その233 『再会』
立て続けに飛びかかってくる触手を、必死の思いで屈み、避けて、走る。リュイスの剣も、レパードの魔法も応戦はしているのだろうが、役に立っている気がしない。今までと違い、襲ってくる触手の数が段違いだ。防ぎきれていないのだろうと考える余裕もなかった。余裕があったら、わざわざ黒い魔物で塞がれた扉の方へと向かってはいなかった。逃げることしか考えられなかったイユたちは、貴族区域に繋がる扉に向かって走るしかない。魔物をどかす時間があるとは到底思えなかった。
せめてとイユは足に力を込める。そこで違和感に気が付いた。足は動きこそはするものの、どういうわけか力を込めることができない。痣の部分を中心に、力が抜けてきている。そのうえで、ふくらはぎの部分まで異様に冷たくなっていた。自分の足が自分のものでなくなってしまったかのようだ。それでも、歩けないわけではない。足に力が入らなくとも、足を動かすこと自体はできる。足に動けと命じ続けて、路を駆け抜けた。
敵は後方のクラーケンだけではない。前方から蝙蝠がぽんぽんと膨れ上がって噛みつこうと突進してくる。露払いをしてくれるリュイスとレパードは後方の魔物に忙しい。幸い手は自由に動くので、真っ先に払いのけて進む。
イユの手に払われた蝙蝠が、声をあげて水の中に飛び込んでいった。
そうやって誰よりも早く扉にたどり着いたイユは、黒い魔物へと近づいた。どうやら失神ではなく、既にこと切れているらしく全く反応がない。試しに触ろうとしたところ、バチっと火花が飛び散った。どうも死して尚、魔物は電気をため込んでいるらしい。どうしたものかと思案したところで、レパードがリュイスの名を呼ぶ声がした。
慌てて振り返ったイユは、リュイスの体が触手に持ち上げられた瞬間を目撃する。両腕をまとめて触手に絡められている。持ち上げられた腕を伝って粘液が、頭や肩、背中へと落ちていくのが確認できた。必死にふりほどこうともがいているが、力が段違いなのだろう。むしろきつく縛られて、うめき声すらあげている。恐らく痛みのあまり魔法を放つ余裕もないのかもしれない。
リュイスが、食べられる。
レパードが応戦しようと光を飛ばしているが、リュイスとレパードの間に新たな触手が分け入って、光の攻撃を引き受けている。魔物を使って退路を断つことといい、この魔物には知性を感じた。ただでさえ人を超えた力を所持した魔物が知性まで持ったら、イユたちでもまるで歯が立たない。
リュイスを助けようと急いたレパードが、反対からやってきた触手に腕を掴まれた。あっと思ったときには、レパードの体が上へと上がり、反対の手で撃とうとした銃をとる暇も与えられず、別の触手に体全体を絡めとられてしまう。足に腹部に、首にまで、逃げる隙を与えず、くるくると巻き付いた触手からは、毒が撃ち込まれる。床に血の色が飛び散った。
イユに背を向けている形になるため、レパードの詳しい状態ははっきりとは確認できない。だから、魔物が一際大きいせいで魔物の毒が血を噴き出させるほどの規模のものなのか、たまらず口から吐いたのかまでは分からない。だが、二人がこのままでは死んでしまうという危機感だけは、イユのなかに芽生えた。いてもたってもいられなくなり、走り出す。武器など何もない。ただがむしゃらに立ち向かっても、食べられてしまうだけだとはわかっていた。それでも、理性より先に体が動いた。
走り続けるイユの前で、魔物が水面から顔を出す。
知らなかった。クラーケンと呼んだ魔物には、大きな赤茶色の頭部があった。ぶよぶよの頭だけで、イユたちの背をあっという間に追い越した。水の中はどれほど深かったのだろう。この魔物に食われたら塵も残らない気がした。そして、血走った獲物を見る目が、じろりとレパードとリュイスを睨んでいた。触手の数は、全部で八本もあった。それらが全て水面から浮かび上がる。触手の根本、目の近くから風が漏れた。鼻の曲がりそうな生臭い息に、遠くにいたイユですら鼻を抑えたくなる。そこから、牙のような鋭い何かがびっしりと生えているのがちらりと確認できた。あれが口なのだろう。入ったら最後、あの人の背ほどある歯に切り刻まれてしまう未来しか見えない。
魔物が大きく口を開ける。魔物の雄叫びとともに、再び吐かれた息に、その凶器の歯に、怯みそうになる。けれど、今の恐怖に負けたら、きっとイユは後悔する。そう稲妻が走ったように、思った。
その刹那、横なぎの風が魔物の頭部に大きな切れ込みを入れた。ぱかっと滑らかなバターを削るように、線が入る。リュイスの魔法だとすぐに分かった。
魔物が悲鳴をあげる。痛みを感じたらしい。
だが、それだけだ。魔物を粉々に切り刻めていたらよかった。せめて、触手が何本か斬られているだけでも、希望が見えた。それなのに、魔物はピンピンしている。それに二人ともまだ、触手に捕らえられたままだった。
むしろ、リュイスの魔法に動揺した魔物は、故意にリュイスを手放すことにしたようだ。突然リュイスを捕らえていた触手を振り上げ、振り下ろしたのだ。
一気に上へ引きあがったリュイスの体が、触手を外れて、前方へと飛ばされる。黒い魔物と同じ末路だ。
走り続けていたイユは受け止めようとして、リュイスの体が自分より上へと跳んでいくのを見送る羽目になった。壁に叩きつけられたリュイスの体から嫌な音が鳴る。黒い魔物はあれでこと切れたのだ。真っ青になったイユは慌てて急転換して走り出した。壁にのめりこんだリュイスの体が、重力に引きはがされて落ちていく。このままでは地面へ衝突してしまう。
(動きなさい、私の体!)
