その25 『その夜』
夕食も済ませ部屋に戻ると、しんとした空気に迎えられる。
何もすることがなく、ベッドを椅子がわりにして足をぶらぶらさせる。そうしていると、短いようで長い一日に、身体が意外と重くなっていることに気付かされる。慣れないことをしたからだろうが、部屋に戻って気が抜けるあたりに自身の甘さを感じた気がした。
尤も寝覚めこそ最悪だったが、今日という日ほど平穏を感じたことはなかった。
廊下の掃除もリーサの楽しそうな様子につられ、楽しさを感じていた。労働を楽しむということが始めてで、自身でも少々戸惑っているほどだ。
それに、若干気まずくなったリュイスや鬱陶しいレパードには掃除中も夕食時も遭わずにすんだ。結果として夕食を逃しかけたことで、時間がずれたのが良かったのだろう。
足をぶらぶらさせるのにも飽きたイユは、背中からベッドに倒れ込む。天井の明かりの揺れが今日は大人しい。気流の穏やかな地帯を通っているようだ。
それにしても意外だったのは、掃除をしているイユをみた船員たちが軽くとはいえ挨拶をしてきたことだ。食堂での空気から歓迎されていないと思ったが、どうもリーサと仲良くしていれば船員の態度は変わるらしい。理由はよく分からないが、イユにリーサと敵対する意思はないので、以降も順調にいくとみて良いだろう。
そうなると、いよいよ障害はないのだった。このままぼろを出さずに手伝いを続けてさえいれば、目的地に連れていってもらえるのだ。しかも食事も出れば、寝床まで用意してもらえるという。急に転がってきた幸運が我ながら信じられない。異能者のために、幾ら手を伸ばしても届かない場所にあると思い込んでいた人々の暮らし。それが、今だけは享受できているのだ。
「暇ね」
ぽつりと呟いてから、これこそが追い求めてきた自由なのだろうかと疑う。
このまま眠っても良かったが、それでは勿体ない気がした。折角なので部屋をもう少し良く調べておこうと思い、身体を起こして漁り始める。備え付けの椅子を実際に自分でも組み立ててみたり、棚のなかを確認したりする。ガラス扉の棚は何かを収納できそうだが、入れられるものが思いつかなかった。
浴室までいくと、初日にはなかったタオルが沢山用意されていた。いつでもシャワーに入れるようになっている。この部屋は本当に自分の好きなように使っていいのだなと実感する。レパードの一方的な交渉といい、船員の態度といい、気に入らないことも確かにあったが、こういったところには一切の不自由がない。むしろここまで良い対応をさせてもらってよいのだろうかと不安になるほどだ。
イユの頭に、マーサとリーサの姿が浮かぶ。殆ど彼女たちのお陰だろうとは感じていた。
「船内も自由に歩いていいって言われていたわね」
床掃除のお陰で、大体の船の造りは頭の中に入っている。誰が誰の部屋かまではわからないが、ここでは専ら自分の部屋と食堂さえ理解していれば生きていける。
そう理解はしていたが、いざというとき場所を知っていることは役に立つだろうと考える。今は平穏だが、もしイユが彼らと敵対することになった場合、外に逃げることができないのだから船内に隠れる必要が出る。常に最悪のことは想定して動いておきたかった。レイヴィートのように偶然が重なって生き延びられるほど、この世界が甘くないことをよくよく承知しているのだ。
シャワーだけ先に浴びた後、船内を探索すべく部屋の外へと出る。
夜の船は思いのほか静かだ。明かりも最小限のものに置き換えられていて、思った以上に視界が悪い。最も視力を調整するほどではない。余計な集中をせずに、気分転換のように船内を巡ることができる。
「まずはどこから行こうかしら」
昼間の掃除で、廊下の長さは思い知っている。行くならば、ただの通路ではなく部屋だろう。夜の食堂は閉まっているのだろうか。一日中木造の壁ばかりみていたのだから、甲板に出るのも手かもしれない。
