その19 『秘密(終)』
木の壁が左右を阻んでいる割には、船内は思いのほか広く感じた。高い天井からは、細い鉄の管が通路の先に向かって伝っている。点在する明かりは、窓が少ないからか外が明るいにも関わらず灯っている。
脂臭さと木の匂いに混じって、仄かな花の香りが漂ってくる。香水を撒いているのだろう。
途中何人かの船員とすれ違う。男が多いが、女もいる。イユのことがまだ伝わっていないのか物珍しそうな視線を向けられる。会釈もされた。
「汚いところで申し訳ないわぁ」
木の壁には時折傷こそついているものの、埃の類は一つも落ちていない。そうは言われるが、掃除は十分に行き届いていると思われた。
「マーサが掃除をしているの」
先頭を行くマーサにそう聞くと、
「私と……、そうね。数人でお掃除しているわ」
と、返答があった。
途中、何度も扉の前を通り過ぎた。足音や喋り声が聞こえたから中に誰かがいるのだろう。思っていた以上にここには人がいるらしい。
「そうだ。私ったら、お名前を聞いていなかったわ」
何度目かになる名前を述べる。
マーサは、「良い名前ね」と褒めると、少し考えるような仕草をする。
「ねぇ、イユちゃんはどんなお洋服が好きかしら」
「別に着られれば何でもいいわ」
返答すると、少し困った顔で振り返られた。
「それだとお洋服が用意しづらいわ。なんでもいいのよ。何か言ってごらんなさい」
そう問われれば、何か言わざるを得なくなる。
「……白いのは好きじゃない」
訝しむ顔をされたらどうしようかと思ったが、マーサはただただ嬉しそうに手を合わせているだけだった。
「わかったわ、白くないお洋服を用意するわね」
ころころとよく笑い、よく話す人だった。服の話題だけではない。髪の毛が綺麗だの、帽子が似合いそうだの、これから向かう部屋が汚いかもしれないだの、どれだけ話すことがあるのだろうと感心するほど一人で話している。
「ここよ」
そうして案内された部屋は、甲板から最も離れた船尾側にあった。扉を開いて先に中に入ったマーサに続くと、部屋の様子が視界に飛び込んでくる。
「狭くてごめんなさいねぇ」
こじんまりとした部屋だ。淡い木の色の壁紙に、つやつやとした光沢のある床は、そこだけを切り取ると船内とは感じさせない。そのうえ、白い掛布団が敷かれたベッドに、壁に固定された木のテーブル。天井まであるガラス扉の棚に、衣装棚と、充実している。
「十分よ」
あまりに綺麗に掃除された部屋は、まるでイユのために今日あつらえたかのようである。人が入ったことがないのか、過去に誰かが使ったとしてもマーサがいつ入ってくるかもしれない船員のために掃除を妥協しなかったのか、廊下と同じで埃の一つもない。
それに、よく見ればこの部屋は浴室までついているのだ。
「ずっと空き部屋だったからひょっとするとシャワーがでないかも」
そう言いながらマーサが浴室へと入っていく。キュっという音がして、湯気のようなものが漂ってきた。
「えっ、水じゃないの」
マーサが顔をひょこっと出す。
「ちゃんとお湯もありますよ。魔法石のストックに限りがありますから、無駄使いはしちゃだめですけれどねぇ」
ずいぶんよくしてくれるものだと感心する。マーサの人柄だろうか。
イユはひとまず鞄をベッドの近くに下ろす。天井を見上げると、照明がゆらゆらと揺れている。蝋燭とは見るからに違う、装飾が施された品のある代物だ。この明かりも魔法石なのだろうか。
「シャワーは大丈夫そうね。まずはお風呂に入りなさいな。汚れてしまっているわ」
マーサが出てくる。
「ねぇ」
「はい?」
邪気のない笑みを浮かべて、イユの質問を待っている。
何を聞くべきか、イユは悩む。彼女もこの船の一員だ。質問によっては答えてくれないかもしれない。
しかし、疑問を疑問のままにするにはあまりに多すぎた。何故マーサだけ他の船員と違うのか。どうして、異能者が嫌われているのか。そもそもこの船は何なのか。
「前に何があったの」
質問の意図が伝わらなかったらしく、困った顔をされた。
彼女はひょっとするとイユが異能者であることを知らないかもしれない。だから親切にしてくれる可能性もある。それならば下手に口にしないほうがいいだろうと考え、慎重に言葉を選ぶ。
「皆の態度がおかしかったから……」
マーサの表情は変わらなかった。
「そう、皆の……。ごめんなさいねぇ、びっくりしたでしょう?」
そう前置きされる。
「以前ね。異能者の方が亡くなってしまったことがあったの」
リュイスや刹那の言葉を思い出した。確か変身することのできる異能者がいたと言っていた。そしてクルトも「また?」と聞いていた。
「あのときのせいで皆ぴりぴりしていてね。また、裏切られるのじゃないかって」
「どういうこと?」
マーサは言い淀む。答えてよいか悩んでいる様子だ。
「大丈夫よ、誰にも言わないから」
そう言われても、決心はつかないものらしい。
しかしじっと待っていると、迷いながらもぽつぽつと語ってくれた。
「……前にいた方ね。イクシウス政府に命令されていたみたいなの」
その言葉だけでも、衝撃だった。驚きを感じ取ったのだろう。補足するように、言う。「彼女に誘導されてね、危うく全員捕まりかけたのよ」と。
どうにかして切り抜けたらしい。詳細は語ってくれない。黙っていると、言いづらそうに続けられる。
「でも、最後は私たちにばれてね。それで……」
亡くなった。
そういうことなのかと、妙に腑に落ちた。それと同時に気持ちが沈んでいくのも感じる。暗い気持ちでいることがばれたらしい。マーサに明るく笑いかけられる。
「大丈夫よ。イユちゃんがたとえ異能者でも、きっと皆受け入れてくれるわ」
しっかり異能者であることは伝わっていたのだと気づかされた。
マーサがタオルと衣服を取りに部屋を出ていく。イユは一人、シャワーを浴びるために浴室へと入った。気分はすっかり憂鬱だ。衣服を脱ぎ捨てバスタブの中へ入る。カーテンで隠しながら、プライバシーがしっかりしていることを救いに思う。
おかげで、助かった。
お湯を出しながら、イユは初めてセーレに乗ったときのことを振り返った。
遠い昔のように感じるが、つい昨日のことだ。あのときは、兵士たちに追われていた。だから船員たちもイユをどうこうする暇はなかったのだろうか。
名乗ったとき、レパードの視線が気になったのを思い出す。あの視線には、「こいつもまた裏切るかもしれない」と、そういう意味があったのだろうか。
背中の撃たれた箇所がシャワーに叩きつけられる。温かさに埋もれているにもかかわらず、体が冷たいと感じる。せめて、安全なところへ行くまでの間だけでよい。どうにか彼らを刺激しないようにしないといけない。そう思うのだが……。
イユは左肩を見やった。そこには、大きな翼を柄から生やした剣が地面に突き立てられた紋章が施されている。イクシウスの国章を表す烙印だった。そしてすぐ下に、文字が刻まれている。
「IYU169301」
正直、今までは運が良かった。重傷だったのは背中から撃たれたあの傷だったし、腕を掠ったときも体中を蝙蝠に噛まれたときでさえこの位置まで皮膚を見せることはなかった。これからも、この調子でいかなくてはならない。
水の叩きつける音が世界を支配する。
ただいまからこの烙印は、絶対に見られてはいけないものになった。




