その218 『待つ者、動きはじめる』
結局、レパードたちは1日経っても戻ってこなかった。
イユは、部屋に閉じこもって絵本をめくる。蛙にされた王子の旅は続いていた。時に鳥に襲われ、時に馬車に轢かれそうになり、散々な旅路だった。
一緒になって凹みながら、イユはじわじわとしか過ぎない時計に苛々とした。せめて、外に出たかった。周囲に魔物がいないか見回るのだ。それがだめなら、砂で汚れた船の掃除を手伝うのでもよい。或いは、裁縫道具を貰えるだけでもよかった。そうしたら、余った布で、巾着でも作れる。
そうやって動いていないと、心の隙間を突いて、向こう側に閉じ込めた感情が押し止められなくなる。そんな焦躁が、イユを駆り立て、煽った。
「イユ」
リュイスの声が聞こえた時には、イユの視線は扉に釘付けだった。待ち望んだ進展がここにやってきたと、言い聞かせる。
「お腹空いていませんか」
予想外の言葉に、脱力した。それから、時計を確認する。食事を摂らずに、12時間は経過している。本来ならば、空腹を感じる時間だ。
「一日抜くぐらい何ともないわ」
少し前までは一日どころか何日も抜きだった。だから、気にしなければ、少しぐらいの空腹は耐えられる。それに、空腹とはおかしなもので、一定時間過ぎると不思議と感じなくなるのだ。
「それより、レパードはまだ帰らないの」
尋ねれば、扉の先で頷く気配が返ってきた。
「さすがに、心配です」
今回は特にブライトのことがある。イユはリュイスに期待した。
「探しにいかないの」
リュイスが、慎重に答えを探している。
「都はレパードが入ってから、完全に封鎖されてしまったようなんです。入り込めません」
イユの知らない間に、事態はきな臭い方向に進んでいるらしい。
「おまけに、鳥も使っても手紙を受け取ってもらえないんです」
「なにそれ」
リュイスの話では、足に手紙をくくりつけたまま、ペタオが戻ってきてしまったという。
「鳥がサボっているんじゃないの」
「ペタオに限って、それはないかと」
恐らく手紙自体を受け取ってもらえなかったのだと、リュイスは言う。手紙を運んだ先で拒否されて、戻ってきたと。
でも、そんなことがあるだろうか。不思議に思うイユに、リュイスが答える。
考えられるとしたら、シェイレスタが何か圧力をかけているのかもしれないと。手紙の配送先は、ギルドだった。ギルドは、マドンナの言葉を借りるのならば、強い者の味方だ。この場合、セーレではなく、シェイレスタになる。シェイレスタの命令で、手紙を渡せなくなっている。
「そうなると、どこにセーレが移動したか知らないレパードでは、たとえ門が開いてもたどり着けないんです」
それでは、レパードは一生かかっても帰ってこない。大人しく待っていたら、イユは飢餓で死んでしまう。
「都の周囲の壁を伝えば、入れなくはなさそうだけれど?」
鳥がだめなら自分たちがいけばいいと、イユは提案した。イユの目は、一度都の様子を確認していた。壁は異様に高かったが、それでもイユの力であれば到達できる範囲だ。
「さすがに無理ですよ。壁を伝っていると目立ちますから、どうしても門番に見つかると思います」
「私なら一瞬よ」
足に力を込めて、ひとっ跳びだ。異能者施設の壁もこの力で乗り越えたのだから、同じ要領で行けるはずだ。
「なんなら、一人ぐらい担ぎ上げることもできそうね」
イユの言葉に、リュイスが沈黙している。
今は閉じ込められているがために、それができない。イユの話は可能性の物語だ。だからこそ、この話はするだけ空しい。
「イユ」
静かなリュイスの口調に、イユは息を止めた。
「本当に、暗示にかかっていないんですよね」
それは、縋るような言葉だった。
「わからないわ」
イユはその答えを持っていない。ブライトは解いたと言った。だが、言っただけだ。
「きっと、ここにいる誰にもわからないのよ」
これは、恐らく心の問題だ。人の心は、決して見えない。暗示にかかっているからといって、印が付いているわけではない。『魔術師』ならばわかるかもしれないが、彼らは教えてくれない。教えてくれたところで、こちらが信用できない。
イユたちは、本人でさえも本当のところがわからないでいる。『魔術師』ではない、ただの人間は、所詮予想することしかできない。他人の心の在り方を知ろうとしても目で見ることはできないように、暗示もまたそこに根付いてしまっている。
「少し、下がっていてもらえませんか」
リュイスの声の言う通りに、イユは下がった。
少しして、風がイユの髪を揺らした。その風の動きに、覚えがあった。
はっとする。セーレに初めて乗って、リュイスと一緒にアズリアのいる飛行船へと乗り込んだ。あの時に使った、風の魔法。制御室の壁を破るために使った、あの――、
ガシャンという音がして、扉がめくるように開いた。風の勢いはあの時よりは弱かったが、それでも衝撃があったらしく勢いで反対側の壁にぶつかる。それだけでは勢いを抑えきれなかった扉は再度翻ってリュイスの姿を隠し、そして再び反対側の壁へと振れる。その動きだけを見ると、まるで扉が振り子の時計になってしまったかのようだった。
「レパードを助けに行きませんか」
振り子の先に時折現れる翠の瞳が、意を決したようにまっすぐにイユを見つめていた。




