その190 『疲労から』
「リュイス、一度休憩を挟むぞ」
嵐から7時間が経過したところで、レパードからそう伝達が入った。
「イユたち、交代する」
雨の中をものともせず、刹那が梯子を登ってくる。それを見て、イユとリュイスも顔を見合わせて頷いた。
「すみません、休みます」
見張り台から去る前に、落ちてきたアマモドキを蹴り飛ばすと、イユは梯子を先に駆け下りた。疲れの余り、頭の芯が痺れるようだった。それでも落ちてくるアマモドキを梯子にくっつくようにして躱しながら、甲板まで到達する。
その後で、リュイスが下りてくる。梯子に手を掛けた途端、意識が梯子に移ったのだろう。途端に、視界が暗雲に包まれた。その雲の間を縫って、稲光がセーレを横断した。瞬間、甲板内が淡く照らされる。
そのせいで、イユは見てしまった。雲の中に佇むぎょろっとした瞳の数々がそこにある。まるで天に居座る悪魔たちが、雲間からイユたちちっぽけな人を見物しているような目だった。否、上から見下ろすものだけではない。イユと同じ高さにも、取り囲むようにしてその瞳がイユを眼中に捉えていた。その視線に、イユという存在が焼かれるかと思った。それに、それは全てアマモドキなのだ。触れるだけで溶かされる魔物の群れに、戦慄した。
悲鳴を呑み込むようにし、イユは慌てて視界の中にいたその瞳を蹴り飛ばす。何体かが纏めて吹き飛んだが、同時に靴が焼け焦げた。
そのすぐ後、再び暗雲が晴れてアマモドキたちの姿も消えていく。代わりに見つけたのはリュイスだった。
甲板に膝をつくようにして崩れ落ちかけ、それでもなんとか右手を梯子に添えて支えている。頬にかかった翠の髪から水が零れ落ちた。その顔が傍から見ても白い。それなのに、リュイスはそこで声を張り上げた。
「休憩は取りやめます。ここで雲を払い続けないと、いくら何でも危険すぎます」
先ほどの暗雲を見て、考えを変えたのだろう。
それを聞いたミンドールが叱咤する。知らない間に休憩から戻ってきていたらしい。
「いいや、リュイス。君は休むんだ。この先は長い」
「しかし、この状況で休むのは……」
言いながら雲が再び立ち込めかけて、リュイスが振りかぶる。一拍遅れて風が雲を押しやった。
イユはアマモドキを蹴り飛ばしながら、リュイスに駆け寄る。リュイスも本当はわかっているはずだ。いくらなんでもリュイス一人で一日中魔法を使っていられるはずもない。ただ、この体力を奪う環境下がリュイスから判断力も奪っているのだとそう思えて仕方がなかった。
「口論の時間がもったいないでしょ!だから、問答無用よ!30分でいいから休むの!」
リュイスの腕を引っ張って走れば、先ほどの口論はどこにいったのかあっけないほどすんなりとリュイスが連れられて行く。なんだ素直じゃないかと思いながら振り返れば、リュイスが痛そうな顔をして引っ張られている。すぐに異能で腕を強く握りすぎていると気づいたイユはしかし、その勢いのまま船内に入り込んだ。途端に、雨の音から解放されて、静かな空間が出迎える。
廊下はあろうことか水浸しになっていた。その水が機関室のある地下階段へと流れていくのを確認してしまう。
「こんなところまで水が……」
呆然とした様子のリュイスの目をみて、イユはぎょっとした。その目がどこか虚ろでいつもの覇気が感じられなかったからだ。どうしてか異能者施設にいた頃の女の顔を思い出した。休憩は取りやめると言ったリュイスの発言が無謀以外の何物でもないと気づいたイユは、そのままリュイスを引っ張り食堂に入り込む。
「マーサ、タオルない?」
食堂に行けばマーサとセンがいる。彼らなら何かしてくれるだろうと思ったイユの前に、まず飛び込んできたのはリーサの姿だった。マーサは奥にいて、そこでマレイユにタオルを渡している。
「あるわ。すぐに使って」
リーサがそう言ってリュイスとイユにタオルを持ってくる。とにかく、体をこれ以上冷やしてはいけない。すぐに濡れた体を拭き取ったイユは、リュイスの衣服を拭く動きが遅いことに気が付いた。
「リュイス、大丈夫?」
「はい……」
返事は返ってくるが、ただの条件反射のようにも聞こえる。じっと見ていると、痛みにリュイスの顔が歪んだ。反射的に頭に手をあてようとしたことから、先ほどの腕を強く握りすぎたのが原因ではないと分かる。恐らく頭痛がするのだ。
