その210 『心の引っかき傷』
一応、医務室のベッドの枕の中に残骸が残っていたはずだよと、にやにや笑いを崩さずに続ける。
「つっ」
声にならない声がイユの口から洩れた。
「最低っ」
リーサの非難の声があがる。
それを受けても、まるで屈した様子もみせずブライトはそっと、イユの耳元まで距離を詰めた。そして、何事かと呟く。
「え……」
呟かれたはずのイユの耳にさえ、その言葉は言葉としての形を成さなかった。それなのに、突然足の力が抜けて、地面へと崩れる。
「イユ!」
駆け付けたリュイスに刃を向けられても尚、ブライトのにやりとした表情は変わらなかった。
「いやだなぁ、暗示を解いてあげただけだよ」
刃を向けられたブライトは手を挙げた状態で、一歩一歩イユから離れていく。
その去っていく姿に、イユは思わず手を伸ばしたくなった。
そこに、リーサが飛び込んでくる。
「イユ、大丈夫?」
「……えぇ」
顔を覗き込まれたイユは、心配を掛けまいと声を絞り出した。
「暗示を解くにはそれなりの手続きがいるんじゃないのか」
レパードの質問に、ぺらぺらとブライトが答えていく。ダンタリオンで初めてブライトに会ったときと同じ、ブライトのペースだ。リーサに崩された調子が、間違いなく戻ってきているようだ。
「あたし自身が掛けた暗示だよ?何、それとも解いてほしくなかった?」
くるりとレパードの方へと向き直る。刃はまだブライトを追いかけているが、リュイスも牽制の意味だけで実際に傷つけるつもりはない。
「まぁ、急に暗示を解いたわけだから精神的に不安定になるかもしれないけれど、それは前回と一緒だよね」
イユの位置からは見えないが、きっとブライトは今頃レパードにウインクをしている。レパードの殺気立った目を見れば、それと分かった。
「心配しなくても、約束通りシェイレスタまで君たちはあたしを連れてきてくれた。いいよ、本当はあたしの家まで送ってほしかったけれど、そこまで子供じゃないし自分で帰れるよ」
そう言いながら、ブライトは歩いていく。刃に牽制されようが、船員たちから冷たい視線を浴びようが、全く気にしていない様子だ。堂々とセーレの甲板の渡し板まで進んでから、振り返った。その顔の笑みが深まる。
「じゃあ、バイバイ、セーレのみんな。まぁまぁ楽しかったから、せいぜい生き延びてね」
不気味な宣言に、危機感を覚えたのだろう。
「おい、待て」
今度のブライトは、レパードの静止の声に答えない。再びくるりと向き直ると、渡り板を下りていく。
レパードが銃を持って駆け寄るが、ブライトは背を向けて歩き続けるだけだ。
イユは段々と小さくなっていくブライトの背を、目で追い続けるしかなかった。
「えっと、なにこれ?これで解決ってこと?」
見張り台から下りてきたクルトが、訳が分からないとばかりに甲板内を見回してそう呟く。
「リーサ、凄いじゃん!って言える雰囲気でもないんですけど?」
クルトが続けて発言しているのは、他の船員たちが誰も言葉を返せないせいだ。彼らは一様に戸惑っていた。ブライトはこの場を去った。セーレは約束を守り、ギルドの依頼をこなしたことになる。そして、イユは暗示を解かれ、晴れて自由の身だ。全てレパードたちの望み通り、そのはずなのだ。それなのに、全員が全員、その勝利を本当に掴んだのかと疑っている。間違いなく、不気味な宣言をしたブライトの様子に、警戒しているのだ。
その様子をみていたレパードが、ようやく重い口を開いた。
「ブライトが都に入ったのを確認したら、すぐにここを発つぞ」
その言葉を聞いたミンドールが、声を挙げる。
「しかし、ここを発ったら、他に補給地点はないですよ」
レパードがそれを制する。
「補給が必要なのはわかっている。だが、この場所はだめだ。ブライトに知られた」
レパードの懸念はやはり、ブライトの最後の発言にあるのだろうと察せられた。『せいぜい生き延びろ』とは、不吉な宣言もあったものだ。
「そういうことであれば、承知しました」
ミンドールも納得の表情をみせた。
ミンドールがようやく見つけた地点だったが、早速放棄しなくてはならない。名残り惜しいだろうが、当の本人は、そんな顔を微塵も見せなかった。
「それじゃあ、ボクは見張り台に戻るよ」
