その254 『待ってくれ』
リュイスが連れ去られる。
突き刺すような痛みに、レパードの意識は暗闇の中をさまよった。どうしてこんなことが起きてしまったのか、夢ともつかぬ場所で、レパードは自問する。レパードは知っていたはずなのだ。世の中は、優しさだけでは生きていけない。自分の両手に抱えられるものは限られている。全てを救おうとしたら、きっと何かを取りこぼす。それが、レパードにとって最も大切なものかもしれない。それならば、レパードは限られた手で守りたいものだけを守っていればよかった。そうしていれば、よかったのだ。
それなのに、守りたいものを増やしてしまった。新しい仲間はセーレを動かすためにはどうしても必要になる。だから、仲間を増やすときはいつも慎重にしていたのだ。マドンナから無理やり引き渡されたこともあるが、それ以外は常に気を付けていた。
そのはずなのに、足元を掬われた。刹那に、イユに、ブライトに。全ては、非情になれない自分の浅はかな選択の結果だった。こんなことになるなら、早く切り捨てるべきだった。
「ぐっ」
痛みが声となって漏れた。その声に、レパードの意識が現実に引き戻る。まだレパードの体は先ほどと同じ冷たい床の上にあった。磨かれた漆黒の床に、赤色が鈍く光っている。我ながら派手にやられたなと思った。まさか意識を持っていかれるとは思わなかった。
リュイスは無事だろうか。込み上げた想いとともに、レパードは自身の手首をさすった。まだ周りに人の気配がある。しかし、リュイスの声は聞こえてこない。レパードは先ほど、リュイスが連れ去られると思った。それは意識の向こう側で、現実のリュイスが攫われる瞬間を感じていたということだ。それならば、リュイスを攫おうとした不届きものを罰せねばならない。なんとしても取り戻さなくてはならない。
レパードは重たい頭を起こして、視線を上げた。その視線の先で、大剣を腹部に生やしたイユが、次の瞬間、地面へと崩れ落ちた。
「イユ?……嘘だろ、おい」
床に広がる赤い水溜まりが徐々に広がっていく。それが波のように押し寄せてくるのを見て、レパードの頭は真っ白になった。
「しっかりしろ、イユ!」
イユが地面に伏せっている。琥珀色の髪が赤く汚れていた。少し前まで骨と皮しかないと思っていた、最近少しはみられる太さになってきた体が、無残に投げ出されている。次の瞬間その体が動くとは、嘘でも思えない状況だった。
そのイユの先で、大剣を引き抜いたサロウと呼ばれた男が、血糊をはじいている。その目に、血まみれのイユが映っていた。
ブライトは、目の前のこの人物はイユの父親だと言っていたはずだ。そして、極悪非道の『魔術師』であっても、幾らなんでも実の娘を手にかけようとはしないと思っていた。それに、レパードの認識では、彼らは血統にこだわる生き物だった。つまり、家族だけは大切にするのだ。それだけに、この事態はあり得ないことだった。
それなのに、目の前の男は違った。その瞳は、少しも揺れていなかった。淡々と、事務的に今なすべきことをしようとしていた。つまり、大剣を構え直し、上からイユに向かって振り下ろそうと――、
次の瞬間、雷鳴とともに天井のステンドグラスが砕け散った。
「ブライト。銃は取り上げたのではなかったのか」
サロウは庇うように大剣の背をレパードへと向けている。
レパードは今起きたことが信じられずにいた。
「あれは飾りだよ。実弾は入っていないから。……それよりまさか関節を外して手錠を抜くなんてね」
レパードは、込み上げた怒りを魔弾として銃にのせて、サロウにぶつけたのだ。それを、目の前の『魔術師』が大剣一つで防いでみせた。イユの蹴りをなんなく防ぐのは納得がいく。あくまでイユのは物理的な力だからだ。しかし、レパードの魔法は、雷だ。超常的な自然現象の一つなのだ。それを、どんな魔術を使えば、防ぐということが可能になるのだろう。
ばらばらと落ちていくステンドグラスに打たれながら、レパードは再びサロウに魔法をぶつけた。一度目は偶然なんてこともありうるからだ。
雷光がサロウへまっすぐにぶつかっていく。それを見ても、サロウは逃げなかった。大剣を構えて、光へと振り下ろす。次の瞬間、大剣が鈍い光を浴びて光った。
