その238 『不穏な会話』
がたんがたんと揺れる音がして、イユの意識はうっすらと覚醒した。
「あれ、もう起きたの」
聞こえた声にゆっくりと目を開ける。どうしてだろう、頭が割れるように痛かった。
まだぼんやりとしたままのイユのことなどお構いなく、その声は続けている。
「本当はもっと長い間気を失うはずなんだけど、この手の類に、抗体でもあるのかな」
声の主を探そうと、イユは周囲を見回す。そんなイユの視界にまず入ったのは、地面に伏したリュイスの姿だった。頭痛など、いっぺんに吹き飛ぶ。
「リュイス!」
慌てて駆け寄ろうとして、イユの足が止まる。リュイスと向かい合う形でレパードが崩れ落ちていることに気づいたからだ。レパードの目は閉じられていて、顔がいつもよりやつれてみえた。リュイスは伏せているので状態が分からないが、ぴくりと動かないところをみると、同様に意識がないと思われた。
すぐに二人に近寄って、様子を確認する。二人とも脈はあった。しかし、擦り傷に、魔物に刺された痕、魔物に絞めつけられたことによる痣、こうしてみると二人とも怪我だらけだ。
新たな外傷がないか確認しながら、伏せた状態のリュイスに至っては、壁にもたれかける形に態勢を変えてやる。突っ伏したままなのは、無造作に放り込まれたからだろう。そう思うと、少しでも楽な姿勢にしてやりたかったのだ。
(手錠?)
動かす最中に、リュイスとレパードの右手に掛けられた手錠に気付く。手錠といいつつ片手にしかされていないので、錠の意味をなしていない。しかし、意味がないはずの錠には、きっちりと鍵が掛けられていた。
不思議に思いつつも、確認すべきはまず、二人の容態だ。新たな外傷がないことを確認し終わると、最後にリュイスの顔にかかった髪をそっとずらしてやる。触ったらさらさらだったろうリュイスの髪も、今では魔物の粘液を被ったせいでばりばりになっている。どかした顔にも僅かに擦り傷がついていて、胸が痛くなった。
それでも、二人は生きている。そう自分に言い聞かせて、ぎゅっと拳を握りしめる。それから、途中になっていた周囲の確認を再開する。聞き覚えのある声の持ち主の、居場所を突き止めなければならない。
まず気が付いたのは、全体的に明るいということだった。ここは薄暗い地下水路ではない、全くの別の場所なのだ。見上げれば、照明がある。白い天井に半球がくっついて、そこから白い光を下ろしている。
次に目に留まったのは、格子だった。その奥にある白い壁の存在にも気付く。格子もそうだが、白い壁が四面に囲われているようだ。
しかしリュイスたちのいたその奥だけは、先があった。その格子の向こう側には、星空がある。少しして、窓に空の様子が映っているのだと気づいた。窓から離れた場所に白い革の椅子が二席ある。その片方に座っているらしい、桃色の髪の頭が見えた。リズムを刻むように、頭が左右に揺れている。声の主をようやく見つけた。紛れもない、ブライトがそこにいた。
刹那が案内した先に見えた赤い瞳。「よくやってくれたね、イユ」と囁く声。眠りに落ちる前の出来事が、頭の中に蘇った。夢かと疑いたいところだが、こうして後ろ姿を確認して、はっきりと悟らされる。
これは、現実だ。ブライトは、地下水路からやってくるイユたちを待っていた。そして、刹那を使ってイユたちを眠らせた。そうして今、イユたちは見知らぬ部屋で牢の中に入れられている。
ふいに、焦燥に駆られた。ここには、イユ、リュイス、レパード、ブライトがいる。しかし、あの地下水路に一緒にいたはずの刹那は、いくら見回してみても見つからない。刹那だけがこの場に欠けている。
「ブライト、ここは一体?刹那は?」
答えを求めたイユの問いにしかし、ブライトは答えず背を向けたままだ。
少しして、イユは気が付く。ブライトは何も上機嫌でリズムを刻んでいるわけではない。その手に操縦桿が握られている。運転しているのだ。ここは、小型飛行船の中であるらしい。それに星空が出ていることを踏まえると、既に半日以上は眠っていたことになる。飛行船に運ばれたのがいつかはわからないが、相当の距離を走っている可能性があった。
「どこに行こうとしているの」
目的のシェイレスタには着いたはずなのだ。それなのに、ブライトは何かの乗り物に乗ってどこかへ行こうとしている。その目的が分からず、イユの心に漠然とした不安が渦巻いた。
イユはブライトに近づこうと立ち上がったところで、天井に頭をぶつける。上にも格子の檻があるのだ。改めて、イユは意識する。イユたちが檻に入れられていることを。
「ん?そうだねぇ。一つ目の質問から行こうか」
ブライトが今になって言葉を紡ぐ。
どうも運転に集中していて、イユへの返答に遅れたようだと、イユは解釈した。
「ここは一体何処か。見ての通り、飛行船だね。そしてイユたちは檻の中。手錠もしてあるから魔法や異能の類は使えないよ」
