その2 『アマリリスを目印に(少年編)』
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それは数刻前のこと。都市の一角を歩く一人の姿があった。
白いローブを身に纏い、フードを深く被っている。足の動きに合わせて、ローブの隙間から二振りの剣が時折覗く。華やかな都市からは明らかに浮いていた。その様を見た誰もが、旅人だと判断することだろう。
実際に、その旅人らしき人物は都市には不慣れな様子で、あちらに行っては道を変え、こちらに行っては道を変えと、さ迷っている。
しかし、とうとう目的地を見つけたらしい。行く手を邪魔するように阻んだ雲を突き抜け、ふらりと狭い路地へ下っていった。
道の先には、古びた民家があった。みすぼらしさを隠すように、庭には僅かながら赤い花が添えられている。
旅人は、何かを確信したように足を速めた。白い息が乱れ、霧散する。朝刊を配る青年の横を通り過ぎ、舗装されていない凸凹の道を突き進む。民家の前まではすぐだった。扉の前に立ち、ノックしようとする。
すると、その前に扉が僅かに開いた。
「誰だい?」
老婆の声が聞こえてくる。
旅人は、すぅっと息をついた。決意の眼差しがフードから見え隠れする。
「突然訪問してしまい、すみません。リリスさんのご家族の方とお見受けしますが、合っていますでしょうか」
発せられた声は少年のものだった。
「お入り」
老婆はその問いに返すことなく、ただそう告げると、家の中へと入っていった。
少年はすぐに入ろうとはせず、周囲を一瞥する。老婆以外に人がいないことを確認すると、遅れて中へと続いた。
ギギギ……
扉が開まる音が、鈍く響く。
大きな木のテーブルが中心にあり、周囲は五つの小部屋に分かれていた。どの部屋も扉が閉まっており、壁際には隙間がないほど戸棚や日用雑貨が置かれている。中央には暖炉もあり、火のぱちぱちと爆ぜる音がしている。その音が、どこか物寂しい。
老婆はテーブルに向かってゆっくりと歩いている。
「あ、あの……」
「お座り」
テーブルの前には四人分の椅子がある。元々は四人家族だったのだろう。
「お邪魔します」
言われたとおりに少年が座ると、ようやく老婆と少年の視線が合った。フードで隠された少年の翠の瞳が、そこで何かを理解したように細められる。少年の瞳に映っていたものは、老婆の紫の瞳だ。
「どうしてわかったんだい」
家に入る前の問いに対する答えだろう。老婆の言うことを察したらしく、少年は理由を述べる。
「アマリリスが咲いていましたから」
戸棚には写真立てが置かれている。そこには母娘と思われる紫の瞳の女と少女が赤い花に囲まれて満面の笑みを浮かべていた。母親の耳には銀色の輪の形をした耳飾りが光っている。少女の手元にはそこで摘んだと思われる花があった。それは、この家の庭にあったものと同じアマリリスだ。雪のちらつくこの都市では、少々珍しい光景である。
「彼女の名前はこの花からとっていると聞いていました」
「いつまでフードをかぶっているつもりだい」
少年の発言に被せるような言い方だった。室内でも素顔を見せない少年の非礼を責めているようにも受け取れる。
「あ、あの……」
言い訳を述べようとする少年より先に、ばっさりと老婆は言い切った。
「あの子は異能者として異能者施設に連れていかれた。あんたがあの子の名前を口にするということは、そういうことだろうさ」
少年は押し黙った。沈黙が暫し、両者の間に訪れる。
先に動いたのは少年だ。観念したように、ゆっくりとフードを外してみせる。
艶のある翠色の髪が零れていくにしたがって、老婆の口から驚きの吐息が零れた。恐らくそこまでの想定はしていなかったのだろう。
「ほぅ。あんた、まさか『龍族』なのかい。絶滅したと聞いていたのにねぇ」
そう、少年の耳は普通の人間のものではなかった。鱗にびっしりと覆われた耳が、誰の目にもその異様さを映し出す。翠の宝石のような瞳もただ美しいだけではなかった。よく見ると、縦に長い瞳孔は、獣のそれだ。
「実は、これをお渡ししたかったのです」
少年は自身の話題を避けるように、ローブの下に隠していた荷物を取り出した。灰色の布に包まれている小指ほどの大きさの物である。
