その227 『地獄絵図から背けて』
「レパード!」
イユとリュイスの驚きの声が重なった。紛れもなく、今目の前の床から現れたのは、レパードである。思わぬ合流であった。
一方、レパードも驚いた顔をしてはいたが、少ししてアメジストの瞳がすっと細められた。恐らくイユたちの背後にいた兵士の様子に目を留めたのだろう。
「こっちだ、早く入れ」
レパードの声に、イユは速度を上げた。レパードは気づいていないが、イユたちの前方にはもっと大勢の兵士がいるのだ。死に物狂いでレパードのいる場所まで駆け込む。
レパードは持ち上がった床を支えて待っていた。支えていないと塞がるらしく、「この蓋を持っていろ」と指示をする。イユが受け取るのを確認すると、床に開いた穴へと梯子を伝って下りていく。
リュイスに蓋を持ってもらい、すかさずイユも続く。暫くすると、上の方でガタンという音がして、真っ暗になった。
リュイスが蓋を閉めたらしい。イユは目を慣らせばすぐだが、リュイスには動きにくいだろう。それでも、時間稼ぎになると考えたようだ。
地面に足がついてから、イユはすぐに辺りを見回した。地下水路にあたるらしく、水の匂いに混じって悪臭がする。兵士に追われる前にいた地下水路よりもずっと暗くて、床や壁のあちこちが汚れている。埃が舞っているし、ヘドロが隅に溜まっていた。
レパードが早く来いと手招きしている。
この空間は、異能者施設を想起させた。それでもまだ、あの施設よりはましだと言い聞かせる。あそこでは、死の臭いが充満していた。しかしここには、人の死骸は存在していない。まだ耐えられる。
イユは一息つくと、すぐに続く。いつの間にか、助けにいくつもりがすっかり助けられているななどと思う余裕も持てた。
「言いたいことはいろいろあるが、まずは急ぐぞ」
レパードはそう言いながら階段を下りていく。暗いが、目が慣れているのだろう。躊躇うことなく進んでいくので、イユもリュイスを引っ張りながら続く。
濡れているせいで、足場が滑りやすくなっていた。転ばないように気を付けながら、走る。
後方から、蓋を持ち上げるような音と、人の声が聞こえてくる。兵士たちも下りてきたのだろう。彼らは、この地下水路に詳しいのだろうか。レパードは地下水路にどのくらいいたのだろう。さまざまな疑問が頭に浮かぶが、安心できる答えを用意する時間はない。
「ここからは気をつけろ。絶対に音を立てるな」
レパードの忠告とともに、足場が平らになった。それに合わせて、レパードが歩き出す。
急に速度を落とすのだ。ぶつかりそうになる。たたらを踏みながらも、何とか態勢を整えたイユは、レパードの足が濡れているのに気がついた。水に足を突っ込んだのだろうか。疑問に思いながらも、踏み出す。
後方の足音が大きくなっている。そう思うと、足が自然と早まった。レパードが遅すぎて、じわじわと焦りが生まれる。できることならば駆け出したかった。このままでは、兵士たちに追いつかれてしまうと思うと、いてもたってもいられない。
しかし、レパードが気を付けろと言うのも分かる。足場が極端に小さくなっているからだ。おまけに、イユの足でも一足分になるかならない程度の床の外側には、水が流れている。覗き込んでも底が見えない濁った水からは、飛び込んでもろくなことにならないと感じさせられる。
それでも、イユならば足一つ分の隙間もあれば、走ることができた。そう思うだけに、段々と苛々してくる。レパードに走るように言ってやろうかと思った。音を立てるなとは言われたが、手振りで文句を言うのは良いだろう。
だが、レパードの肩を叩こうとしたところで、足場が急に広くなった。
レパードが、振り返る。イユとリュイスが渡り切ったのを確認する仕草に、何かを企んでいることを察した。顎だけで先にいけと示されれば、余計にだ。
気になったイユは、ちらちらと兵士たちが階段を下りてくる様子を確認する。足場に踏み入れた兵士の一人が急に狭くなったせいで、落ちかけた。
そこに青い光が炸裂する。レパードの魔法だ。しかし、兵士たちに直接あたったわけではない。ただ大きな音に合わせて、光が走った。それだけだ。兵士たちは突然の光に驚いて足を止めるが、それぐらいでは大した時間稼ぎにはならない。
