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カルタータ  作者: 希矢
第七章 『日常は終わりを告げる』
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その186 『嵐の山脈』

 それから更に、数十分後のことだ。雲行きが変わった。

 風がイユに向かって吹き付けてくる。遠くで見えていた灰色の雲からは、青い稲光が走っている。そして、針の筵のような島にはあと数分したらたどり着けそうなところまで来た。

 高度は高くとってある。万が一風に飛ばされて、その針に船底をぶつけなどしたら途端に大穴が開く。その心配を少しでも防ぐためだった。しかし、高度は高くとればとるほど、寒くなる。

 両手を口元に持っていき、ふぅっと息を吐いた。かじかんだ指を少しでも動くようにしておく。

「リュイス、そろそろ頼む」

 伝声管からレパードの声が聞こえてきた。

「分かりました」

 リュイスが灰色の雲の方を向いて、意識を集中させだす。右腕を突き出した状態で、拳を握りしめて目を閉じた。

 途端に吹き付けていた風が優しくなり、リュイスへと集い始める。それが数分間ずっと続く。あの雲の層全てを払うというのだから、いつも以上に時間が必要なのかもしれない。この辺りはイユも恐らくリュイス本人もどうしてそうなるのか理解していない。それでも感覚で使ってしまえるのは、『魔術師』と異なる点になるのだろう。

 リュイスが握っていた拳を開いた。その途端、集っていた風が止まり、一気に灰色の雲へと飛んでいく。雲から流れる風とリュイスから発せられた風がぶつかったのが、雲の動きから分かった。

 雲が削られていく。その表現が、イユの頭では一番しっくりときた。リュイスの放った風の魔法が、めくるように雲をすり減らしていく。一直線に伸びた風の層へセーレが追いかけるように走りだした。

 しかし、雲の層は分厚いという表現では表せられないほど続いていた。削っても、切り開いても、雲の向こうの世界が見えない。

「……これが、限界みたいです」

 リュイスの言葉にはっとした。雲の中を突き進んでいた風がふいに消えた。雲が再び、覆うように開いた空にかぶさっていく。

「急げ!」

 伝声管から聞こえてきた声は、クロヒゲのものだ。レパードは既に魔法の準備に入っているのかもしれない。

 セーレは雲の層があったところまで走り、そして追い越していく。雲のない晴れ間を、必死にたどっていく。徐々になくなっていく道を必死に走る一隻の船に、イユはただただ少しでも先に進むよう願った。

 そこまで考えて、後方のことが気になった。振り返って、あっと声をあげそうになる。後ろでは既に雲が今まできた道を覆い隠していた。風の魔法で切り崩した道は先鋒よりも後方の方が消えるのが早い。早くしないと雲に呑みこまれる。

 イユはただただ手すりを力強く握ることしかできない。

 その時、イユの頬に、ぽたっと水滴が落ちた。

 はっとした。まだ船が雲に呑み込まれたわけではない。イユは空を見上げた。そこには既に青空はなく、真っ黒な雲が覆っていた。そこから、赤色の光が弾ける。

「すみません、上層の雲が分厚すぎて、先程と同じくくらいの時間を貰わないと」

 リュイスの言葉はそこで掻き消された。

 一瞬にして、その場に桶をひっくり返したかのような水が掛かったからだ。合羽にぶつかる雨音が、その場から音をかっさらう。空気が一段階下がった気さえした。

 その雨の世界を破り捨ててみせたのは、突然の雷鳴だ。衝撃で船が不規則に揺れさえする。針の山の一つに落ちた瞬間だけは、目に閃光が焼き付いた。

 そして、再びの豪雨。見渡しても、時折走る雷光を除くと、船より先の光景は、雲に覆われて何も見えない。セーレは嵐の世界に囲まれてしまったのだと、この時になって初めて意識した。強風だけはリュイスのおかげで吹き付けてこないが、それも時間の問題な気がする。

 イユは、嵐の山脈と呼ばれる場所の恐ろしさを、何も分かっていなかった。多少の魔法も、知恵も大して役に立たないという事実に、足が震えた。

 眼下では既に船員たちは必死の思いで雨水を外へと捨てている。その桶に水が入るのは汲んでいるからだけではない。ぼおっと突っ立っているだけでも、桶の水は瞬く間に溜まっていく。

 イユたちはきっと愚かだったのだ。自分たちは普通と違って魔法が使えるからと、たかをくくっていた。自然の前に、それは無意味だったことを今更に痛感した。

 そして、自然の中にあって蠢くものもあった。

 初めに感じたのは違和感だった。雨に混じって、ぼとっという音とともに何かが落下したのだ。それは一つでは収まらず、立て続けに落ちていく。

 そして、そのうちの一つはイユの頭上を狙っていた。

「っ」

 気配に気付いたイユは、頭上から落下してくる何かに向かって鞄を振り回した。

 そいつは、見た目だけなら雨と何も変わらなかった。透明なジェルのような生き物だ。イユの拳ほどの大きさなので、雨粒よりは遥かに大きい。大きさの問題を除いても雨ではなく生き物と分かったのは、その表面に大きな黄緑の瞳がついていたからだ。その瞳が、ギョロっとイユを睨んでいる。

