その202 『安否確認と』
「ねぇ、レパード。お願いがあるのだけれど」
食事が終わり、医務室に向かう刹那と別れてから、イユとレパードは廊下を歩いていた。水は殆ど掃かれたが、どことなくじめっとした空気がこびりついている。これが乾ききるにはもう少し時間が必要かもしれない。
「……ブライトに会わせてもらえないかしら」
途端に、レパードの顔が曇った。案の定な反応だった。しかし、イユとしては気になるのだ。
「嵐を乗り越えた後、心配していたリーサたちには会えたけれど、ブライトはまだ会っていないでしょう。元気にしているか気になるの」
説得すべくまくしたてると、露骨に嫌そうな顔をされた。そこはせめて、もう少しその表情を隠してくれてもいいと思うのだ。
「あいつは、いつも通りだ」
がんとした物言いには、これ以上追及してくるなという無言の圧力すら感じられる。
「そう、だとは思うけれど……」
ブライトのことは勿論、この嵐でも平気だと思っている。魔物にも襲われていなかったし、嵐の被害を被ったのは甲板に出ていたイユたちや浸水被害にあった機関部、そして操縦していた航海室の面々だろう。むしろブライト自身はただ待っているだけで暇をしている可能性もある。
それでも、様子を知りたい。リーサの顔を見て安堵したように、ブライトに会えばまた一つ不安要素が取り除かれるのだ。
上目遣いで見つめていると、レパードが溜息とともに帽子に手をやった。
「分かった、それなら声だけだ」
意外な返事に、イユの目が輝く。
「本当?!」
「……ああ、だがお前は口を出すなよ」
イユは首がもげそうなほどに頷いた。
「分かったわ」
ところが大変失礼なことに、レパードはそれを見て再び溜息をつく。
「……お前、絶対分かっていないだろ」
「はぁ?!なんでよ、分かったわよ!」
口を出すなという意図はわからないが、要するに大人しくしていればいいだけだ。そんな簡単なことはイユでもわかる。それなのに、レパードは譲らない。
「いいや、分かっていない」
「分かったって言っているでしょう?!」
言い合いしているうちに、レパードがふいに「しっ」と声を出した。口元に持っていった手を人差し指だけ天に向けている。
それを見たイユの口が、閉じられた。ブライトの部屋が、近いのだ。
少し歩いてから、その部屋の前でレパードがノックをする。
トントン……
小気味いい音が、廊下に反響した。
一拍、二拍と、時が流れる。自身の心臓がどくどくと鳴る音が聞こえた。
「はーい、どなた?」
聞き覚えのあるブライトの声が返ってきて、イユの足が崩れそうになった。全くいつもと変わらない声だ。
「俺だ。元気にしているか確認したくてだな」
「なにそれ、珍しい。あたしはいつでも元気だよ。昨日までぐるぐる揺らされていて、まだランド・アルティシアのアトラクションで遊んでいる気分だよ」
ブライトの言葉に、そういえば船内は船内でものすごく揺れているのだろうなと思い当たる。ブライトでも船酔いはしたかもしれない。
「そうか、ならいい」
ちらっとレパードがイユを見る。その目が、「もういいか」と言っていた。
イユはそれに頷く。これだけ元気な声が聞こえれば、安心できるというものだ。
「ぶー、なんか冷たい。でもびっくりだよ。あの揺れ、きっと嵐の山脈を乗り越えたんでしょう?船、大丈夫?壊れているなら、あたしも手伝うよ」
ブライトが話している間に、レパードが歩き出す。
一人話し続けるブライトの様子が気になったものの、早く来いというレパードの視線を受けて、イユも立ち去った。
「なんなら、シェパングの情報を教えよっか。あー、シェパングだと思うのはね。嵐が終わった距離からして、ちょうどシェパングに出たと予測しているんだけど。あ、待って、待って。それより水や飛行石の調達だよね。まぁ、シェパングならギルド船があるからいいか。でもシェイレスタに入ったら補給ポイントはないからね?あたしの為にも、買っておいてね。……って、ねぇ聞いてる?おーい」
そんなブライトの声が、染みついた雨水のように、廊下に漂っていた。
「これでいいだろ」
廊下を折れ曲がってから、レパードが義理を果たしたとばかりに言い放った。
「えぇ、満足よ」
イユの返事に、どこかほっとした顔をした。
