心が語り掛ける。人の命を奪った化け物に、生きる価値などはない。今まで生きることを言い訳に、罪から逃げてきた。それももうおしまいだ。こうして雪の中に埋もれて死んでいくことこそが、惨めで罪深い自身に相応しい最期なのだから。

「――ろ、イユ!」

 そのとき、風に乗って、また誰かの叫び声が聞こえた気がした。耳に届くその声はどこか悲しくて、何かを切望していた。

 何だろう。その声に、何か忘れている気がした。

 イユは、声の聞こえる方へとゆっくりと手を伸ばす。降りつける雪の先で、何かが見えた気がした。

『あんたは……死なないでくれよ』

 女の声が、雪の中で蘇り、はっとした。死に掛けた女の、乞うような声。微かに頭の中に残っていた。

 声に出さないといけないと思った。そうして言葉を紡がないと、その心に残った何かが、手の届かない奥底へと埋もれてしまうと。

 イユは、忘れてはいけない、その言葉を口にした。

「『約束』」

 ぽつりと零れた言葉に、今一度はっとした。忘れていた。大事なことが、残っていた。イユが生きなければいけない、イユだけに託されたものが、まだそこにあった。

 異能者施設で、イユを助けてくれた女に、『生きる』と約束した。それが、女の希望だった。暗示のような効力のあるものではない、ただの口約束だった。

 けれど、それが唯一イユの心の支えだったはずだ。イユは、本当は女に代わって、周囲の者を助けるべきだと感じていた。女が助けてくれたように、女の生き方を真似るべきだと。しかし、弱いイユにはそれができなかった。それどころか、周りから食糧を奪うことで、女の希望を踏みにじったのだ。

 強くなれなかったイユが、唯一前を向けるとしたら、そこに『約束』があったからだった。イユは生きるために奪うことしかできないのだから、その『約束』すらも破ってよいとはどうしても思えなかった。

 進もうとして、顔から雪の中に倒れた。一度止まった足が中々言うことをきかなくなっていた。

 それもそうだ。もうイユを動かしてくれる『呪詛』はない。イユは、自身の足で立ち上がらなければならないのだから。

 歯を食いしばり、立ち上がろうとしたが、力が入らない。口惜しさに泣きそうになるが、その涙を風が払っていった。

 再び、風に乗って声が聞こえてきた。イユの名前を呼んでいる気がした。

 女のものではない。男の声だ。けれど、イユのことを案じて、イユに生きることを望んでいる声であることは変わらない。

 もう一度、聞きたいと思った。人の言葉を解せない化け物でも、その言葉だけは耳にいれたかった。

 その思いに答えるように、風に乗ってその声が聞こえた。

「生きろ、イユ!」

 はっとした。女だけではない。まだイユに、生きてほしいと望んでくれる者がいる。それなら、せめてそれに応じるべきだと。

 雪を踏みにじるようにして、体を起こす。重い一歩を続けて、踏み出す。

 冷たい世界が延々と続いている。その道を、イユは進み続けた。

 せめて、声に答えきるまでは、もう少し歩いてみようと、そんなことを思いながら――。

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