 ぞっとしたイユはその瞳を避けるように鞄をぶつけた。

 途端に、ジュッという音がして、鞄の表面が焼け焦げた。

「なっ!」

 幸いにもその魔物は、イユからの衝撃には耐えられなかったらしく、船の外へと飛ばされていく。

 けれど、鞄の表面が焼け焦げたように、溶けているのは間違いようもない事実だった。

「上空の雲から、魔物!触ると、溶けるわ」

 伝声管に向かって、イユは叫ぶ。多少は聞こえていることを祈った。

 すぐにイユはリュイスの頭上へと落下しようとしていた次なる魔物に向かって桶をぶつける。カンッという小気味いい音が、唯一耳に入る。その音とともに、魔物が外へと飛ばされる。

 リュイスには魔法に専念してもらいたいのだ。魔物の対処は、イユの手だけで納めたかった。

「ーーーは、アマモドキだ!瞳を――!」

 伝声管からレンドの声が微かに鳴り響いた。雨音で聞き取りにくいが、重要な情報はかろうじて聞き取る。恐らく、『こいつは、アマモドキだ!瞳を狙え!』だろう。

 イユの先ほどの警告が聞こえなかったとしても、イユが欲しい答えがそこにあった。

 眼下でもこの魔物の対応に追われていることも同時に想像できた。甲板の様子が気にならないかと言えば嘘になる。

 しかし、イユは続けて落下してくるアマモドキたちの対応に追われた。瞳を狙って次から次へと桶で殴る。瞳に当てれば桶自体が溶ける心配もないようだ。それだけが幸いだった。

 とはいえ、豪雨が酷かった。イユの視界を覆い隠す雨が、アマモドキに味方をしているかのようだった。合羽など何も意味をなさなかった。既にイユの衣服は激しく動いた影響で、合羽の合間からびしょぬれになり、重い。それでも、雨に打たれないように逃げるという手は残っていなかった。

 イユの背後で、稲光が走る。それはセーレに向かって走ったかと思うと、突然の轟音とともにはじけた。稲光が何かにぶつかったかのように、その場に霧散したのだ。その衝撃で、船がたじろぐように前後に揺れる。態勢を崩さないようにしながら、イユは推測した。きっとこれはレパードの魔法が効いた結果なのだろうと。

 イユも負けじとアマモドキに蹴りを叩き込む。それから、外の様子が分からないかと、一瞬だけ空を仰いだ。数秒先に雲の塊が見え、それが翻って暗雲へと帰っていく。その先までは探れなかった。

 イユたちはそうやってこの嵐の中を奮闘した。いつまでそうしていたのだろう。体は異能を使わなくては鈍く重くなり、それでも誰も音をあげずにこの状況を耐えていた。幸い常に豪雨が降り続くのではなく、まるで波でもあるかのように、雨が弱まるときもあった。そんな時は伝声管から漏れ聞こえてくる音を拾うこともできた。どうも、船内も船内で大変らしく、機関室が浸水したらしい。しかし、幸いにも、機関部の浸水による飛行船の墜落の恐れはなく、どうにか難を逃れているようだ。

「リュイス、周囲と天井の雲を払えないか。俺の方は正直限界だ」

 そんな折、先に音を上げたのはレパードだった。レパードの魔法がないと、セーレは落雷の恐れがある。少しでもその危険性をなくすために、リュイスに風で雲を払うように頼んでいるのだ。

 雨音と集中のあまり聞こえていないリュイスに、イユは伝言する。

 リュイスが頷いてみせた。雨のせいでよく見えないが、リュイスも相当疲れているのではないかと懸念する。

「分かりました」

 リュイスはそう返事をすると、再び意識を集中させる。それに合わせて、セーレを囲っていた雲が少しずつ離れていく。

 頭上から落下してくるアマモドキを叩きつけながら、イユは空からの雨が止むのを感じた。落雷の危険があるから、頭上の雲も払ったのだろう。しかし、リュイスは数刻前雲の層が分厚いために払うのに時間がかかるといいかけたはずだ。それならば、偶然雲間に入ったのかもしれない。

「右に旋回しろ!急げ!」

 悲鳴に近いレパードの声が響き、イユは何事かと動揺する。見回して、気付いた。前方が真っ暗になっている。雨雲の類いだと思ってから、そうではないと気づく。風が吸い込まれるように、その闇の中へと入っていく。僅かに残った白い雲が闇へと溶けていった。

 イユは唐突に思い当たる。間違いようがない。これは、『深淵』だ。


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