そこまでイユがブライトの安否を気にするのが嫌なのだろうか。イユとしてはその様子こそ腑に落ちない。
「それで、残りの時間はどうするつもりだ。航海室は大方片づけ終わっていたよな」
レパードの言い分からして、レパード自身はこれからまた航海室に籠るつもりらしい。そして、航海室の片づけが終わってしまった今、同じ場所に籠っても仕方がないというのがイユの事情だ。
手持ち無沙汰なら、このまま部屋に戻って休んでしまうのもありかもしれない。そんな思いがイユの頭を掠った。しかし、リーサたちは働いているのだろう。そのまま休むのも気が引けた。
その時、イユの耳に、何かの鳴き声が届いた。
「え……?」
思わず周囲を見回す。気のせいだろうか、「シッ」と誰かの、静かにするようにとの合図が続けて聞こえた気がした。
「イユ、どうした?」
不思議に思ったのか、レパードが聞いてくる。この様子を見るに、イユの耳にしか届かなかった音なのだろう。しかし、意識はしていなかったから、どこか遠くの音を故意に拾ったわけではない。聞こうと思えばイユ以外にも聞けた音だろう。
「今、何かの鳴き声がしなかったかしら」
念のため、聞いてみるがレパードは首を横に振った。
「鳥じゃないか」などと付け加えられる。
鳥と言われても、イユにはしっくりこなかった。先ほどの鳴き声は、「くぅーん」という犬が鼻を鳴らして鳴くような音だ。鳥が果たしてそんな鳴き方をするのだろうか。
しかし残念ながら、音の出処がイユには察知できなかった。近くからだとは思うのだが、今の廊下の近くにある部屋は、皆の部屋だ。まだ夕食を食べているのかどの部屋も鍵がかかっていて開いていなかった。
おまけに、あれから一度も鳴かれないので、イユ自身も気のせいだったかと思えてしまう。
「……どのみち、危険はなさそうだから、いいかしら」
仮に魔物が紛れ込んでいたとしても、今の鳴き声はどちらかというと小さな生き物が出す、頼りなさそうな声だ。害のある類ではないだろうと判断する。最もこれが飼い主に甘える飛竜の鳴き声だと知っていたら、イユも血相を変えて探したに違いない。
「正直これ以上のトラブルはごめんだがな。イユ、疲れているんじゃないか」
その言い分に、イユはむっとなった。
「私は平気よ」
何故だろう。こういうことを言われると逆に休みたくなくなる。何かの鳴き声は気のせいだったとしても、このまま部屋に帰って寝ろと言われるのは嫌だった。
こういう時、リーサなら何を考えるだろう。ふいに、イユの頭に、梯子を登ってきたリーサがイユの恰好を見て驚いていたのを思い出す。そこで、イユは自身の服がまだボロボロのまま部屋に置いてあるのに気が付いた。服の修繕に時間を充ててもいいかもしれない。そこまで考えて、イユの発想は更に広がった。
「追加で、手伝ってほしいことがあるのだけれど」
「これで、全部だな」
レパードとともに運び込んだ衣服は、イユの部屋の机の上に山積みになっている。昨日甲板に出ていた船員のほぼ全員分に相当した。無傷の刹那を除けば、どの服も焼け焦げている。
服の修繕を思いついたイユは、船員たち全員のぼろぼろの服をかき集めた。大抵は食堂にいたから、欲しい服はすぐに集まった。むしろ想像以上に多くて、レパードもイユの両手も塞がるほどだった。案の定、傷ついた衣服の補修は、リーサが忙しいこともあってまだ終わっていなかったのだ。そして、自室でもやれる作業として、これ以上の仕事はなかった。
ちなみに、気になった鳴き声がしたことも話して、部屋を確認してもらったが、甲板部員全員からは何もいなかったという答えが返ってきただけだった。
「全く、お前はもう少し休んでもいいんだぞ」
むきになったと思われたらしく、レパードが最後に呆れたようにそんなことを言う。
「でも私がやらないと、どうせこの仕事はリーサがやるわ」
イユの返しに、しかめっ面が返ってくる。
「それはそうだが」
レパードのしかめっ面には意味がある。これでレパードがついていなくても、イユは仕事ができてしまう。本当は休ませたかったのだろう。
「なんかお前、ラビリに似てきたよな」
レパードがぽつりとそんなことを言う。イユにとって、ラビリは好感の持てる女性だ。
「誉め言葉として、受け取っておくわ」
その言葉に、がっくしとレパードの肩が落ちた。




