その173 『大地に下りて』
「見えてきましたね」
先に気が付いたのはリュイスだった。望遠鏡を持っていないが、恐らく風の流れを感じ取ったのだろう。
イユも目を凝らして見渡す。
でこぼことしていた峰が、あるところを境にくっきりと見えなくなっていることに気づいた。恐らく谷があるのだ。
さらに近づけば、うっすらと木組みが見えた。
「風切り峡谷はどういうところなの?」
谷の間をいくつもの木の橋が跨っている。その木の橋の上を、雨に濡れないためにだろう、屋根のように白い布が覆っている。岩壁の中には、一定の間隔で凹みがあるものが見られた。じっと見つめれば、そこに扉があるのだと気づく。岩壁を使って造られた家と、木で組まれた土台、そして木の橋。これらの情報を統合して、イユはここが集落になっているのだと気がついた。
「世捨て人の集落なんて噂がある」
マレイユは望遠鏡を覗き込みながら答えた。
「『魔術師』もいるし、兵士も時折巡回しに来る。ここはイクシウスの一部だから。だが、ここに住む人々は、世俗から離れて暮らしているようだ」
イユには不思議な感じがしてしまう。
「世俗から離れるってどういうことなの」
マレイユは顎を手に当てて考え込む仕草をしてから、答えた。
「世の中の噂を気にしないようだ。例えば今回起きた国王の崩御のことも、彼らにはどうでもよいことだろう」
それはイユも一緒だとそう思ってから、心の中で首を横に振った。
イユたちは崩御の時期を狙って逃げたから、戦艦二隻の追尾で済んだのだ。その時点で、世俗を離れているとは言えない。
「そんなところに乗り込んで大丈夫なの」
質問を変えると、代わりにリュイスから返事が返る。
「大丈夫ではないですね。どこかに船を移して、そこから数人を送るのが良いと思います」
「あそこがよさそうだ」
マレイユの示した先は、森だった。集落の先に、盛り上がった岩肌がある。それを超えた先にある森だ。谷に住む人々がセーレを見つける危険はないとはいえないが、この霧だ。よほど近づかなければ見つかる可能性も少ないだろう。
着陸地点を見つけたセーレはすぐに向きを変えた。
着陸すれば、途端にじめっとした空気に混じった、緑の匂いが漂った。イユは船から顔を出す。視界の先に松に似た木が数本立っているのを見つけた。匂いの元はこれだろう。
「こちらブリッジ、全員この場で退避していろ。鳥を使って様子を見る」
レパードから声がかかる。
甲板を覗けば、ジェイクが鳥を飛ばす様子が見られた。ジェイクの腕に乗っているのは、鷹ぐらいの大きさの白い鳥だ。黒い嘴を開けて、「クウェッ」と一鳴きする。
以前イユが鳥で手紙を飛ばすと聞いて、浮かべたのは鳩の姿だった。とんでもない。大きさも形も、全く想像と違っていた。
「あの鳥って普段、どうしているの」
「世話係がきちんと世話をしていますよ。医務室の隣に、あの鳥の部屋があります」
「確か刹那がよく世話をしているね。ジェイクもあの鳥は気に入っていたようだが」
知らなかった。医務室にはいたのに、鳥の一鳴きも聞いたことがなかった。
「ペタオは夜行性ですからね」
イユの疑問を汲み取って、リュイスが答えを用意する。
「あの鳥はペタオというの」
イユの質問にマレイユが答える。
「そうだ。そう、名前をつけている。鳥の種類でいうならば、ペタオは伝え鳥という。手紙を運ぶのを得意とする種だ」
そのペタオが戻ってきたのは、ニ十分後のことだった。ペタオは何度かセーレの上空を旋回しながら、ジェイクの腕へと収まっていく。
「よしよし、偉いぞ。人はいなかったか」
ペタオはジェイクに頭を優しく撫でられると、どこか誇らしげに短く鳴いた。
「リュイス、イユ。下りてきてもらってもいいかな」
ペタオの様子から問題はないと判断したらしいミンドールが、イユたちに声を掛けた。
甲板へ下りたつと、早速ミンドールから指示が下りる。
「これからレパードたちが街に入るから、その間に水と食糧を調達できる場所を調べておきたいんだ。イユ、リュイス、ミスタの三人で任せてもいいかな」