そんなことを考えながら進もうとしたとき、イユは確かに何かの音を聞いた。
「誰?」
返事はなかった。代わりに逃げるように走る足音が響く。これが何も音が聞こえなかったのならば、疑問に思わなかっただろう。或いは堂々と歩く足音であれば、近くを通ろうとする船員だと安心できたはずだ。
ところが、そのどれでもない。気にならないわけがない。
たまらず、イユはその音を追いかける。頭の芯が冷えた心地がしたのだ。今の今まで、イユは平穏を享受していると思っていた。予想外のことが起きてから、それは油断だと認識する。そして同時に、反省しながらも頭のなかでは疑問符が飛び交っている。
一体何だというのだろう。船員がこっそりイユの部屋を覗こうとしてばれたと思い逃げたのか、それともリュイスが再びやってきて顔を合わせにくくなり逃げたのだろうか。
いずれにせよ、はっきりさせたい。
そう考えて通路の角を曲がりきったとき、かたんと扉の開く音が響く。
見れば、甲板に続く扉が僅かに開いており、そこから月の光が漏れている。躊躇することはなかった。重い扉を押しのけ、甲板に出る。
夜風の冷たさを肌に感じた。月と星の光がぼんやりと床を照らしている。
甲板には、人っ子一人いなかった。そんなはずはないと自身の目を疑う。確かに扉が開いていたのだ。足音の持ち主は甲板に出たに違いない。
手すりまで近づいてみたが、やはり人の影はなかった。勿論、見張り台にはいるはずだ。長い梯子の先にあるそこならば、下からどれだけ覗いても見えないが、用心のため見張りを置いているにちがいない。
だが見張りがいたとしても長時間その場を離れないだろうし、先ほど扉を開けた人物が登るのであればまだ梯子に捕まっている頃のはずだ。リュイスであれば飛べるが、羽を出してまで避けるものだろうか。
考えていても答えはでない。一通り甲板を歩き回り、それでも誰もいないことが分かると、とうとうイユは諦めるしかなくなった。
全て気のせいだったのだろうか。ひやりとした、その感覚は自身がぬるま湯に浸ったことを強く意識しただけで、実際は平穏な世界のままだったということだろうか。
どこか釈然としないものを感じながらも、イユは手すりへともたれかかる。夜風に当たったからか、体がすっかり冷えていた。シャワーの後だから余計にだ。いつの間にか白かった息もすっかり空気に馴染んでいる。
しかし、無駄足だったという気はしなかった。
夜空を見上げれば無数の星が瞬いている。イクシウスの空は澄んでいて、いつみても星が近い。それにしても今日の宝石たちは漆黒の海から零れ落ちてきそうだ。いつもこのような空だっただろうかと、振り返る。形としては普段と変わらない気がするが、今日の空が格別に思えるのは何故だろう。
「風邪ひくぞ」
声に振り返るとレパードが歩いてくるところだった。
上着を投げて寄越される。黒色の分厚い上着だ。暖かそうな生地がイユの腕に、のし掛かる。
寒さを感じなくできても風邪はひく。大人しく受け取って羽織る。
「何しに来たのよ」
「いや、部屋にいたらどこかの異能者らしい人物が寝ぼけて甲板にいるのが見えてだな」
確か、レパードの部屋には窓がある。その窓から甲板の様子を見下ろせるらしい。
しかし、その言い方だと先ほどの足音の持ち主はレパードでもないようだ。
「不審な足音がしたから追いかけただけよ」
「不審?」
しかめっ面をされる。
それもそうだろうと、苦々しく思った。レパードにとってこの船で不審な存在は足音ではなくイユ自身だ。
どうでもよくなって、言い切る。
「いい。私の勝手よ」
それに、船内を自由に歩いてよいと許可を出したのは、レパードのはずだ。甲板に出ようが何しようが不満を口にされる理由はない。
そう追及すると、レパードもそれについては否定しなかった。
「まぁな。しかし、見張ってないとやっぱり不安……つうかな」
その言い草に本当に信頼されていないのだなと思う。
