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カルタータ  作者: 希矢
第七章 『日常は終わりを告げる』
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その187 『深淵から轟く咆哮』

 さあっと、イユの顔から血の気が引いた。ただでさえ雨で冷えきった体が、凍えている。こんなところにとんでもない罠が配置されていることに、ただただ驚愕した。もし、このまま吸い込まれたらどうなるのだろう。以前の話では、『深淵』の先に行って帰ってこられたものはいないとのことだった。それは、この闇に囚われて、帰ってこられなくなるということだろうか。それともこの闇自体が圧倒的な力を持っていて、入った途端に噛み砕かれて塵も残らなくなるのだろうか。闇をじっと見つめるも、返事は返ってこない。

 幸い、船は闇に呑まれる前に、右への旋回に成功する。リュイスが雲を払ったおかげで早めに気付き、対処ができたのだと痛感する。それから、イユは思い当たった。まだあるのかもしれないという、単純な事実に。

 頭上を見上げて、絶句した。そのまさかだった。それに、雨が弱まるのも納得だ。雲の層があるはずのそこに、二つ目の『深淵』が、確かに存在していた。『深淵』が雲を吸ってしまったかのようだった。

「頭上にも『深淵』があるわ!」

 イユは残っていたアマモドキの目玉を払いのけると伝声管にしがみついた。その勢いで、伝声管をへし折りそうになる。

「リュイス、『深淵』は吸い込む特性がある。風の動きを追えないか」

 既にやっていたのだろう、同じく伝声管を取ったリュイスが答える。

「それが、風の動きがばらばらでどれがどれだか……」

 そもそも『深淵』がなければ、この地帯は嵐なのだ。風が一定方向に向かって吹いているとは恐らく言えないだろう。

「船長!東の空が明るいですぜ」

 クロヒゲの声が微かに聞こえてくる。恐らく航海室内での会話を拾ったのだ。雨が止み、アマモドキもいなくなったおかげで、イユの耳も聞き取れたのだろう。

 クロヒゲの情報をもとに、東を向く。雲の層がまだ分厚いのを視認する。だが確かに、他の雲や真っ暗な『深淵』に比べて、少しだけ明るい気もした。

「まだ山脈の3分の1も超えていないぞ?それなのに嵐が終わる……?」

 漏れ聞こえた情報は聞こえてほしくない類ものだ。ここまでで充分くたくたなのに、まだ3分の2以上も残っているとはなんたることだ。

 しかし、まずは明るいと言われた空だ。セーレはゆっくりとそちらへと向かって動き出す。まだ時折雷鳴が轟くが、それでも雨が止んだ今となっては随分静かだ。

 そう思ったのがいけなかったのか、イユの耳は今まで聞いたことのない唸り声を聞いた。

 それは、飛行船を揺らすような低く深い咆哮だった。ウォー、ウォーと山間をすり抜けて唸る風のような、それでいてどっしりと構えた魔物の遠吠えにも聞こえる咆哮だ。

「何?」

 はじめ、イユは新手の魔物かと思った。考えてもみれば、アマモドキがいたのだ。他の魔物がいても何らおかしくはない。ただこの咆哮の大きさから、アマモドキとは比べ物にならないほどの巨大な魔物であることには違いないと予想する。それこそ、セーレなど一呑みできるほどの相手だ。

 イユは周囲を警戒する。うっすらとした雲の層をはじくようにセーレが進み、そして突き抜けた。

 太陽の光が周囲に降り注いで、束の間視力を奪われる。すぐに異能で視界を戻したイユの目に入ったのは、真っ青な空、そして真っ黒なシミだった。

 空のキャンパスに、墨を何滴か垂らしたように、『深淵』が何箇所も存在している。見渡すだけで十は軽く超えていた。

 暗雲が渦に巻き取られていく。稲光が最期の悪あがきをするように、バチバチと爆ぜる。

 その残った雲を反対側から吸いとっているのも、また『深淵』だ。

 イユには渦たちが互いに雲を奪い合っているように見えた。いや、雲だけではない。渦が取り合っているものは風や雨といったその場にあるもの全てだ。奪い取られたそこを『深淵』がゆっくりと覆い尽くしていく。強奪し合った、その未来(さき)にある漆黒の世界が見えた気がした。

