その182 『闇夜に忍んで』
深夜のこと、ある影が足音を忍ばせながら通路を進んでいた。稀に床が軋む僅かな音が、静かすぎる通路に響く。その度に影は一度静止し、周囲の様子を探った。されど、寝静まっているのか、人の気配はその影以外はまるでしない。明かりも最低限しか灯っておらず、絶えず薄暗かった。
霧の深い地上にある以上、そこまで警戒をしていないことが予想された。その為、見張りも最小限の人数に留まっているのだろう。せいぜいが甲板に数人いる程度で、船内にまでは人の手はまわしていないはずだ。
影は突き当たりまで進むと、くるりと角度を変えた。その動きはしなやかで、迷いがない。
しかしその時、二つ向こうの部屋から何らかの音が響く。
影の動きが、ぴたりと止まった。一拍、二拍と置く。耳を澄ました影の耳に、再びその音が届いた。
ゴリゴリと、その音が継続して響いている。すり鉢に入れた粒上の物体を、すりこぎで潰す音のようだった。その音がする部屋は医務室だ。誰かが調薬しているらしい。よく見れば、扉の隙間から少量の光が漏れている。
影は音を立てないよう、手前の部屋の扉をゆっくりと開く。それでもキキッと鈍い音が響くのは避けられなかった。影は一度手を止めたが、医務室からの音は途切れなく続いている。
再び扉を開けると、僅かな隙間から光が差し込み、そこにいた伝え鳥へと届いた。
気づいた鳥が、小さく鳴き声をあげる。
それに対して、影が口元で人差し指を立てて「しぃっ」と合図をした。
「ペタオ」
小首を傾げていた鳥は、名を呼ばれたことに気付くと、迷うことなく影へと飛んでいく。そして、華奢な腕へと飛び乗ると、目まで細めて、影に顔を摺り寄せた。
影は左手に持っていた細く折り畳んだ紙を、ペタオの足へと結びつける。片手ではしっかりと結べないため、歯も使った。そのため、ペタオの嘴のすぐ下に影の頭が通る形になる。
ペタオがこすぐったそうに顎をあげる。通常、伝え鳥は相手の視線が自分より下にあると、上下関係が逆転して、中々言うことをきかない。しかし、ペタオの場合は違った。よく躾けられたこの鳥は、主人が結び終わるまで大人しく待っている。それから、結び終えたことを確認すると、その紙が外れないことを示すためにわざと腕の中を歩いてみせた。安定しない細腕の上で、爪を極力立てないようにするという、鳥らしからぬ細やかな配慮すらあった。
知らない人がみたらよく調教されている鳥だと感心するところだろう。しかし、影はそれを見ても特に反応を示さない。むしろ時間が惜しいとばかりにくるりと反転すると、ペタオを腕に乗せたまま扉の外へと向かった。
扉を閉めた後、医務室の様子を探る。目で見る限りは変わらず、僅かに光が漏れているだけだ。音も、継続している。
息すら止めるようにした影は、甲板へと足を向ける。医務室の前を通らなくてはならなかったため、身を屈めながら慎重に進んだ。
ペタオも腕から離れず、ぴたりと静止している。驚いて飛び立てば、羽音が響く。それを主人が望まないのを察しているかのようだ。
すりこぎで潰す音は、影が進んでいる今も尚、継続して続いている。恐らく、影に気づいていないのだろう。
影は無事、医務室を通り過ぎると、すぐに甲板の扉へと手を伸ばした。ほぅっと息をつくこともない、どこか感情を感じさせない動作には、全く無駄がなかった。
ペタオはその時も事情を察するように、じっと大人しくしている。
甲板の扉がゆっくりと開かれる。音を立てないように、忍ばせて――、
「何をしているんだ」
声と同時に、明かりが灯った。
はっとして振り返った桃色のメッシュが特徴の少女と、黒髪の男の視線が合う。
少女の腕に乗っていたペタオが突然の光に驚いたのか、一鳴きした。
「こっそり手紙を書いて、一体どこに送るつもりだ」
黒髪の男はレパードで、先ほどまで忍んでいた影は、ラビリのものだった。




