その194 『窮地』
「とにかく逃げろ!」
まさかさきほどまで抜けてきた嵐のなかに入るわけにもいかず、セーレは魔物を迂回するように、右手に向かって駆けだした。つまり、魔物の尾に向けて走ったのだ。
まだこちらの存在は悟られていないはずだと願う。あれほどの図体なのだ。イユの視界から右端に位置する場所に尾があって、中央に胴があるようだから、きっと左手に頭がいるはずだと予測する。ならば、魔物の視界にはセーレは入らないだろうと。
甘かったと思い知らされたのは、尾に近づいてからだった。尾が上から下へ、叩きつけるように振られている。その勢いが風に乗って、セーレを揺らしたのだ。
「なるべく離れろ!」
近づきすぎると、尾に叩きつけられるよりも前に、セーレが転覆しかねない。その危機感からの、レパードの指示だ。
イユは改めてあり得ないものを見る思いで、濡れた手すりを握りしめた。規格外の大きさとは、この魔物のことを指すのだろう。匹敵するものというと海獣だが、あれはまだ海に近づかなければ出てこない。それに、あの海獣の全長をつぶさに観察する余裕はなかった。だからか、これほどの畏怖は感じなかった。
今回は違う。イユたちは今、左手に魔物の尾を眺めている。雲間から現れるそれを見ながら、振らされる船の上で、じっと耐えている。
困ったことに、いつまで経っても尾からの距離が取れないでいる。互いに逆方向を向いて飛んでいるにも関わらず、一向にその姿が消えない。それほどに、魔物の存在が大きいのだ。
「右側に何かいます!」
風を制御し続けていたリュイスの声に、はっとした。今までずっと尾のある左側ばかり目視していて、右側についての確認を怠っていたのだ。
アマモドキか、嵐か、はたまた『深淵』か。警戒したイユの目に映ったのはしかし、灰色の分厚い雲が聳える光景だった。数分後には、あれに呑まれるであろうことは予測できた。
それから、イユははたと固まる。リュイスは嵐が来るとは言っていない。何かがいるといったのだ。雲を指していないことは明白だった。雲ならば、『ある』というだろう。『何か』でもない。
「う、そ……」
気づいてしまったのは、灰色の雲間から空色の何かが光ったからだ。
あり得ない。本日二度目の感想が、イユの口から零れた。
それは、雲間から現れた。吸い込まれそうなほど深い、獣の目だった。はしばみ色のそれが、セーレを見つめていた。その瞳だけでイユの身長ほどはあった。そして、次に雲間から覗いたのは、その空色の魔物の大きく開いた口だった。そこから吐き出される息が、どんどん雲を払っていく。続いて見えたのは鱗に覆われた顔だ。鼻が見え、僅かな雲に隠されていた眉間が明らかになり、額が現れる。とうとう、その首元に覆われた神々しい毛までが目に留まった。
「おい、こっちは尾じゃなかったのか。なんで頭がここにある……」
レパードのその疑問に答えられる者はいなかった。
恐らく、魔物は大きな円を描くように自分の尾に向かって動いていたのだろう。そこに、尾の近くまできたセーレと出くわす形になってしまった。しかし、どうしてこの魔物がそんな動き方をしたのかはイユの至らない頭ではわからない。
ひょっとすると、この魔物は嵐のなかにも関わらず人間の匂いをその独特の嗅覚で嗅ぎつけたのかもしれない。それとも、リュイスとレパードの嵐を乱す魔法が気に触ったのかもしれない。理由は魔物のみぞ知るのだろうが、どのみちこうして出会ってしまったからには最悪なこと、このうえなかった。
標的を見つけて迫ってくる魔物に、セーレは勿論避けようとした。しかし、向きを変える時間的な余裕が残されていない。可動翼を展開しようとも、どだい無理な話だった。魔物は雲を味方につけている。不意打ちを食らったセーレに勝つ瀬はなかった。
顎がセーレを呑み込もうとイユの目前まで迫ってくる。先ほどまであった数分の距離など、魔物からしてみたらたったの一飛びだ。口の中から伸びる長い舌が、死を待つセーレを労わるようにちらついていた。
違いすぎる。イユの思考は唯一それだけを感想として抱いた。例えばこの魔物がレイヴィートやインセートに現れたら、そこにある家々は魔物が通るだけでなぎ倒されただろう。人など何人この魔物の腹に入れば、魔物は満腹になるのだろうか。こんな魔物を思えば、『異能者』だとか『龍族』だとかで人同士に差を求める人間が、あまりにもちっぽけに思えた。それほどに、魔物とイユたちは桁外れに違っていた。
