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カルタータ  作者: 希矢
第七章 『日常は終わりを告げる』
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その195 『力』

 魔物が再び迫ってきている。額に傷をつけられたことに怒りを覚えたようで、その目が血走っていた。

 イユは自分の膝に力が入らなくなっていることに気が付いた。崩れ落ちそうになったところで、何とか半分以上溶けてしまった手すりに摑まる。諦めたくなかった。それなのに、目の前には絶望が広がっていた。突然現れた人の手には余る脅威を前に、誰であっても勝ち目がないのだと打ちのめされる。

 イユの頭に、セーレの船員たちの顔が浮かんでは消えていった。リーサがイユのことを案じていた。守れない自身の非力さに打ちのめされる彼女に、再び同じ思いを味わって欲しくなかった。でも恐らく、セーレは丸ごと魔物に食われるのだから、きっとそんなことを考える余裕もなく逝けるだろう。

 そう考えたせいか、次に浮かんだヴァーナーが、だからお前のことが信じられないのだと怒りの表情で睨みつけてくる。

 そのあとに淡々とした様子のレッサが浮かび、今の命に見切りをつけて、やけにさっぱりとした様子のクルトが浮かんだ。見張ってやるって言っただろうとレンドが叱咤し、幻滅した様子のラダが浮かぶ。その顔がずきりと、イユの心に突き刺さった。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。イユは再び魔物を見据える。暗示にかかっていた頃ならばきっとこんなところで迷うこともなかった。ただ、自分だけが生き延びるその方法を求めて、必死に知恵を振り絞っていたはずだ。しかし、今のイユに生きることを強制するそれはなかった。

 だから、気づけたのだ。この脅威のなかで魔物に魔法を放つことのできるリュイスを縋った。あのような力を欲した。それで自然とリュイスを見やったところで、イユはそれを感じ取った。リュイスを取り巻く風の流れが、躊躇うように揺れていたのだ。

 まさかと、イユの口が考えるよりも前に開いていた。

「リュイス。ひょっとして魔物に放つ魔法も、セーブしているの?」

 呟きながら、その考えにありえないと叫びたくなった。相手は魔物なのだ。それに向かって魔法を放つことに、なにを躊躇う必要があるのだろう。威力を抑える理由は、そこにはない。

 しかしその時、リュイスは、はっとしたようにイユを見返したのだ。

 それを認めたイユは、自分の頭に血が上るのを感じた。

「馬鹿じゃないの!喰うか喰われるかというときに、躊躇うことなんて何もないわ!暴発が起きようが起きまいがどっちになっても、ただ喰われるより万倍もマシよ!」

 矢継ぎ早に、文句を言い並べる。そうしながら、イユは、中途半端に漂っているその力がリュイスの拳にあるのを見てとった。リュイスにはあっても、イユに躊躇う余裕などはない。すぐに、リュイスの手を掴む。

「イ、イユ?!」

 リュイスの驚いた声が上がる。

 イユはそれを、「ほら」と魔物を見据えさせることで、制す。リュイスの感情に構ってはいられなかった。

 魔物の顎がいよいよセーレの目前へと迫っている。イユが怒鳴っている間も可動翼を動かすべく船員たちが奮闘しているが、あまり距離は稼げていない。レパードも絶えず魔法も放っているようで、稲妻が周囲を走っている。それが何度も魔物へと炸裂しているのだが、それすらも殆ど足止めにはなっていないようだ。

「ちゃんと集中して、全力を引き出すの!」

 イユの声に合わせて、躊躇っていた力がリュイスに集っていく。暗雲に向かって風を放った時よりも早く、その力が周囲を巻き込んでかき集められる。立っているのもやっとの風が、二人の間に殺到する。

 イユの髪も、リュイスの服も、風に合わせて乱れ飛ぶ。その中で、唯一かき乱されていないのは、二人の繋ぎ合った手だった。

 イユは目を細めながらも、リュイスを見やる。リュイスもまた、ちょうどイユの方へと向いたところだった。

 リュイスの翠色の瞳が、空からの光を浴びて煌めいている。きっと、リュイスの目にもイユのハシバミ色の瞳が同じように映っているのだろう。

 イユはそれに大きく頷いた。ここで魔物を退けられなければ命はない。だが、その時は何故かそんなことすら考えなかった。ただ、力を目の前のでかぶつへと、ぶつけることだけに集中していた。