珍しい組み合わせだと思った。今まで、ミスタと組んだことは実はあまりない。彼が普段夜番を担当することが多いせいだろう。
「分かったわ。でも、街に入るなら水や食糧を探しておく必要はあるの」
イユの疑問に、ミンドールは頷きながら答える。
「あるよ。風切り峡谷はひっそりしているからね。あまり大勢で調達に行くと目立つんだ。かといって、少人数で何度も往復するのも目がつけられやすい」
イユはぞろぞろと街に入る船員たちを想像した。これがインセートやイニシアならば目立たないだろうが、確かに小さな集落に大勢の船員が押しかけたら、たいそう目立つ。
そして、今度はレパードたちが何度も集落と森を往復する想像をする。集落に入る度、食糧を買い込むレパードの姿に、イユは肩を竦めた。これも確かに目立ちそうだ。
頷くイユを見て、ミンドールが満足したように頷き返した。そこに、ミスタもやってくる。寡黙な男だからか、近づいても口を開きはしなかった。
「それでは、早速行きましょう」
リュイスの声を合図に、イユたちは船を下りる。
地面に下り立つと、途端に湿気を含んだ霧が肌にこびりついてきた。それを鬱陶しく思いながら、イユは周囲を見回す。深い霧のせいで、左右どちらに進んでよいのか、よくわからない。
「霧が深いので、ロープを使いましょう」
リュイスがそう言いながら、腰にロープを結び付けてイユに渡してきた。
なるほど、これで互いに離れることはないわけだ。イユも結び終わるとミスタに渡す。
ミスタが結び終わるのを待ってから、リュイスが霧の中へと入っていった。イユはその翠の頭を追いかける。
「念のため、定期的に声を掛け合った方がいい」
後方からミスタの声が聞こえる。
寡黙すぎて一番いなくなったら気づかない人物だとイユは心の中だけで思った。
「こんな中で、よく鳥は何ともないわね」
「ペタオにも厳しい環境だと思います。ただ、ペタオには街とこの森の間を中心に調べさせているので、ここほど霧が深くないですよ」
つまり、この森の中の霧が最も深いと言いたいらしい。
「人間の方が、厄介な霧の中を探さないといけないなんて」
鳥の目の方が優れていそうなのだから、鳥に働かせればいいのだとイユが愚痴ると、リュイスの苦笑いが聞こえてきた。
「イユの目なら、どうにかなりませんか」
残念ながら視力をいくら伸ばしても、霧という障害の前には無意味だ。
「無茶言わないでよ。それを言うならリュイスの魔法でどうにかできるでしょう」
リュイスの魔法なら、雲や霧を風の力で追いやることもできる。それを指摘すると、すぐに返事が返ってきた。
「できなくはないですが、実を言いますと、レパードに力を温存しておくように言われていますので」
その言葉にイユは気がついた。レパードは再びイクシウスの戦艦に襲われた場合に、リュイスの魔法が必要だと考えているのだろうと。
「船の上でも霧を払わなかったのはそういう理由もあったわけね」
それならば、イユとしても納得だ。いざというときに魔法が使えないでは困る。
「そうですね。いつも払っていないというのも事実ですが」
「それ、やっぱりよくわからないわ。霧の範囲が広いからというのは分かるのだけれど、セーレのまわりの霧だけでも払えば、他の飛行船とぶつかる危険は変わるわよね?」
飛竜の都合より大事なのではないかと、気になっていたことをついでに聞く。
「実は昔、風の魔法石で霧を払おうとした飛行船があったという話がありまして」
その指摘にイユは更に気がつく。リュイスの魔法も、魔法石で同じようなことを実現できるのだという事実にだ。つまり魔法石さえ用意できれば、リュイスの負担を軽くできる。
便利だと思ったが、それにレパードたちが気づいていないとも思えない。恐らく、魔法石は高いと言っていた記憶があるので、風の魔法石を買う余裕まではないのだろう。
「風切り峡谷の人々に反感を買ったそうです」
