その162 『危険と隣り合わせのなかで』
「船長!これ以上は船が持たないよぅ!」
ライムの声に「リュイス、もういい」という声が返って、ふいに上昇が止まった。風のあたりが急に優しくなる。幸いにも、大鯨は雲の層を食い破ってはこなかった。
ほっとするイユを叱咤するように、レパードが次の指示を出す。
「このまま風切り峡谷まで駆け込むんだ!」
すぐに船は一定の方角へと向かって動き始めた。それに合わせて風向きが変わる。
船が再び雲海を進む。風の魔法が切れぬ程度に、雲の中を突き抜けるように走っていく。
イユは、手すりを握りしめながらも周囲の様子を探る。いつの間にか手汗をかいていることに、今頃気が付いた。それもそうだろう。今日だけで、戦艦に魚の魔物に大鯨だ。今生きていることが不思議でならなかった。おまけにまだ安心はできないとくる。
「船を左へ転回させろ!急げ!」
気を引き締めると同時に、レパードから声がかかった。その余裕のない声に船員たちが大慌てで可動翼を展開させる。
イユはセーレの転回に合わせて目を凝らした。どこもかしこも霧だらけ。魚の魔物が時折見えるぐらいだ。しかし、イクシウスの戦艦は、先ほどまでセーレのすぐ近くにいたのだから、そろそろ現れてもいいはずだ。もし再び相まみえたらイユたちはどう対処すればよいのだろう。解決策が見えず、不安に取り残されそうになる。絶望が滲み出てくるのを必死に抑えようと、手すりを再び握りしめる。握られすぎた手すりにはいつの間にか、無数の爪痕が残っている始末だ。
「うぅ」
うめき声にはっとした。抱えたままだった少年の瞳が僅かに動く。
「シェル!」
思わず揺さぶる。
その衝撃か、シェルの瞳がゆっくりと開いた。
「あれ?ねぇちゃん、どうしたの?」
ぼんやりとした声に、脱力した。
「どうしたのじゃないわよ!あんたが、気絶していたんでしょうが」
イユの呆れ声に合わせたわけではないだろうが、セーレが突然がくんと下降した。
それで、一気に意識が覚醒したらしい。シェルが初めて、現状に気付いた顔をした。まじまじとイユの瞳を見てから、真っ青になったり真っ赤になったりをする。そして、「うわわわ?!」などと叫びながら、大袈裟にイユを振りほどいてみせる。
とって食らうつもりなどないのに、なんという態度だろう。呆れたイユは、逃げるように近くの手すりを掴むシェルを見て、ため息をついた。
その様子を見たシェルが、何故かほっとした顔をする。それから周りを見回して初めて、視界の先に自分の足の様子が飛び込んだらしい。今度は目を丸々とさせて驚いた顔をしてみせた。
「うわわわ?!この傷、いつの間に!」
その発言から察するに、どうもシェルは気を失っている間に魚の魔物に噛まれたようだ。傷の様子をみようとしたところで、今度は見張り台の様子が目に入ったらしい。あれだけ騒いだ反動か逆に落ち着いた様子で、イユに向き直った。
「……えっと、まだ雲の中?」
どうも飛ばされる寸前のことは覚えている様子だ。
まるで障害物を避けるように右へと曲がるセーレを見ながら、イユは頷く。
「そうよ。まだイクシウス戦艦から逃げているところ」
「……戦艦、近くにはいないみたいだけど」
シェルは既に望遠鏡で周囲を確認していた。そうこうする間に、今度はセーレが上昇する。
「見えないけれど、レパードにはまるで見えているみたいね」
このセーレの不可思議な動きは、レパードの指示が続いている証だろう。伝声管を使わないところをみると、急な旋回に必要となる可動翼の出番はないようだ。
「すげぇな、船長」
至極同感だった。これも魔法の類なのだろうか。探知機がどうこうとブライトが言っていたから、それを利用したのかもしれない。
ようやく落ち着けると思った。まだイクシウスの戦艦はやってくるかもしれない。いつリュイスの魔法が切れて、雲の中から魔物がやってくるともしれない。不安を煽る要素は山ほどあったが、それでも極度の緊張感から解放されて、心底ほっとした。何よりシェルが目覚めたのもある。一人で見張りをする負担がなくなったイユは、改めて息をつき、見張り台を壊したときに作った怪我を一通り直す。今まで自分の足にかまけている余裕などまるでなかったのだ。
シェルが「ありがとな」と呟いた。
見やれば、少年は望遠鏡で周囲を確認しているところだった。イユを振り返る様子などはない。それでも、イユの足の怪我の様子も踏まえて、そう呟いたのだろうと察することはできた。
「別に」
イユは船の下降の動きに合わせて、手すりを掴み直す。
シェルには孤児院の皆が待っている。シェルが無事でなかったら、彼らが悲しむだろうことは予想が付いた。だから、シェルが生きていてよかったと素直にそう思う。だが改めてなんて危険な仕事なのだろうとも考えるのだ。もしイユが『異能者』でなかったら、こんな危険な船に好き好んで残るだろうか。イユにはほかに選択肢がないのだ。だが、選択肢のあるシェルたちはこの船を下りてしまえる。ギルドに入ることは強制されていたとしても、セーレを選ぶ理由は、何もないのだから。
思わず首を横に振った。余計なことを考えてしまった。きっと、いくつもの危険が重なって疲れたのだ。見張りにはシェルがいる。今の間に、少し体を休ませよう。そう判断したイユは、手すりにもたれるように体を預けて、目を閉じた。
シェルもそんなイユを知ってか知らずか、何も言わずに望遠鏡を覗いている。
幸いなことに、暫くは何も起きなかった。リュイスも、レパードも意識を集中し続けていることが予想される中、イユは体と心を休ませることに専念できた。
一時間、二時間と、時は流れる。シェルとは交代で休みをとり、イユは休みの間に時折甲板を覗いた。
リュイスが意識を集中させているのが見て取れる。その近くにいるミンドールのほかに、先ほど壊した甲板を修理しているのがマレイユにジェイク、刹那だ。そして他の船員、ミスタにレンドがイユたちと同じように周囲を警戒していた。
動きがあったのは、それからさらに数時間後だ。伝声管から、「なんだ?」というレパードの言葉が聞こえた。先ほどまで的確に進路を指示していただけに、その疑問の声が不安を煽った。
「あいつらの気配がぴたっと消えやがった」
それは吉報なのか、凶報なのか。イユには判断が付かなかった。
よい捉え方をするならば、イクシウス戦艦はようやく諦めて帰ったのだ。だが、悪い捉え方をするならば、戦艦はレパードの魔法に気が付いて何か対策を打ったのかもしれない。もしくは、こういう場合も考えられる。戦艦は魔物に呑まれてしまった。その場合、敵が減って好都合と思うべきか戦艦を呑むほどの魔物に襲われる危険を危惧すべきか判断に迷うところだ。