人を超える存在を相手にした畏怖か、喰われる最期の瞬間への恐怖が原因か。体どころか思考まで固まってしまったイユには、それ以上のことが考えられない。逃げるとか戦うとか、それ以前の問題で、あまりの差を見せつけられて思考が抜け落ちたのだ。イユにはもう、最期を迎えるのをただじっと見ていることしかできない。
魔物の牙が見える。生えそろったそれは、意外なほどに美しく白かった。魔物はその牙をセーレに突き立てようとし――、
突如、セーレを守るように、青い光が迸った。
それを浴びた魔物が悲鳴をあげて、大きく仰け反る。開けていた口はセーレの少し上で閉じられた。
「今がチャンスだ、逃げろ!」
レパードのその声に全員がはっとしたように動き出した。
すぐさま、セーレが距離を取る。
先ほどの光は、レパードの魔法によるものだろう。イユは魔物を見据えながらそう考える。魔物はこの暗雲を寝床としているのか、雷に撃たれ慣れているのかもしれない。残念ながら、驚いただけで怪我を負ったようには見えなかった。
魔物が再び目を見開いて、セーレをその瞳の中へと収める。
その間も、セーレは逃げ続けている。翼をはためかせ、少しでも魔物と距離を取るために全力を尽くしている。
それでも、魔物との距離が離れている気は全くしなかった。何度も言うようだが、魔物が大きすぎるのだ。そのせいで幾ら離れようとしてもまるで距離を稼げない。
イユは慌てて周囲を見回した。何でもいい。武器になるものが欲しかった。全力で投げつければ、多少は魔物の気が逸れるかもしれないと、縋った。魔物を倒すどころか自身の力で傷つけることすら思いつかないほど、相手の巨大さに膝を屈していたことに、自分でも気が付いていなかった。それでも探し求めたおかげで、リュイスの様子が視界に入る。
リュイスは意識を集中させていた。風でセーレに追い風を与えるのではなく、魔物を見つめて一心に風を集めている。その拳が魔物へと向けられ、そして開いた。
その時、イユには何故だかリュイスの風が、その力の一端が、視えた気がした。
風が刃物となって魔物の顔面へと走っていく。危険を感じたのか魔物が目を閉じたところで、眉間に切り傷が走った。
この魔法をイユは見たことがあった。サーカスで、シーゼリアと相対する直前、魔術により苦しむジェイムとセレーナを助けるべく放った魔法だ。あの時は、檻ごとシーゼリアの手を一閃した。その威力に鉄の塊である檻が崩れたのだ。
ところが、同じ力であるはずのその魔法でも、魔物には微々たる切り傷を与えるだけで終わった。一体どれだけ固い皮膚を持っているのかと、もはや唖然とするしかない。
これだけの固い皮膚を他に切り刻めるものがいるだろうか。咆哮をあげる魔物を前に、イユは立ち尽くす。その時、頭に過ぎったものがあった。
「ブライトを呼んできて!」
伝声管にしがみついて、懇願する。
「ブライトなら、魔術でロック鳥を葬ったわ。ブライトに頼めば、あの魔物だって」
倒せるに違いない、そう続けようとしたイユの言葉を遮ったのは、レパードだった。
「だめだ」
その頑固とした物言いに、イユは理解ができない。イユの考えは間違っていないはずだ。レパードでもリュイスでも太刀打ちできなかったロック鳥を倒したのはブライトだった。それならば、今回も同じことが起きるはずだ。賭けてみる価値はある。
「どうして!」
レパードの返事は、至極あっさりとしていた。
「雨の甲板で、法陣は描けない」
がつんと頭を殴られた気がした。
血の気が引いている。そんな簡単な事実に、思い至らなかった。『魔術師』は完璧な存在ではないのだと伝えられた気がした。
考えてみれば、魔物は今目の前にいるのだ。ブライトを呼んで戻ってくる時間はそもそも存在しない。いや、仮に間に合ってもレパードの言う通り、雨の中でペンの類は使えない。血を使ったとしても濡れた甲板の上では、滲んで形にならないだろう。
確かに、雨に流されない方法もあるかもしれない。例えば、髪の毛であれば雨に落とされることはない。風の問題があるというのならば、甲板にナイフで直接切り込みを入れてしまうのも手だ。しかし、そんなことをしている時間が残ってはいないことは、誰の目にも明らかだった。