「まるで『深淵』の原ね」

 先ほどまでの嵐の中に比べれば青空が見えるだけましだろうか。そう言い聞かせようとして、できなかった。

 あらゆるものを呑み込む渦は、眼下の雲も、先ほどまでいた雲の層もおろか、そのうち青空すらも吸い尽くす。気づけば世界は渦の奪い合いによって、混沌と化す。世界が闇に覆われる日は、それほど遠くない。原と称したくなるほどの『深淵』が蝟集している、その事実がそんな恐怖を植えつけた。

 そして、その光景を裏付けるように、咆哮が船を揺らした。それは、先程聞いた声と同じものだ。しかし、その正体に近づいたせいか、比べようもないほど遥かに大きく轟いた。船がその咆哮を浴びて、ビリビリと軋んだ。

「この声は……」

 リュイスたちにもこの声がはっきりと届いたのだろう。異能を使ったイユと違い、先ほどまでは聞こえていなかったのだ。

 それにしても、この声は不気味だった。何より、声の出処がおかしいのだ。あちらこちらから、その音が響いてくる。すぐ近くにあるようでいて、どこか遠くから聞こえるようにも感じられる。それでも、大きさから判断するに、全体的に音に近づいたことだけは間違いない。

 そこまで考えて、イユはこの咆哮の出所に思い当たった。しかし、それはあり得ない。打ち消そうとしたが、何度も聞いているうちに、それは確信に変わった。

 この咆哮は、全ての『深淵』から轟いている。

「そんな『龍』は、確かに僕が……」

「リュイス?」

 振り返ったリュイスが、青白い顔をして突っ立っていた。風の魔法の制御を手放したのだろう。ふいに風が襲ってきて、セーレが揺れる。セーレが最も近い『深淵』へと引きずり込まれていく。

「ちょっと、リュイス!」

 声にはっとしたリュイスが慌てたように魔法を行使した。途端に、セーレを引きずるその風の流れが止まる。

 一体どうしたことだろう。イユは首を捻る。『龍』とリュイスは呟いた。それがこの咆哮の正体なのだろうか。

「こここそ、地獄と呼ぶべきでやすね」

 伝声管から漏れ伝わるクロヒゲの感想を、イユの耳が拾った。

 きっと、嵐の山脈にこれほどの『深淵』ができていることなど皆は知らないだろう。愚かにも踏み入ったイユたちだから知ることのできた事実に違いない。

 そう、この世界、レストリアは、人の与り知らぬところで、世界を『深淵』に喰われ始めている。イユはその事実を心のなかでそっと噛み締めた。『深淵』から逃れた僅かな風が、びとっとイユの肌にこびりつく。

「だが、俺らは休めそうだな」

 伝声管から聞こえてくるレパードの声を聞いて、イユは現実に引き戻る。『深淵』に覆われる世界の話は、未来の仮想のことだ。そんなことよりも、イユたちは今この時を乗り越えなければならなかった。

 切り替えたイユは、リュイスを振り返る。確かに、リュイスは休ませた方がよさそうだ。『龍』の咆哮を聞いてから、少し様子がおかしい。

「でも、リュイスが魔法を行使しないと『深淵』に引きずり込まれるわよ」

 イユの発言に、レパードが返した。

「いや、これぐらいなら羽でどうにかなるだろう。嵐に比べれば万倍は良い」

 決して良い光景とはいえない今目の前の景色だが、確かにこれのおかげで、別の悪夢、嵐は遠ざけられている。イユは納得することにした。

「リュイス、私たちも休みましょう」

「はい」

 リュイスの顔は、切り替えたと見えて先ほどより青白くはなっていなかった。しかし、返事には若干の疲れが感じられる。ここまでずっと意識を集中させ続けていたことを思えば、当然だろう。

「各員、適宜休憩をとるように。残りは『深淵』を潜り抜けていけるところまで進め。ただし『深淵』に近づきすぎるなよ?俺らも吸い込まれかねない」

 レパードの声を聞いている間に、梯子を上がってきたのはシェルだった。交代要員として控えていたところをでてきたらしい。

「ねぇちゃんたち、交代だって」

 準備の良い彼らに感謝しつつ、イユは頷いた。

「分かったわ」

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