その22 『たすけて』
「次、入れ」
冷淡な女の声に押されて、ある一室へと入り込んだ。灰色の床の中央には、着せられている白い服と同じ色をした不思議な紋様が描かれていた。
そこまで歩かされる自分を、イユはまるで他人事のように視ている。
「そこで、とまれ」
命令を聞くまでもなかった。紋様の中に入った途端、足が自由に動かせなくなった。さきほどまで小刻みに震えていたその足が、一瞬で自分のものでなくなった。
「今回の実験は?」
若い男の声がした。
夢だから、知っている。この男も女も『魔術師』だ。
「この異能者の力の特定よ」
「また地味な。どうせ大した力じゃないでしょ」
真面目なのは女だけなのだろう。
「てきとうでいいじゃん」
と男が言って、女を怒らせていた。
イユの存在を忘れたように、二人の会話が暫く続いた。
「……いい加減に始めましょう。今日の分が終わらなくなる」
「それは同感」
足音が近づいた。それはこつんという音と同時に止まった。イユの目に、まるで血のような色をした赤黒いズボンが映った。
「なぁ、ちょっと椅子を用意したりとかできないの? 腰が痛くなるじゃん」
「椅子の上に法陣を描けるなら、そうして頂戴」
そんなに屈むのが嫌なら実験なんてしなければいいのだと、そう言ってやりたい。
「仕方ないか」
ため息を吐きながら、男が屈んだ。
赤い髪をぼさぼさにした男の全身があのとき初めて目に入った。小麦色の瞳が細められていて、気づいた。
その顔は、笑っていた。てきとうでいいという割に、楽しんでいた。
「始めるぜ」
男はイユのちょうど心臓の上へと手をのせた。目を閉じ、何やら呪文のようなものを唱えだした。
唐突に息が苦しくなってきて眩暈がした。体中が熱を帯びはじめたと思った次の瞬間、男の手が体の中に食いこむ感触があった。実際はただ置かれているだけだ。あくまで感触だけである。
だが、その指の不気味な冷たさがイユの体を浸蝕していく感覚にぞっとした。気持ち悪かった。吐き気も込み上げた。思わず男の手から逃れようと、イユの体は仰け反ろうとした。
にもかかわらず、どれほど力を加えても動かないままだった。
男の手は止まらない。イユをいたぶるようにゆっくりと、しかし確実に、心臓に向かってその冷たさが伸びていった。
今は夢だから、痛みを感じない。でもあのときは、全身に痛みが走ったのを覚えている。体中が恐怖に蝕まれた。このままでは心臓を鷲掴みにされて、握りつぶされることだろう。声に出して叫びたくなった。
助けてと。やめてと。
しかし、声が出なかった。苦痛の表情を浮かべることすらできなかった。いつの間にか足だけでなく体の部位全てが自分のものでないかのように動かなくなってしまっていた。パニックに陥りそうになった。まるで、心と体が分離してしまったかのようだ。
しかし、感覚だけは心と寄り添っていて、心の中で悲鳴を上げ続けた。
「異能の暴発時の記録、でてきたぜ」
恐怖に怯えるイユに対し、その声はあまりにも淡々として響いた。
「おぉ、怖っ。ハインベルタの旦那、子供相手にこんな顔するのか」
それは、イユの記憶だ。人の記憶を見ておどける男の声は、楽しそうだった。
「やめなさい、ハインベルタ家の悪口は。消されるわよ?」
女は女で、ずっと仕事口調だ。
頭痛がし吐き気がひどくなり、意識が何度か途切れかけた。
気づいたらイユの体は床の上にあった。それを無理やり起こされ、再び立つように命じられた。意識が朦朧とするなか、同じことが繰り返された。楽しそうな男の声につられてか女も少し嬉しそうだ。
あのとき、そう、あのときだった。夢の片隅でイユは思い出す。崩れかける意識のなか、楽しそうに人の記憶で会話する魔術師の男たちをみて確信したのだ。
魔術師は、異能者のことを面白い玩具程度にしか考えていないと。