動かない役に立たない足など、この際どうなってもいい。無理に速度を上げて悲鳴をあげる体を全て無視して、イユはリュイスの元へと駆けこんだ。
走る速度では間に合わないと気づいたイユは、自分の体を最後の最後でスライディングさせる。
(間に合って!)
心の叫びは、届いたらしい。寸前のところで、リュイスの体を全身で受け止めることに成功した。ずしりとした重みが足に一気にくる。高いところから落ちたのだ。しかしその重みに呻いているどころではなかった。黒い魔物は背中から扉にぶつかって事切れたのだ。リュイスも、嫌な音がしていた。
絶望に耐えられなくて、目を閉じたままのリュイスを必死に揺さぶる。
「リュイス!リュイス!」
頬を何度か叩くと、反応があった。リュイスの瞼がぴくぴくと動いている。何度かむせると、血を吐き出した。その色が口の周りに飛び散って、真っ青になったが、少なくとも彼は生きている。それを確認して、ほっとした。
整った顔の一部に血がつき、粘液でべとべとになってもいる。あんまりな光景だ。それでも、丈夫だという『龍族』の体に感謝した。
それから、レパードのことが思い当たった。振り返ると、風の魔法でやられた魔物が、痛そうに余った触手で斬られた部分を擦っているところだった。早くしないと、レパードが食べられてしまう。イユはリュイスの手に握られたままの剣を手に取ろうとした。右手の剣は抜けなかったが、左は毒が回っている関係か、すらりと抜けた。
「借りるわ」
イユは剣など生まれてこの方扱ったことはない。だから、ぼろぼろにしてしまうかもしれない。それでも、今この時ばかりは必要だった。素手のイユでは敵わないのだ。
ゆっくりとリュイスを床に下ろすと、イユはまず黒い魔物へとその剣を突き刺した。走って間に合う距離に、レパードはいない。だから、これしか他に思いつかなかった。
魔物がいよいよレパードを食らおうと口を開けている。リュイスで懲りたのだろう。触手ごとレパードをあらかじめ右へ左へと散々ゆすって何かされないか確かめていた。
レパードは生きているのだろうか。全く反応せず揺られるままになっているレパードに、不安が沸く。何せ首を絞められていたのだ。それに、血も出ていた。魔物は生きたまま人間を食す必要はない。そう思うと、いてもたってもいられなかった。イユは刺した魔物を、思いっきり振り回して投げ飛ばした。
剣からするりと抜けた黒い魔物が、クラーケンの頭部へとぶつかっていく。それに気づいたらしい、魔物の触手がばっとはたいた。
時間を稼げれば、十分だった。イユは剣を構えて走り出す。リュイスは片手で握っていたが、持ち方のわからないイユは両手で握った。走ってくるイユに気が付いた魔物が触手を飛ばしてくる。右へ左へとやってくるそれに、力任せに振り回した。
異能の力がこもった剣は、何とか触手を叩き潰すことに成功した。リュイスのように斬るとは違うが、触手の先端が潰れていく。剣が折れないようにだけ細心の注意を払いながら、イユは立て続けに振り回し、走った。
魔物が迫ってくる。遠くからでも大きかった魔物が、近くだとますます巨大に見えた。こんな魔物に一人で突っ込んでいるイユは、きっと愚か者だった。今までなら、レパードたちを見捨てて一人逃げたことだろう。黒い魔物は扉から離れたのだから、扉を開ければ逃げられるはずだ。けれども、今のイユは微塵もそうは思わなかった。『生きる』という暗示がなくなったからだというのは頭で分かっていた。自分だけが生き延びることを強制されていないがために、イユは自分の死すら選べた。そこは、ブライトに感謝すべきかもしれない。ただ助けたい。その思いに、イユの体は動き続けた。
しかし、所詮イユの動きは素人のそれだ。異能の力でも限界はある。ましてやイユは、既に腹部から足にかけて痺れている状態だった。動きが鈍くなっているのに自分でも気づいていないだけだ。
そして、魔物には知性があった。何回か触手を叩き潰されると、左右まとめて触手をイユへとけしかける。
それを横なぎに斬りつけたイユの目の前が、次の瞬間紫に染まった。レパードの体がイユの目の前へと差し出されたのだ。斬るわけにもいかず、慌てて受け止めようとしたイユは、勢いが強すぎることに気が付いた。
あっと思った時には、イユの体が後方へと飛ぶ。大きく宙を浮かぶイユの体を狙って、残った触手が大きく薙ぎ払った。
背中から衝撃を受けたイユの体が、再び扉の近くへと弾き飛ばされる。直接床へと飛ばされた衝撃に、目の前がちかちかと光った。全身を打ち付けた痛みに、うめき声が零れる。口の中が切れたらしく、血の味がした。
その時、イユの耳は、カチャリという音を拾った。その音の発生源を求めてイユの視線が、扉へと向かう。ちょうど、扉のノブが下がっていくところだった。
思わず見開かれたイユの瞳に、開かれていく扉が目に入った。その先で、見覚えのあるシルエットが垣間見えた。水面の光を浴びて、一瞬その瞳が赤く光ったような気がした。