「まぁ、意外と人付き合いができているようでほっとしたが」
「どういう意味よ」
まるでイユが人との意志疎通を取れない人間のように聞こえる。
「いや何、口を開けば人に喰ってかかるし、蹴るし、凶暴な魔物の類かと」
物凄い言われようだと感じたイユは、思いっきり睨みつけた。
「まさに魔物の形相だ」
などと言われるので、余計に気に障る。
「あんたが一々一言多いのよ」
そこまで話してから、ふとレパードの視線が変わったのを感じる。
「……なぁ、実際のところお前は何者なんだ」
視線が突き刺さる。思わず右腕を隠したくなったのを理性で留める。
「異能者よ」
何を言っているの、という口調で言い切る。
けれど、それで納得してくれるほどレパードは優しくない。
「……なら、何故レイヴィートにいた」
「どういう意味」
分からないのか、それともわからない振りをしているのか、とレパードから聞かれる。
「あそこは仮にもイクシウスの大都市だぜ? 異能者が住んでいられる場所じゃない」
まさか、実際に異能者が住んでいるとは思いもよらないイユは、レパードの言葉に納得してしまった。何といっても、あそこには兵士が大勢いる。会わなかったが、魔術師もいるだろう。レイヴィートから船へと乗って外に出るという作戦は、あまりにも無謀だったのだ。それは薄々わかっていたが、やるしかなかった。その方法しか知らなかったのである。
「別にあそこに住んでいるなんて言った覚えはないけれど?」
そう答えてから、しまったと後悔する。案の定、ではどこからきたと、そういう話になる。
「答えられないのか? 自分の出身が」
まさか正直に答えられるはずがなく、口をつぐんだ。
何より嘘をつこうにも、イユはレイヴィート以外の街の名前を知らない。てきとうな名前が出せるほどの発想もなかった。せめて汽車に潜入する前に街の名前だけでも聞いておけばよかったと、後悔する。
「私の勝手でしょう。それともこれも公開しろっていう情報なわけ」
レパードの視線の鋭さに耐えながら、我ながら酷い返しだと自嘲する。
「まぁ、出身についてはいいさ。せめて、名前はどうだ」
「名前?」
まさか気づいてないとでも思ったのかと、そうした態度で見下ろされて、イユは段々苛々してきた。
レパードの顔を殴ったらすっきりするだろうか。
殴ったせいで、イクシウス関係者だと決めつけられることがあっては不味いので、頭のなかだけで想像上のレパードを蹴り飛ばす。あっけなく吹き飛ばされて手すりに頭をぶつけ気絶するレパードを絵に描いたところで、現実のレパードから話の続きをされる。
「せめて苗字ぐらいは答えたらどうだ。イクシウスの国にはあるだろ? 全員に苗字が」
溜飲が下がったお陰か、考える余裕ができた。言葉を字面通りに捉えて、苗字のない国もあるのだろうかと疑問を浮かべられたほどだ。
それにしても、何か一つくらい気の利いた返しが言いたいところである。
だが、嘘の名字を名乗るのは誰でも考えそうなことで、それを敢えて聞くということは何かあるのではないかと変に勘ぐってしまう。
「……あんたこそ、偽名じゃないの?」
別の視点から返してみる。レパードなどという名前は、きっと本名ではないだろう。
「俺のことはいいだろ。それにこれはもう本名みたいなものだ」
本名みたいなものということは、やはりもともとは偽名だったのだろうと受け取った。
「私もよ。イユは今では私の名前なの」
偽名だと認めてしまったようなものだが、構わない。異能者なのだ。あちらこちらを点々と逃げている間に名前を変えることなんてあってもおかしくない。レパードの名前も大方そういう理由だろう。
「ふぅーん、そう来るか」
イユの返しが気に入らなかったのだろうか。少しせいせいした。
「つまり、今のお前は、出身はおろか本当の名前すら答えられないと」
続けて言われた内容に、まるでイユが何も話していないようで、もやもやとする。
