その163 『闇と光』
「ねぇちゃん。見てよ、雲が」
シェルの声の後で、イユも気が付いた。
途端に周囲の霧が晴れだしたのだ。代わりにうっすらと見えたのは、闇だ。
一時間、二時間と漂っていたにもかかわらず空はまだ暗いのだなと考えて、違うと気が付いた。夜の空にあるはずの星や月の光が何も漏れてこないのだ。
「レパード!すぐに船をひき返させて!」
切羽詰まったブライトの声が伝声管を通して聞こえてきた。ただならぬ様子に、皆が伝声管から次の言葉を待つ。
「『深淵』だよ!近づいたら、二度と光のある場所には出られなくなるって!」
『深淵』。それは、全く聞いたことのない言葉だった。だが、その言葉にぞっとする説明がついていれば、危機感に警鐘が鳴る。
「ねぇちゃん、『深淵』って何」
シェルもよく知らないらしく、質問をする。
「私が知るわけないでしょう」
それに返しながらイユは甲板を俯瞰する。可動翼を動かすために船員たちが集まっているのが目に見えた。船の両端の櫂は、何度見ても重そうだ。
果たして間に合うのか間に合わないのか、イユにはよくわからない。何せ、相手は深い闇なのだ。それの何をみて距離を測ればよいのだろう。空を見ているほど離れているのか、周囲の霧が晴れているからよほど近くにいるのか、判断がつかない。それだけに、不安だけが重くのしかかる。
「え、知らない?最近、世界各地で現れているっていう、黒い渦みたいなもの」
シェルの疑問の声を拾ったらしい、ブライトが答える。
「黒い渦?」
確かに目の前にあるのは、黒い渦ともとれる闇そのものだった。
「そう。中に入って出てきた人はいないって。それどころか、電波も音も光すら、全て吸いこまれるなんていわれているよ」
確かに、その闇は雲すらも吸い込んでいるように見えた。ゆったりとした流れだが、少しずつ霧が闇へと流れていくのだ。
だが、その闇を遮ったのは若草色の透き通るような光だった。船から薄い膜のような光が漏れだしたのが目に入る。可動翼である。
船の左右に二枚現れて、それはゆっくりと羽ばたきだす。背後が暗い為にその光は一際際立って、まるで常闇の世界に妖精が現れたかのようだった。
「とにかく、迂回だ」
レパードの指示に合わせて、船員たちが櫂を動かす。すると、右の羽が折りたたまれ、左の羽が大きく広がった。その羽は帆と同じように風の力を最大限に受け取る。瞬く間に、船は闇の渦から引き返す形をとった。そのおかげで視界に再び入った霧たちが、セーレを避けて闇の中へと流れていくのがより鮮明にわかった。
「……?」
イユはそこで、確かに何かの声を聞いた。それが何かわからないまま、時が流れていく。
「『深淵』は特に謎に包まれているよね。『深淵』から強い電波がでているとか、中に膨大なエネルギーがあるとか、徐々に世界中に広がって覆いつくすとか、いろいろな説がある。けれど、本当のところ、どうなのか知る人はいないよね」
『魔術師』はきっと、話したがりな生き物なのだろう。船員たちが黙っているのをいいことに、ブライトの補足説明は続いていた。
「ねぇ、『深淵』から何か聞こえる気がする……」
けれど、それが小さすぎるのだ。イユの耳をもってしても聞き取れない。
「あー、確かそういう噂もあるんだよ。大きいやつだとはっきり聞こえるみたい」
ブライトはそれが何の声かは口にしなかった。口にすることでだれかの集中力が途切れることを懸念しているのだということは、当時のイユには知る由もない。
「ただ、目撃情報によると海に近いところに発生している場合が多いかな」
「そういう大事なことはもっと早く言え」
レパードの辛辣な突っ込みを受けて、風の流れがふわりと変わった。
上へ上へと、船が上昇を始める。ブライトの言葉に嘘はなかったことは、再び霧に囲まれたことで実証された。
「でもまぁ、これは逆についているかもよ」
少ししてから、ブライトが再度補足を入れる。