 再び、前へと向き直った二人は、魔物を見上げた。龍さながらの容姿が、払われていく雲の間から飛び出て、まるで神がここに降臨したかのようだった。その口が再び、開かれていく。

 魔法を先導するように、一陣の風が二人の間を駆け抜ける。

「さぁ!」

 魔物がまさにセーレを呑み込もうとする。イユたちのいる場所が、魔物の影に覆われていく。牙がすぐ上に見え、その喉仏が視認できる。

 その瞬間、集った魔法がリュイスの手から放たれた。それは今までに味わったことのない、強風だった。嵐の中を駆け抜けるのともまた違う、切り刻むような風が不思議な余韻を伴って、イユたちの目の前で弾けていった。

 イユも、魔法を放った本人も、あまりの風につんのめった。かろうじて二人で支え合って、事の成り行きを見守る。

 目の前には、変わらず魔物の牙があった。赤い舌が覗き、その奥の喉仏もそのままだ。始めにリュイスが放った魔法に比べ貯めた時間が短かったからか、一見すると大きな傷も見受けられなかった。

 あぁ、ダメだったのだ。やはり、これほど大きな魔物を前にしては、イユたちであろうとも、ろくに傷をつけることもできなかった。全力を出し切った。けれども、敵わなかったのだ。

 そう自覚したが、不思議と恐怖はなかった。手に伝わるぬくもりに、相変わらずリュイスの手は大きいなと、場違いな感想を抱いた。

 それから、暫くしてイユはようやく違和感を抱く。終わりの時がいつまで経っても、やってこないのだ。

 魔物は大きな口を開けてイユたちの目の前にいる。その口から覗く鋭い歯も、舌も、変わらず全てが見てとれる。それなのに、まるで時間が静止したようにそこから先の動きがない。本来ならば、あっという間にセーレごとこの魔物の口の中に呑み込まれているはずだった。イユたちのいる見張り台など、最も魔物の口に近かったのだ。すぐにぐしゃりと潰されて、粉々に砕かれているべきだろう。

 ところが、それがない。

 イユはそこで、あっと声を上げかけた。魔物の口の中に切れ目のようなものが走っているのに気が付いたのだ。一閃だけではない。風の魔法が放たれたその亀裂が、何十にもわたって、そこに線を引いていた。

 そして、イユは息を吸うのも忘れた。

 鉄よりも固い魔物の皮膚が、まるでバターでも切るかのように、刻まれていった。その舌が、牙が、爪が、髭が、眉間が、全てが鉄糸の的にでもなったかのように、次の瞬間、ばらばらの肉塊に変わった。

 ほどなくして魔物だったそれが、大地へと落下していく。頭上の牙も、風に煽られるようにセーレから離れて、空を目指した。

 最後に目の前に残ったのは、首から先がなくなった胴だった。斬られたその断面が、やけにリアルにそのピンク色の表面を見せびらかす。しかし、それも僅かに傾くと、ゆっくりと地面へと落ちていく。

 知らず、二人はその場に跪いていた。今、目の前で起きたことに、暫く呆然としているしかなかった。ついさきほどまで脅威でしかなかったそれが去ったことよりも、起きたことを理解するのに時間がかかった。ようやく意識すると、手が震えそうになった。握られたぬくもりを強く握り返して、どうにか震えを誤魔化そうとした。

 そこに、リュイスが、現状を理解しようとしてか、ぽつりと呟いた。

「イユ……、僕は躊躇っているように見えましたか」

 その言い方に、イユは逆に「躊躇っていたんじゃないの」と聞いていた。

 リュイスは、考えながら、ぽつりぽつりと、答えていく。

「どう、なんでしょうか……。僕自身は無自覚だったのですが……、ただ」

 リュイスはそこで握ったままになっていたイユの手をゆっくりと外した。

「ただ?」

 その動きにつられて、イユは手を伸ばそうとした。そこでリュイスと目が合う。その翠色の瞳が、蛇のように細い瞳孔が、不気味なほど美しく光った。知らず、イユの手が引っ込むほどだった。

「先ほどの魔法は、暴発した当時と同じくらいの威力だったと思います」

 はっとする。その瞳に映っていた、琥珀色の髪の少女が歪んでみえたのだ。

 イユには何も言葉が繋げなかった。


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