イユが考えている間に、リュイスの話は続いている。
「反感を?」
「風切り峡谷にとって、飛竜はとても大切な生き物です。だから、霧を払われてしまうと、飛竜の卵に迷惑がかかりますから」
集落にいる人々からしてみれば、他の飛行船にぶつかる危険よりも飛竜の卵の方が大事だということらしい。聞く話によると、集落の人々は、飛行船で出掛けることなど滅多にない。余所者事情で卵に影響が出る。それが、集落の人々にとっての何よりの問題なのだ。
「なるほどね」
「そういう話があるから、下手に刺激しないため、魔法は全く使わないようにしているんです」
説明を受けてイユは納得する。ここまで聞くと納得がいった。そして、同時に世捨て人などという集落に住む人間の特徴を鑑みる。これは直感だが、なんとなく面倒そうな気配がした。
それから、ふと気が付いて口を出す。
「ちょっと、声を掛け合えっていっていたけれど、ミスタは全然話さないじゃない」
確かにミスタの要望は声を掛け合うことで、こんな風に話をすることではないはずだ。しかし、あまりにも無口なままではいなくなったかどうか判断がつかない。そう思って、イユは口を開いたのだ。
ところが、ミスタから返事らしい返事がない。
一瞬不安がよぎったが、口の利き方が悪かったかもしれないと、イユは思い直した。めったに声を出さない男なのだ。今のイユの言葉で、返事をしろという風には受け取らなかったのかもしれないと。だから、イユは改めて確認した。
「ミスタ、いるのよね?」
しかし、返ってきたのは沈黙だ。
「ミスタ?」
訝しんだリュイスの頭が止まる。イユもそれに合わせて静止した。
「まさかだけれど、はぐれないように気をつけろっていったそばからこれなわけ?」
イユは振り返りながら、目を凝らす。だが霧が深すぎて少し先の様子も全くわからない。
「……ミスタが心配ですね。戻りましょうか」
「その必要はない」
イユは、あっと声をあげた。霧の中から、ひょっこりと見覚えのある姿が現れたからだ。
「ミスタ!」
イユの目では、ミスタがらしくもなく、口の端を持ち上げた様子すら捉えることができた。
「少し遅れただけだ。問題ない」
一体どの口が言うのかと言ってやりたくなったが、追及は控えておいた。というのも、ミスタは続けて言ったのだ。
「こっちに、それらしい水場があった。ついてこい」
全くいつの間に見つけたというのか。今度はミスタが先導し、リュイスがしんがりとなって、歩き出す。
「これは、沢ですか」
ミスタの先導でやってきた一行は、地面を流れる僅かな水の跡を見つけた。川というほど大きくはない。岩をいくつか乗せてしまえば塞がってしまうような、そんな小さな水場だ。
だが、近づいたイユは気が付いた。
「生き物がいるわ」
その沢で、水を飲んでいるのは白兎だった。こちらに気付いたようで、慌てて背を向けて逃げていく。
「兎が飲み水にしているということは、飲める水かもしれませんね」
リュイスがそう言って、持ってきた容器に水を補給する。補給した水は、すぐに飲むことはせず一度持ち帰ってクルトに渡すらしい。クルトが成分を調査して飲み水にしても問題ないか調べるというので、イユとしてはクルトにはもう頭が上がらない。
「生き物がいるならば食糧も問題ないわね」
沢に来る動物を狩ればいい。兎の肉はさぞ美味しそうだと、イユはほくそ笑む。
「あとはセーレまで確実に来れるようにしておきましょう」
リュイスが腰に結びつけたロープを解いて、それを沢の近くの木に結びつける。
「なるほど。これでいつでもここにたどり着けるというわけね」
考えるものだとイユは感心する。このままロープの端をもって今来た道をたどれば、自然とロープの道ができるわけだ。今度からはそれをたどっていけばいい。
感心しているイユに、ロープの長さが足りたからできたことだとリュイスははにかんでみせる。
こうして無事に水を調達した一行は、リュイス、イユ、ミスタの順に帰路を行く。




