その244 『遅すぎた真実』
がばっと体を起こすのと目を開けるのが、ほぼ同時だった。
「目を覚ましたのかい」
声に振り向けば、視界の先でレヴァスが、すり鉢で何かをすり潰している。薬の調合だろう。
ぼんやりとする視界に、その様子を収めながら、アグルは頭を抑えた。
「痛むのかい?最近、体の調子はだいぶ良くなってきていたはずだが」
確かにここ数日はリハビリの効果もあり、ずっとよくなってきた。足の指に意識をやれば、望むとおりに力を入れることができるというところまで回復している。足が石になったと聞いたときは驚いたものだが、実際に動かない足を見ては信じるほかなかった。それがようやく、元に戻ってきたのだ。あと少しすれば、レヴァスの許可を得て、甲板に出ても問題なくなるだろう。アグルは心の中で首を横に振った。
違う、今はそんな悠長なことを考えている場合ではない。
「……ブライトは今、どうしていますか」
その言葉に、レヴァスが眉間にしわを寄せた。
「どうしてそんなことを聞くんだ」
暗示を疑っているのだ。そうアグルは直感する。
「思い出せそうなんです。あの日、イユが暗示にかかった日のこと……」
ずきりと再びの頭痛がアグルを襲う。
思わず呻いたアグルに、レヴァスが駆け寄ってきた。
「落ち着け。無理に思い出そうとする必要はない」
しかし、アグルは首を横に振った。
「いいえ、思い出せなきゃいけないんです。僕は何か大切なことを忘れている気がして……」
言ったそばから、頭痛が走る。歯を食いしばるアグルを見てか、レヴァスがアグルの肩をがちっと掴んだ。
「アグル、あまり考えるな。魔術にかかっている以上、何があるか分からない」
アグルの視界に、レヴァスが収まる。その手から漂ってくる香りが、アグルの鼻についた。
「この匂い……」
レヴァスが、アグルの反応に、「あぁ」と手を離す。
「すまない、薬を煎じていたからな」
アグルははっとする。
「そうだ、香りだ」
レヴァスの反応などもう目に留まらなかった。
「あの時、すごく甘い香りがしたんです。間違いない」
「甘い香り……?」
アグルの記憶は、香りを元に少しずつ蘇ってくる。
「はい。多分、イユに暗示をかけようとして、それで必要になったんだ。法陣から煙みたいなのが漂っていて、その煙がそんな香りでした」
自分に言い聞かせるように呟いたり、レヴァスに伝えようとしたりで、アグルの言葉遣いは滅茶苦茶になっていた。それにも気付かずに、アグルはひたすら自身のなくした記憶を追う。
「ブライトは確かイユにもっと心をゆるすようにって言っていた。信頼してくれって」
「信頼……?」
邪魔をしてはいけないと思ったのだろう、レヴァスは相槌を打つように控えめにアグルの言葉を繰り返す。
そのおかげもあるのか、アグルの記憶はより鮮明になっていく。
「そうすれば、もう、ひとりぼっちにはならないって言っていました」
何かを考えるように、レヴァスはそっと目を細めた。
「それに……、いや、そうか。そうなんだ。なんで今になってこんなことを……」
「アグル?」
取り乱しはじめたアグルは、レヴァスを置いて立ち上がる。
「刹那は、刹那はどこにいますか?」
周囲を見回したアグルは、普段いるはずの医務室に刹那がいないことを確認する。
「落ち着くんだ、アグル」
アグルは近くにあった松葉杖を手に取った。そのまま医務室を出ようと歩き出す。刹那を探しにいってしまいそうなアグルに、慌てたレヴァスはその腕を掴んで引き留める。
「落ち着けません。悠長なことをしていたら、ブライトが……」
「ブライトはもういない。船を出ていった」
レヴァスの宣言に、アグルの目が見開かれる。
「リーサがブライトの魔術書の正体に気付いたんだ。イユが大切にしていたペンダントとすり替えられていた。ここで粉々にされたペンダントを確認したから、間違いない。それは一緒に見ていただろう?」