クルトの言葉に、ミンドールが頷く。すぐに駆け上がるクルトは恐らく、ブライトの姿が消えるまで確認する係を担うつもりなのだろう。
「……私たちは、どうすればいいの」
イユはレパードに問うた。準備万端にした鞄の出番が、引き延ばされたことはわかっている。それでも、頭がどこか冴えてしまって、このまま寝ましょうという雰囲気ではない。
レパードが口を開く前に、リュイスが提案した。
「できれば、医務室にあるというペンダントの欠片を確認しませんか」
その提案に、イユはリーサと目を合わせた。互いに、頷き合う。
壊されていると分かっていても、在り処を知ってしまった以上、確認したいのは山々だった。
「あぁ、そうだな。お前たちで確認を頼む。俺は他の船員に今の出来事を展開しておく」
レパードはミンドールへと声を掛ける。
「悪いが、全員を起こして食堂に向かわせられないか。あぁ、既に働いている奴らはいつもの通り、後で展開する形でいい」
ミンドールもまた、頷いた。
刹那が小首を傾げる。
「私は?」
「僕を手伝ってくれないかい?放送だけで起きる面々じゃないからね」
ミンドールの声に、然りと刹那が頷く。これで、皆の行動が決まった。
「イユ、早速行きましょう」
リーサに促されて、イユも頷く。イユ、リーサ、リュイスの三人で、再び船内に駆け込んだ。
訪れた医務室では、レヴァスがカルテを睨みつけていた。
「レヴァス、今いい?」
駆け込んだイユたちに気付いて、眦を上げる。
「君たちはここを遊び場か何かと勘違いしていないかい?どたばたとうるさくて敵わない」
悪いが、レヴァスに構っている暇はない。ベッドが全て空になっていることを確認したイユは、すぐに自身が過去に寝ていた枕へと駆けこんだ。リーサもまた、ブライトが寝ていた枕へと飛び込む。
レヴァスの目じりが険しくなるのを見て、リュイスが慌てたように謝罪する。
「すみません、ここにイユのペンダントの欠片があるはずでして」
「……あったわ!」
間髪入れず、イユは叫んだ。カバーを取り除き、枕の中身を確認すれば、敷き詰められた白い鳥の羽根が覗いている。その中に紛れて、確かに深緑色の欠片が鈍い色で輝いている。
すぐにイユは枕の中身を全てベッドの上にばらまいた。
鳥の羽根が飛散して、レヴァスが「やめないか!」と怒鳴る。申し訳ないが、今はそれどころではない。
飛散した鳥の羽根に紛れて、深緑色の欠片がバラバラと落ちていく。全てぶちまけると、それなりの量になった。
これが、本物のペンダントの成れの果てなのだ。
「ありましたね」
苦い顔で、リュイスが目の前のものをみている。リーサもまた、駆けつけた。
レヴァスも事情を察したらしい。怒りの表情を引っ込めて、呟いた。
「なるほど。枕カバーならともかく枕の中身など普通は確認しないな」
今取り出してみせた欠片が隠されていたことを察したうえで、頷いている。
「これだけ粉々では、この枕で寝ていても何も違和感を感じないだろう」
イユは改めて欠片を見下ろす。粉々になったそれらは、どれも小指の先にもならないほど小さかった。
「こんなに粉々じゃ、クルトでも直せそうにないわね」
イユは欠片を集めながら、そう呟いた。
途端に、ぐったりとした疲労感が、イユに巻き付く。不思議とそれは、異能でも振りほどけなかった。
「イユ……」
心配の声を挙げる二人に、胸を締めつけられる思いがした。ペンダントという『もの』だけではない、彼らの思いがこのペンダントには込められていたはずなのだ。
「ごめんなさい」
リュイスとリーサに、イユは謝罪を口にする。
折角プレゼントしてくれたリュイスに申し訳ないと思った。友人として大切にしていたペアのペンダントを粉々にしてしまって、リーサに悪いことをしたと胸が苦しくなった。
そんなイユに、二人はいいのだと言ってくれる。これはブライトのせいで、イユは関係ないからと。
それでも、イユの心には、がりがりと引っかいたような傷がついていく。できてしまった傷は、どうしたら治せるのだろう。開いてしまった心の隙間は、どうやったら埋まるのだろう。イユはただ、ひっかき傷の不協和音に、耳を塞いだ。そうする以外の方法を知らなかった。
「宝物、だったのに」
呟いた言葉は思いのほか鋭く、その場に残った。