大剣に斬られた雷光が、サロウを避けるように上空へと飛び散っていく。宙を舞うステンドグラスの間を稲妻が走った。
冗談ではない。レパードは、危機感を露わにする。『魔術師』は魔術さえ使わなければただの人間だと思っていた。だから、魔法さえ使えれば、手負いのレパードでもどうにかできたはずなのだ。それなのに、魔法を両断する大剣を持った男がいては、助けられるものも助けられない。
「どうも潮時らしいな。これ以上騒げば、我らの存在が見つかる」
克望の言葉に、レパードの意識が向く。視界の端で、リュイスの靴が見えた。間違いない、あの男に掴まっているのだ。
「この男はどうする。生きていては、奴らに記憶を覗かれるぞ」
「さっさと殺すしかあるまい」
サロウの言葉に、克望が答える。
今、レパードをはさんで左側に克望と刹那、ブライトが、その反対側に倒れたイユとサロウがいる。位置取りは最悪だった。リュイスを助けに走れば、その間にイユが殺されるかもしれない。イユを助けに走れば、克望を逃がす時間を与える。それどころか、彼らはレパードを殺す気なのだ。そして、ここにははじめから『魔術師』が待っていた。用心深い彼らのことならば、法陣の一つや二つ、どこかに設置してあってもおかしくはない。
そして、何よりレパード自身も怪我を負っている。背中からやってくる痛みが抉るようだ。それでも意識を保っていられるのは、レパード以上に傷ついたイユと気を失ったリュイスを前にして、込み上げた怒りを抑えるのに精いっぱいで、痛みどころではなくなっていたからだ。そして同時に、今ここで床とキスしては全員助からないことを悟っているからに他ならない。
一同の間に走った緊張を破ったのは、無数の足音だった。建物の外から、議事堂に向かって走ってくる。
それを聞いたブライトの顔が歪んだ。
「あちゃー、この異様な早さはひょっとしなくても、ワイズ派かな。残念だけど、その時間もないかも。悪いけど、今すぐに逃げよう」
言っている間にも、ブライトが壇を下りていく。克望は惜しそうに、声を掛ける。
「いいのか、記憶を覗かれるぞ」
「すぐには無理でしょ。そうなる前に、あたしの『手』を使う」
ブライトの言葉には説得力があったのか、克望がブライトを追って走り出す。刹那もそれに続いた。
「おい、待て!」
レパードは勿論、魔法で三人の足を止めようとした。リュイスを抱えられているから強力なものは使えないが、それでも人の意識を飛ばす程度の威力はあるはずだ。
それを、目の前に現れたサロウが、残らず弾き飛ばしていた。
レパードは思わず瞬きした。物理的にあり得ないことだった。サロウはレパードの背後にいたのだ。レパードが魔法を放つよりも前に全員の身を守ろうと思ったら、レパードを通り越して走っていかないといけない。レパードが雷を放つ速度よりも、サロウの足の方が早くなければ成し遂げることはできないのだ。それをこの男は実演してみせている。
レパードは、目の前の男に恐怖すら覚えた。下手を打つと、その大剣で首を持っていかれる可能性があった。
危険を感じてサロウを睨んだレパードに、一方でサロウはすっと視線を外した。
「大変遺憾だが、アイリオールの魔女の言う通りだ。こいつとやり合うと間違いなく長引く。急ぐぞ」
幸い、サロウもレパードを警戒したのだろう。おかげで、命拾いした。しかし、それはそれで問題がある。
リュイスを抱えたまま、『魔術師』たちが撤収していく様を見て、レパードは絶望を覚えた。
(おい、待てよ)
焦燥の中、レパードは心の中で叫ぶ。勿論、魔法は何度も放っていた。それをあのサロウという桁違いの男が、全て斬り伏せていってしまう。地面を這わせようが落雷を落とそうが、お構いなしにだ。
どんどん距離が離れていく。レパードに走る気力が残っていたらよかった。しかし、立つこともできない状況なのだ。頼りになるのは魔法しかない。それなのに、その魔法も効かない。せめて、リュイスが人質になっていなかったら、もう少しさまざまな魔法が試せた。下手な魔法で仲間の命を奪うことが何よりも恐ろしい。それだけはできない。
(待ってくれ……!)
「リュイス!」
叫びは空しく、ブライトたちの姿は扉の先に消えた。