確認をするように問われ、アグルが頷く。レヴァスの説明は続いた。
「ブライトはそれを受けて、セーレを出ていったし、イユはもう暗示を解かれている。アグル、きっと君はブライトに眠らされただけではなく、記憶を封じる魔術を掛けられていたんだろう。だけれども、もう終わったんだ。解決した。無理に思い出そうとする必要はないんだ」
全て終わったことだと告げるレヴァスに、しかしアグルの顔色はただただ蒼白になるだけだった。
「僕は思い出せたんじゃなくて……、ブライトがいなくなったから魔術の効果が消えた?」
独り言のようにアグルが言葉をぽつりと口から零す。
「きっと、もう口止めする必要がないからだ」
レヴァスは怪訝そうな顔をしていた。それもそうだろう。彼は全て終わったと思っている。アグルが何故真っ青な顔をしているのかよくわからないでいるのだ。
「レヴァス、終わっていません。むしろこれから始まるんです」
「アグル、何を言って……」
レヴァスを説得している時間も惜しい。アグルはレヴァスが掴んだ腕を振りほどいた。ついこないだまで怪我人だったとは思えない力で、レヴァスの手はいとも簡単に外れた。
「とにかく、刹那です!刹那はどこですか。彼女を早く抑えないと、セーレはきっと大変なことになる!」
その時、医務室の扉が開いた。
二人ははっとして、医務室の開いた扉の先を見る。
そこにいたのは、頭に包帯を巻いたジェイクだった。
「包帯を替えに来たんだが……、取込み中?」
その様子をみて、明らかにほっとした顔を浮かべたのはレヴァスだった。
「ジェイク、よかった。手伝ってくれ。アグルが取り乱しているんだ」
その言い草は、アグルには不利だ。焦るアグルだったが、逆にそのおかげで頭が冷えた。ジェイクにまともであることをアピールするために、落ち着いた口調で話しかける。それが近道になると気づいたからだ。
「取り乱していません。刹那がどこに行ったか聞いているんです」
ジェイクは首を傾げた。さも当たり前のことのように、いつもの口調で答える。
「言ってないのか?刹那は船長と一緒にシェイレスタの都だよ」
遅かった。何もかもが、遅かった。全ては後手に回ってしまった。
息を呑むしかないアグルの前で、ジェイクとレヴァスが何やら話し合っている。伝声管から鈍い音が二回ほど響いて、それについて二人が何事だろうと新たな話題を種に、話に花を咲かせている。それら全ての音が、遠かった。取り残されたその空間で、アグルは呆然とするしかない。
いつもそうだった。いつも、自分は一つ力が及ばす、大切な何かを失う。過去、レンドを助けたことがあったから、払拭できたと思っていた。しかしそれは油断を生んだだけだ。本当はいつでも何かを失わせようと悪意が迫っていて、アグルはそれに気付けなかっただけだ。昔から、何も変わっていない。
(へクタ……)
心の中で、今は亡き友を想う。彼もまた大切な誰かを守れなかったことを悔いていた。彼は自身のことを話そうとしなかったが、それでも、その誰かと離れ離れになって、苦しんでいることは伝わってきた。互いに生死が分からないまま、会えない日々が続くことに悶々としていたのだと思う。けれど、いつか怪我が治ったら探しに行くものだと思っていた。それなのに、へクタは自死を選んだ。
アグルは心底嫌気がさしたものだ。納得できない結末を受け入れるしかなかった自分に、へクタを守れなかった自身にだ。
そんなアグルの耳に、足音が届いた。小さな足音だったが、それがあまりにも真っ直ぐに駆け込んでくるのが気になった。
そして、突如扉を開けて現れた影に、アグルはあっと声を挙げる。
影は真っ直ぐにジェイクへと駆けこんでいく。その手に、きらりと光る刃が見えた。
「ジェイク、後ろだ!」
レヴァスが叫ぶ。それを受けて、ジェイクが振り返ろうとするが到底間に合わない。
アグルの目に、黒い羽織の何者かが刀を振り下ろす瞬間が、飛び込んできた。