布をめくると、銀色に光る耳飾りがその姿を現した。環の形をしたそれはよく見ると、アマリリスの絵が刻まれている。
「母の形見だったと聞いています」
テーブルから乗り出した老婆に、耳飾りを手渡す。紫の瞳から涙が一筋零れる様を見て、少年は視線を落とした。
「リリスさんは、僕たちの前ではリアと名乗っていました」
「そうかい」
「リリスさんは……」
続けようとして、口ごもる。一体何から話せばよいのか悩んでいるようだった。老婆が少年の言葉をじっと待っていようと、少年の決心はつかないようだ。
実のところ少年は、少女が亡くなるまでのことを老婆に伝えようとしていた。そのために彼女がどれほどの傑物でどんなに周囲に良い影響をもたらしたかについても話すべきであると考えていた。しかし、実際のところ、最終的な彼女の行いは決して褒められるものではなかった。どう話したらよいものか、言葉選びも含め悩んでいたのだ。
「あんたはこうして足を運んだんだ。覚悟はとうに出来ている。話してごらん」
老婆の声に促され、少年がようやく重い口を開く決心をする。
「……リアはいろいろなものを抱えていましたが、決して弱音を吐きはしない強い人でした」
ぽつんぽつんと、とりとめのない話を続けていく。
老婆は話の途中、一切口を挟むことはしなかった。ただ、一言一言を受け止めて聞いている様子である。少年の語りを一通り聞き終えても、絞り出すような声で「不孝者たちだよ、全く」と、それだけを口にするのみであった。
老婆の手の中で、耳飾りが暖炉の火から零れた僅かな光を浴びて、きらきらと光っている。それを眺め続けていた少年が顔を上げたとき、老婆の瞳から既に涙が消えていた。
「ありがとうというべきなのかねぇ。その身でここまで来るのは無理があっただろう」
この都市には異能者や龍族を捕え次第、彼らを連行する役目を負った兵士がいる。捕まってしまえば、命の保障はない。
「仲間には迷惑をかけてしまったかもしれません」
残してきた者たちを想う発言とは裏腹に、少年は苦い顔をしている。仲間に対する後ろめたさが表情に出ていた。
「港へお行き」
そこに、老婆の助言が入った。
「ちょうど心配したお仲間が飛行船に乗ってやってくるだろうさ。大丈夫。あそこはひらけているから、遠くからでもすぐにわかるだろう」
少年は思わず腰を浮かす。
「何故、僕らの仲間が……、飛行船に乗っているって……」
周囲を警戒するように、視線が部屋中に忙しなく移る。それが収まると、老婆へと戻った。この家には無力な老婆しかいないことを改めて察した様子である。
そうした少年の動きを観察していた老婆は、あくまで淡々と昔を振り返り始めた。
「あの子……、リリスは、自由に体の形を変えられる特殊な異能の持ち主だった」
老婆の語りは続いていく。
「あの子の母親も、そうだった。目立ったんだろうねぇ。あっという間に捕まっちまったよ」
写真立てに映った満面の笑みは、既に存在しない。老婆の悲しみの深さに警戒心が和らいだのか、少年は椅子に座り直した。
「けれどね」
老婆の話は、続いていく。
「どういうわけか、私の異能は見つからなかった。未来が読める、この異能はね」
少年が少女以外に見た二人目の『異能者』だった。
異能者とは、不思議な存在だ。見た目は人となにも変わらないのに、ある者は癒しの力に長け、ある者は炎を自在に操ることができる。それだけではなく自分自身の肉体を獣に変身させることができる者や、はたまた未来を読み取る力がある者もいるらしい。そこに法則性はあるのだろうか。
「あんたには、どうやらあの子以外にも助けを必要としている子がいるらしい」
老婆の未来を読む力は続いている。
「助けておやり。あの子はきっと、鍵になる」
含み笑いで、「あんたにとっては大変かもしれないがね」と付け加える。
「その子というのは……」
「女の子だよ。私には、ずっと……、泣いているようにみえるねぇ」
当時の少年には、その人物が全く想像できなかった。
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