言われてイユは初めて、自身の手を見やる。確かに、リュイスとレパードはそれぞれの右手首にされていた。魔法が使えないと言うことは、異能者施設でも見たことのある錠の類だろう。しかし、イユの腕は軽いまま、余計な飾りのない白い腕だけがそこにあった。
「二つ目は、刹那の件だっけ?」
手枷がないことはひとまず置いておいて、イユはブライトから先に答えを引き出すことにする。
「えぇ」
頷くイユに、ブライトは返した。その言葉には含みも何も感じられなかった。
「刹那は一足先に向かったよ」
「向かった?え、どこに……?」
ここで、三つ目、最後の質問に対する答えが出た。
「今向かっているのは、嵐の山脈と同じで、でも危険ではない場所。三つの国の中立地点かな」
答えられても、結局理解ができなかった。何故ブライトがイユたちを連れてそんな場所に向かう必要があるのか、それが掴めない。
聞いてしまっていいのだろうか。疑問だらけのイユの中で芽生えた感情が、イユを躊躇わせる。ブライトは今のところイユの質問にすべて答えている。だから、聞けば答えてくれるだろう。それなのに、聞くことが怖い。聞いてしまったら、後に戻れない気がした。
この気持ちは何だろう。何故、怖いと思うのか。イユは、意識のないリュイスとレパードを視界に収める。ちくりと胸が痛んだ。それに、再び疑問が生まれる。どうしてだろう。なにゆえ、胸が痛いと感じるのだろう。どうしてまた、イユの両手両足は地面にくっついてしまったように重いのだろう。
きつく、唇を噛みしめた。疑問を受け止める、相応の覚悟が必要だった。
「……ブライトはどうしてあそこに現れたの」
絞り出した新たな質問に、ブライトは返す。
「約束通りそこにいた、だけだよ。イユは凄いね。本当に覚えていないんだ」
何を言っているのか、イユには理解ができなかった。覚えていないというが、イユは記憶を飛ばした覚え自体がない。一体ブライトは何を言っているのだろう。
「こうもお人形に最適だと、式神以上に使い勝手がいいよね。うん」
あたしは運がいいな。なんて言っているブライトの言葉が、さっぱり理解できない。
「手放すのは惜しいけれど、まぁ背に腹は代えられないかぁ」
イユはブライトの言葉を黙って聞くことにした。理解ができないものをこれ以上問い詰めても、頭がついていかない。それよりも、今言ったブライトの言葉を整理する方が大事だった。
ブライトはイユが覚えていないと言った。人形に最適だと。ブライトは約束通りそこにいた、だけだと。いたというのはあの地下水路のことだろう。ブライトは待っていただけなのだ。ただそこに、イユたちがやってきた。
呆然と導かれた答えを咀嚼する。どうしても、ブライトと約束して、イユ自身がレパードたちを連れて行ったように聞き取れる。しかし、そんなはずはない。イユは地下水路のことなど知らなかった。
けれど、覚えていないことに感心されたということは、イユが地下水路のことを忘れているというだけになる。
イユは首を横に振った。
間違ってはいけない。あの場所に連れて行ったのは、刹那だ。イユではない。イユはただ、兵士から逃げただけだ。それに、そもそもレパードを助けにシェイレスタの都に行くことを決めたのは、イユだけではない。むしろあのときのイユは、提案しただけだ。自分の力ならば、壁を乗り越えられるとリュイスに伝えただけである。
それなのに、動揺している自身に気付く。何故なら、イユは知っていた。心優しいリュイスが、助ける手段があると知って飛びつかないわけがない。今のセーレに他の手段がないことも、セーレの現状を知っていれば分かった。
ふいに、ブライトは操縦桿をゆっくりと右に動かした。
飛行船が右に傾く。それに合わせて、イユの体にもGがかかる。
夜空を映した窓に、一瞬砂漠が映った。月光を浴びた砂は、きらきらと光っている。
灰色の世界が徐々に色づくように、イユの頭の中がはっきりしてくる。それと同時に、血の気が引いていった。ようやく、気が付いたのだ。
「ちょっと待って!中立地点っていうのは遠いのではないの?そんなところに行っていたら、セーレが……!」
物資が残り少なかったのだ。だから、危険を承知でシェイレスタの都に乗り込んだ。それなのに、イユたちが戻らなかったらセーレの皆はどうなってしまうのだろう。リーサの顔が浮かぶ。心配しているはずだ。そのうえ、物資が尽きたら、彼らの命はない。
「大丈夫だよ」
ぽつりと告げられたブライトの言葉を、ただ反芻する。今の条件下で、セーレに大丈夫と声を掛けられる要素は、イユの頭の中には存在しなかった。それでも、ブライトには何か確信があるのだろうか。期待の込められたイユの視線は、ブライトの背に縋った。
ブライトはちらりと、イユを振り返る。その一瞬で、赤い瞳がイユを絡めとった。どういうわけだろう、イユの頭の中に焼き付いて、暫くその色が離れない。
「セーレはね。多分、もうないよ」
ブライトの言葉が、壁を隔てたどこか別の場所、或いは深い水の中で木霊したかのようだった。イユの心に響くには、その言葉は、あまりにも鋭く尖っていた。