リュイスの様子に気付いたのはイユだけではなかった。リーサが慌てて厨房から何かをとってくる。
「リュイス、これを口に含んで。お願い」
リーサが差し出したのは、チョコレートと白湯だった。すぐにリュイスをテーブルに座らせる。
「ありがとうございます……」
どんなときでも律儀に礼を言うのはもはや癖になっているとしか思えない。それでもチョコレートと水を口に含んだリュイスは少しだけ生気が戻ったような気がした。
「イユも補給は忘れないで。あなたたちは他の船員より外に出ている時間が長いから」
リーサがそう言ってイユにもチョコレートと白湯を渡してくる。あまり食べる気にはなれなかったが、それでもリーサの言うことだからと何とか口に含んだ。
それから、リーサが魔法石を持ってきてイユたちに握らせる。触るとほんのりと温かいあの石だ。以前はハンバーガーを温めるのに使ったが、まだ残っていたらしい。
マーサがやってきてイユたちに毛布を渡す。
さらに温かくなったところで初めて、イユは体が冷えていたことを殊更に意識した。
「いつまで休めるのかしら」
「30分」
答えたイユに、マーサたちが驚いた顔をした。
「ちょっと、それじゃああと少ししか休めないじゃない。ダメよ、体を壊してしまうわ」
「イユはもっと休んでも問題ないはずです」
そこに、リュイスが口を出す。この中ではどう考えても一番休まなければならない人物が、自分のことよりもイユのことを持ち出すので、内心呆れてしまった。
「私も行くわ。私には異能があるから疲れないもの」
実際は疲れを誤魔化して動き続けることができるだけだが、そこは言わないお約束だ。
「でも、本当のことを言うとリュイスはもっと休むべきよ」
「いえ、そういうわけには……」
リュイスの言葉に答えるように、船が上下に激しく揺れた。風に揺さぶられているのだと分かる揺れだった。リュイスの魔法なしに嵐の中を飛ばし続ける危険は、イユには十分に分かった。だからと言って、リュイスが魔法の酷使で倒れてしまったら元も子もない。
「それなら、せめてこれを飲んでいくと良い」
厨房からふらりとやってきたのはセンだった。手にカップを持っている。ゆらりと立ち上がった湯気から温かい飲み物を持ってきたのだと分かった。
リュイスが二度目になる礼を述べて、その飲み物を受け取る。茶色の液体が見えて、すぐにそれがココアだと分かった。
リュイスが最後まで飲み干すのを見届けると、センが納得したような顔をする。それから少しして明らかにリュイスがうつらうつらし始めた。
「寝ていていいのよ」
「いえ、そういうわけに、は……」
言いながらリュイスの意識が途絶えていくのが分かった。崩れるようにイユにもたれかかってくる。
「リュイス?」
その様子にさすがのイユも慌ててしまった。しかし、耳をすませば、すやすやと寝息が聞こえてくる。
「……薬でも盛ったの?」
このままイユが席を立てばテーブルから転げ落ちかねない。どうしようかと思っているところに、センがリュイスを抱えだす。その自然な所作に、イユは訝しんで聞いた。
「食べ物に薬を盛るのは料理人としては失格だが、やむを得まい」
恐ろしい返事が返ってきたので、眠ってしまったリュイスとは別にイユの頭が冴えてしまった。イユはセンたちが作った食べ物なら残さず食べている。リュイスみたいに意気地になると、薬を盛られるかもしれないと心の中で震えあがった。
「イユは休まなくても本当に大丈夫なのだな?」
センにそんなことを言われたら、イユとしては何度も首を縦に振るしかない。
「それなら、せめて無理はしないで。雨の中で補給が厳しいのはわかるけれど、水分も全然取っていないみたいだし」
水分は取りたかったが、取る時間もないほどだったのだ。とはいえ、そんなことを伝えたらリーサを余計に心配させてしまう。
「分かったわ」
イユはそう言うだけに留めた。
「30分経ったら起こして」
時間がもったいない。部屋まで戻っている暇もない。イユは壁際までいくと毛布にくるまってしゃがみこんだ。すぐに目を閉じて、意識を集中させる。アマモドキとの闘いは無傷では済まない。触れるだけで溶かす相手を何度も蹴っていたのだ。つま先が僅かだが沁みている。それを異能の力で治してから、イユは眠りについた。