「機械の船は、『深淵』が近くにいるとうまく動かない場合が多いんだよね。セーレを探すどころじゃないかも」
それは信じたくなる言葉だった。イユはシェルと交代できるから適度に休憩ができるが、リュイスやレパードは、ここまでの逃避行に疲れないはずがない。
「確かに、『深淵』とやらから離れても連中の動きは感じないな」
暫くしてから、ぽつりとレパードがそう呟く。ほっとしたのも束の間、視界の端を魚の尾ひれが掠めた。たとえイクシウス戦艦がいなくなっても、まだ魔物は潜んでいる。むしろ、魔法に意識を使っているのはレパードよりリュイスの方が長いはずだ。
イユはふと、初めてリュイスに会った頃、リュイスがもう魔法を使えないと言っていたことを思い出した。もっとも、イユの異能も集中力が尽きれば同じことだろう。けれども、普段のイユは、怪我が治るまで、或いは聞きたい声を拾うため、相手から逃げきる為、といった目的で異能を使っている。それは、一時的又は局地的な部分に用いることが多いためか、使えなくなるということを意識したことはない。だが、リュイスの場合は限界があるらしいと当時ぼんやりと思ったものだ。
そうなると、今リュイスが使っている魔法も例外ではなく、限界がくることになる。
そもそも数時間も人の集中力というものは続くものではない。気を緩めれば、魔物に襲われるという危機感がリュイスの集中力を維持しているのだろうが、相当神経を使っているはずだ。
イユはリュイスのことが心配になった。その心配の先には、自分たちの命もかかっている。戦艦がいなくなれば雲を抜けても問題はないはずなのだから、早く雲を抜けられないものかと、意味もなく周囲を見回す。
どうやら、レパードも同じことを危惧していたらしい。
「そのまま雲を突き抜けて様子をみるぞ」
声とともに、船はさらに上へと上がった。上空の雲が薄くなっていく。
ふいにイユは不安に襲われる。もし、雲を抜けた先で、またイクシウス戦艦が待っていたらどうしようと嫌な想像が沸き起こった。実際、いないとは言い切れないのだ。レパードの探知とやらが当てになることはこの数時間でわかっているが、戦艦がレパードの探知に気が付いて手を打ってきていないとはいえない。
もしくは『深淵』とやらの影響でうまく探知ができないだけなのかもしれない。また戦艦に見つかってしまったら、再び長時間雲原を浮かばなくてはいけない。リュイスの集中力を考えれば、それは難しいかもしれない。
次から次へと浮かぶ不安に、我ながら嫌気がさした。かもしれないことだらけで何もはっきりしない。
ただ船に乗って目だけを動かしているだけだからだと結論づける。自分から行動すれば、余計なことを考える時間はなくなる。それができない現状が、ただただ辛かった。
ふいに、上空が明るくなる。先ほどまでの『深淵』の闇でない、明るい光だ。それが見えたと思ったら、雲の層にぶつかった。衝撃で思わず目を瞑る。懲りずにセーレをつけていた魚が、残念そうに歯を鳴らす音が聞こえる。だがその音も一瞬だった。
初めに感じたのは、リュイスの魔法とはまた違う、ゆったりとした風だった。それが、イユの髪をなでる。その風に誘われるように、再び目を開ける。
すると、そこに待っていたのは、透き通った淡い世界だった。手を伸ばしても到底届かない、遥か遠くまで続く空の世界。その地平線の先が、薄っすらと明るい。そこから覗いたミルク色の光が、セーレに降り注ぐ。
優しい陽射しを受け止めて、イユは少しだけ目を細めた。
彼方に、無数の星たちが、微かに光を湛えている。その星たちを守るように隠す雲は、既に陽射しの色に染まっている。
明ける間際の淡い空。闇や雲の中に延々といた時間が、その世界に色をつけた。
「綺麗」
ありきたりの言葉しかでない自分が憎い。
「ほんと、絶景だよな」
シェルも同意した。
「チビたちにも見せてやりたいや」
シェルの話を聞きたがっていた子供たちだ。この景色を一緒に見ることができたら、さぞ喜ぶに違いない。




