その248 『心の杭』
ブライトの腕を、振りほどけなかった。
そんなイユに、ブライトが続ける。
「さぁ、イユ。このナイフの刃を掴んで」
「何をさせるつもりですか」
ブライトの注文に、リュイスの声が警戒を帯びる。
リュイスは心配してくれているのだ。それが分かるから、胸が痛い。この感情は、罪悪感で合っているのだろうか。覚えていないからこそ、何とも言えぬ感情がイユを包んでいる。心が散り散りになってしまった気がした。せめてと、イユはリュイスに安心させるように言う。
「リュイス、私なら大丈夫よ。ブライトは妙なことはしないと思うわ」
イユは刃を優しく握った。角度にさえ気を付ければ、その刃がイユの手を傷つけることはない。ブライトは何も無理なお願いをしているわけではない、そう自身に言い聞かせた。
それなのに、リュイスの顔が辛そうなままだった。ナイフを首に当てられているのはイユなのに、これではどちらが人質か分からない。イユの心は、解放されない。
ブライトはもうナイフから手を離している。そして、イユの耳元で優しく宣言した。
「もしレパードたちがあたしやイユに触れようとしたら、イユはその刃を自分に向けて押し込むんだよ」
さすがにその宣言にはイユの顔も青くなった。ナイフを握る手が小刻みに揺れるのをみて、思わず自身を叱咤する。これではまるで、怯えているようではないかと思ったのだ。イユは心の中で必死に言い聞かせる。
断じて、怯えてなどいない。それにブライトにはきっと、何か意図があるのだ。その意図を汲んで、答える必要がある。
「外道が」
レパードの声が殊更に低くなった。怒りのこもった瞳が、ブライトを射抜かんばかりだ。
それなのに、ブライトはあくまでにこやかに、どこ吹く風と流している。
「大丈夫だよ。そんなことにはならないから。イユはあたしを信頼しているし、こんなことでイユを傷つけようとする間柄じゃないって、レパードたちのことも信用しているでしょう?これはね。茶番なんだって。何も心配することもない、茶番。こうして演技をしないと、その先にたどり着けないからこういうまどろっこしいことをするの」
ブライトの解説を、イユは必死に受け入れようとした。ブライトの言い分があっている、あっていないではない。まずはこの震えをどうにかしなければならない。そう言い聞かせて、深呼吸をする。そうすることで、いったんは落ち着きを取り戻すことができた。
イユは今一度、周りの様子を確認する。辛そうな顔のリュイスに、憎悪すら浮かべたレパードの顔が、そこにある。ブライトはすぐ隣に立っていた。自信に満ちた様子が、顔を確認していないのに伝わってくる。
ふぅと息を吐く。確かに、ブライトはイユたちをこうして牢屋に閉じ込めた。けれども、その錠は開けられ、今こうして会話をしようとしている。ブライトにはきっと、イユを傷つけようとする気持ちはないのだ。ただ、自衛のためにイユを利用するしかなかっただけだ。そう、思うことにした。
それに、ブライトはイユを裏切らない。だから、イユもその期待にこたえなければならない。それが人質のふりをしていろということであれば、喜んで手を貸すべきだ。これで初めてレパードと対等に話せるというのであれば、イユが人質になる価値は確かにあるのだ。
心のどこかが軋む音が聞こえた気がした。けれど、その程度の音では、イユはもう振り返らない。
「豪奢なドレスを着込んで、ご託並べて、人を思い通りに操って、随分愉しそうだな」
「うん、最高だね」
レパードの言葉など、ブライトは歯牙にもかけていない。
「ついでにいうと、人の心は君たちが思うほど、しっかりしたものじゃないんだよ」
そもそも、心って何だと思う?
ブライトがそう語りかけた。
込み上げる胸の苦しみが、思い出される。リュイスもイユと同じだったのだろう。心臓の近くに手を持っていく。
ところが、ブライトが首を振ったのが、気配で分かった。
「心臓だっていう人もいるけどさ。心はこっち、頭だよ」
恐らく、自身の頭をトントンと叩いてみせている。
「そして、心はね。光に影響される」
「光?」
意外な言葉に、思わずイユは聞き返した。心は光に影響されるなどという言葉は、生まれて初めて聞いた。
「そう。あれはね、所詮体内を移動する、光。つまるところ、電気の信号で変わってくるものなんだ」
そんな話をされても、イユにはよく理解ができなかった。心が光に影響を受けているとして、それがなんだというのだろう。答えは、次のブライトの言葉にあった。
「だから、心は容易く変えられる」
心は各自の持っている唯一無二のものではない。あまりにもあっけなく、人の手で操作してしまえるものだと、ブライトがそう言っている。
イユは、魔法石の光を思い浮かべた。念じて光を放つあの石は、インセートならば夜の道に溢れるほど満ちていた。あの光で、人の心は容易く操作できるのだという。それが事実だとしたら、イユの心は一体何なのだろう。『魔術師』は人の心を操作し、記憶を読み、体の動きも縛ることができてしまう。その全てを試されたイユに残っているものは、何だというのであろう。手に砂を掬ったときみたいに、さらさらと指の隙間から、イユを形成するものが抜け落ちていく。それではイユは、何を信じて生きていけばいいのだろう。
不安に捉われたイユの肩にそっと、ブライトの手が乗せられた。イユの左右の肩に、それぞれの手が乗っている形だ。それだけのことで、イユの不安が消えていくのを感じる。自分を信じられないなら、信じられる何かを探すしかない。それがイユの場合、ブライトの存在だった。
「今イユの心にはあたしを信頼するという一筋の光の杭が常に打ち込まれている状態なの。けれど、それは完璧ではないよ。だから、イユの心がそれに抵抗することもできる。でも、そうしたらどうなると思う?」
ブライトはそのままイユの耳を包み込んだ。すぐに、イユの耳がブライトの意図を察して、音を封じにかかる。
その言葉が告げられたのは、レパードたちの殺気を見て伝わった。
一体、ブライトは何を言ったのだろう。疑問が頭をもたれたが、イユは心のなかで必死に首を横に振った。聞かせないということは、イユは聞くべきでないと判断されたのだ。ブライトを信じるのであれば、好奇心を持つべきではない。
ふわりとブライトの手がイユの耳から離れる。ブライトは振り返るイユとその背後の二人に向かって、告げた。
「それじゃあ来てもらおうかな、刹那も待っていることだし」