どのような返しにしろ、本当に今の名前はイユなのだ。そう言うのだが、レパードは信じてない。適当に偽名を名乗っていると思っている。
きっと何かしら、イユが危険か安全かが分かる根拠が欲しいのだろう。その際の情報があまりにも不足していると、そう言いたいらしい。話をしてくれないのはレパードも同じだというのに随分勝手なことである。
「……もう寝るわ」
イユは上着を投げて返すと、船内へと歩き出す。それをレパードの言葉が止めた。
「都合が悪いことから逃げるのか? せめてはっきりとお前が言い張れる『何か』はないのか」
イユがはっきり言える何か。何を答えてもいいというのなら、一つある。
「私は、生きたいだけ」
そう答えてからもう一つあることに気付いた。
「あぁ、あと、あんたを一発殴りたいわね」
できれば想像と一緒で、殴られた拍子に思いっきりひっくり返ってくれるとせいせいする。
それを聞いたレパードは残念そうに肩を竦めてみせた。
「それは物騒だな」
「でも……」
レパードはどちらかというと嫌いな部類に入る。一々こうやって突っかかってこられると気分が悪い。
しかし、それ以上にだ。
「魔術師のがもっと嫌い。もし会うようなことがあったら、殴るだけじゃ済ませないわ」
魔術師は夜風にあたるイユに上着を渡すようなことはしない。それを知っている。
「……私も一つ質問をしたいわ。なんでリュイスだけレイヴィートにいたの」
これだけ、どうしても解せなかった。これほど仲間がいるのに、何故危険だと思われる大都市に一人いたのだろう。仲間を切り捨てるような所に所属しているのならば納得だがそうでないことを、イユは身を持って知っている。
とはいえ、イユからの質問はレパード曰く禁止されている。どうでもよいと判断される質問ならばきっと答えてくれると思うしかない。
「……俺だって止めたさ。けど、あいつは意外と強情でな。一人でもいくって言うんだよ。案の定危険に巻き込まれるわ、厄介な奴連れてくるわで頭が痛い」
またしても遠回りに嫌味を吐いてくる。一発殴るだけでは足りないなと思う。
「まぁ、反応石のことを知っていたら絶対行かせなかったがな」
リュイスがどうして行くと言いだしたのか、それについては語らない。
しかしながら、イユが疑問に思ったのは今レパードが答え部分だったのでよしとする。
「あんたがついてきていたら、私はいまだにレイヴィートでしょうね」
「それはもちろん」
レイヴィートでないのかもしれない。捕まって連れて行かれた可能性もある。リュイスがいなければ、生きていられたかどうかも怪しい。
考えていると背筋が寒くなってくる。こんなに長く話すなら上着を返すべきではなかった。
「まぁ、お前が不満に思うのもわかるがな。俺の立場としてはお前のことを疑わないといけないんだよ」
いつの間にか沈黙していたその空気を割るように、レパードからそう話をされる。
「別に心配しなくても私はあんたたちをどうにかしようとか思っていないわよ」
けれど、その言葉では信じてくれない。
「お前が何か決定的な証拠を見せてくれれば何もこんなことを言わなくていいんだ」
そして残念ながら、その証拠はイユには不利なのだ。烙印を見られるわけにはいかない。
「そんなものはないわ」
「ならしつこくても我慢するんだな」
「しつこい男は嫌われるわよ」
軽口を叩くと「いいんだよ」と返される。
「嫌われるのには慣れっこだからな」
それはまた随分お気の毒なことだ。こいつと話すことはもう何もないだろう。
そう思うとイユは踵を返した。
「じゃあね」
手を少し振ってやって、扉を閉める。
「くしゅん」
歩きながら、たまらずにくしゃみをする。全くもう、と不機嫌な顔を張り付ける。折角昼間は順調にいったと思ったのに、レパードのお陰で最悪な気分なのだ。
すぐに部屋に戻ると、そのままベッドに駆け込んだ。