何をしているのだと言いたくなったところで、水面がぶくぶくと言い出した。はじめは、小さな音だった。だから光に意識が向かっていた兵士たちは誰も気が付いていなかった。
しかし、あっという間に大きくなった水泡が兵士たちに向かってくると、兵士の一人があっと声を挙げた。
その瞬間、水の音がして、兵士が一人減った。
イユの目には見えてしまった。水泡から現れた、ぬるりとした触手が、兵士の一人を掴んで水の中に引きずり込む瞬間をだ。
触手は、表面に吸盤のようなものを無数につけていた。そこから水を滴らせた魔物は、兵士に抵抗の暇を与えなかった。続いて隣の兵士の体に巻き付くと、水の中に瞬く間に引きずり込んだ。兵士の断末魔の声が虚しく水のなかへと消える。暫くして、水面が赤く染まった。
ぎょっとした他の兵士たちが、口々に声を挙げた。イユは喉がからからになったせいで、声もでなかった。これはまるで、海の底から現れるという海獣、溟海の悪魔クラーケンのような所業だった。
イユは思わず口を抑えた。鳥肌がたったのは、決してひんやりとした肌寒さのせいだけではない。今回は兵士だったが、ついさきほどまでイユはあの路を歩いてきたばかりなのだ。自然と、足が震えた。
「何やっている、行くぞ」
見るんじゃないと、レパードが近づいてくる。イユは腕を引っ張られた。走らされてから、リュイスはどうしているかと思って、隣を見る。案の定、血の気を失った顔をしていた。
後方では、立て続けに悲鳴が響いている。助けを求める声、それに応じようとする声、水の音。全てに蓋をしたかった。イユはまだ人の死に慣れていると思っていた。だが、この地獄のなかに入り込んだような悲鳴の数々はあんまりな不意打ちだ。
暫く走ったところで、後方からの音が静まったことに気が付く。代わりに、自分たちの足音がカツンカツンと響く。その間を縫って、水の音が反響する。静かな空間に響くその音が、ことの終わりを示しているかのようだった。
「なんで、こんな都の真下にあんな化け物がいるのよ」
レパードは知っていて仕向けたはずだ。イユは勝手にレパードのことを、リュイスのお人好しがうつっているのだと思っていた。だから、いくらなんでも魔物をけしかけるのようなことはしないだろうと決めつけていた。しかし、今はそうは思えない。レパードは、敵には容赦をしない男だ。それを知ってしまった。
「俺が知るか。ただ、人の手の入らない地下水路はあの手の魔物がうようよいたぞ」
これから先も出てくるだろうと言われると、あまりにも嬉しすぎて涙がでてきそうになる。
「レパード。僕は賛成できません。いくらなんでもあんな……」
リュイスはやはり不満があったのだろう。唇を引き締め、眉を寄せている。
「だったら、助けにいくか?お前の魔法でも、水の中じゃ話にならないだろ」
押し黙るリュイスの、きつく握られた拳が僅かに震えている。お人好しのリュイスには相当に堪えた光景に違いない。
それに、レパードの質問は意地悪だ。こんなに静かになってしまっては、リュイスが助けに戻ったところで、何も残っていないに違いない。或いは、レパードはこう言いたかったのだろうか。文句があるのであれば、魔物が現れた時点で、リュイスが魔法や剣で兵士たちを守っていればよかったと。そうせずに、地獄絵図に背を向けて走ったのだから、リュイスにレパードのことをとやかく言う資格は既にないのだと。
そんなことを考えたせいで、レパードに対する沸点が下がった。むしろどんよりとした気持ちがイユを襲う。思い出してしまった。イユはスズランの島でアグルを助けにいくことを渋っていた。巣から落ちたリュイスとアグルを見たとき、見捨てることを考えていた。イニシアに行く前にいた洞窟でも、同じようなことをした。光る苔を好物にする魔物を前にして、意識のないリュイスとそれを助けようとする刹那を置いて逃げることを考えた。イユは自分の命のために味方すら見捨てようとしたのだ。それに比べたら、レパードの行為は、敵に対するものだ。イユに責める資格はない。
「私たちはあいつらに追われていたのよ。……助けるのは無理だわ」
辛うじてそう言って、イユはそっと自分の腕を抱いた。気持ちを切り替えるように、すぅっと息を吸う。血の匂いが口に入り、むせそうになった。
「……すみません」
消え入りそうな声で、リュイスが謝罪を口にする。その言葉に、誰も返せなかった。




