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カルタータ  作者: 希矢
第七章 『日常は終わりを告げる』
161/991

その161 『大鯨』

 まさかとイユは絶句した。そこまで奈落の海に近づいていたとは思わなかった。

 海獣はイユでも知っていた。奈落の海には恐ろしい魔物がいると、この世界レストリアの人間は皆、そう言い聞かされて育つ。その恐ろしい魔物を海獣と呼び、人々は決して海獣に近づこうとしない。海獣にはいくつもの種類があり、その中でも一際恐ろしいのが、海に近づいた船を一飲みにしてしまう、大鯨と呼ばれる生き物だとされる。万が一大鯨に出会ったら、すぐに上空へと避難しなくてはならない。逃げ遅れてしまった者は皆、その大鯨の口に呑まれてしまうのだ。

 その話は嘘ではないのだろうと、無意識に鳥肌のたった腕を服越しに押さえた。そして、乾いた唇を噛む。よりにもよってイユたちが目撃しているのがその大鯨だろうと、伝え聞いた特徴から判断せざるを得なかった。

 大鯨と思われる体がゆっくりと海へと帰っていく。それをセーレの船員たち一同は、固唾を呑んで見守ることしかできなかった。ここで動いたらどんな攻撃が待っているかわからないと、本能が告げていた。同時に恐怖がイユたち全員の体を絡めとっていた。

 鯨が海に帰るにつれ、徐々に月明りが戻ってくる。イユのいる場所も例外なく、月の光を浴びた。

 その光の恩恵で、イユは見てしまった。悲鳴が喉元まででかかって、慌てて口を押える。

 大きな瞳がぎょろっと覗いて、イユを捉えている。その瞳はもえぎ色をしていた。白目は僅かに血走っていた。それは獲物を捕らえようとする、血に飢えた魔物の目に見えた。

 それにしても、衝撃だったのは目の大きさだった。目だけで、イユの体ほどはある。

 幸いなことに目はすぐにセーレのヘリへと隠れ、そのままセーレ全体にも月明りが返ってくる。と同時に、鯨をはさんだ反対側にイクシウスの戦艦がいるのが見えた。

 大鯨に食べられてくれればよかったのにと、イユのそんな願いは、どうも叶わなかったようだ。

 思い出したように、いつの間にか空中で静止していたセーレが動き出す。イユもかなしばりが溶けたように、思った。逃げなければならないと。相手は戦艦だけではない。先ほどは運よく食べられなかったが、ここにいては、今度こそ大鯨の餌食になる。

「船長!」

 焦ったミンドールの声が伝声管から漏れた。

「上へ逃げましょう!」

 まだ魚の魔物を相手にした方がましだと思ったのだろう。ミンドールの思いに、イユは大いに同感だ。

 だが、そこにレパードの静止の声が入る。

「まだだ。もう少し粘ってくれ!」

 一体レパードは何を待っているのだと叫びたくなった。焦れたイユの視線の先には、鉄の爪が見える。あのイクシウスの戦艦は鯨を目にしながら、爪を放つ準備をしていたのだろうか。やけに近くにいた。

「右!」

 叫んだが、船員たちの動きが先ほどと違い鈍い。大鯨の衝撃に立ち直るまでの時間が、鉄の爪の侵入を許してしまう気がして、イユは、ぎゅっと手すりを握りしめた。

「可動翼展開!」

 声が響いたが、やはりこれでは間に合わない。翼の動きに合わせて、セーレが動き出す。

 しかし、爪がその間に迫ってきている。あっという間にセーレとの距離を狭めてくる。このままでは、セーレがまた捕まってしまう。

 だが、爪がセーレにかかることはなかった。

 その時、銃声とともに爪に向かって光が発せられたのだ。その光に軌道を僅かに逸らされた爪は、セーレのすぐ脇へと落ちていく。

 何事かとイユは見渡す。ただ、イユにはうっすらと見覚えがあった。魚の魔物に襲われた時に、一瞬見えた光だ。甲板を俯瞰して、理解が及ぶ。刹那が銃を構えた姿勢で止まっていたのだ。

(ラヴェンナの銃!)

 あの光は刹那の援護射撃だったのだ。確かラヴェンナは魔法石を買いにバザーに寄っていた。その時に話していた魔法石を応用した技術だろう。ナイフにびくともしない爪も、魔法石には敵わないのだと知った。それにしても魔物に鉄の爪と、一発で確実に命中させる刹那の銃の腕前は大したものだ。ひょっとするとレパード以上に手慣れているかもしれない。かつてナイフに愛されているとジェイクが話していたものだが、どうも刹那は銃にも愛されているようだ。

 だが刹那の銃の腕前をみて安心できたのは束の間のことだ。次の危険は、今度はイユが見ている方向と真逆で起こった。

 気が付いたのは風のおかげだ。突風に慌てて振り向けば、それが現れた。鯨ではない。イクシウス戦艦の前で爪をはじいていたセーレの後ろ側に現れたのは、雲上からだった。

 分厚い雲の層を抜けた反動で、僅かに船尾から霧が剥がれ落ちていく。鈍色の船体は、一隻目と同様、或いはもっとひどく魔物にやられたのだろう。ところどころに歯型がついている始末だが、今はそんなことも慰めにはならなかった。それに刹那の銃の腕前が神に愛されていたとしても、相手が戦艦ではまるで話にならない。

 もう一隻のイクシウスの戦艦の登場に、イユの顔は蒼白を通りこして真っ白になった。おまけにこの位置は、誰がどう見てもセーレを挟み撃ちするためのものだ。連中の意図をくみ取れば、そこに待つのは絶望しかない。

「船長!」

 悲鳴に近い声はミンドールのものだった。ここまで余裕のない声は、珍しい。しかしイユが叫んでいても、きっと似たような声音になったことだろう。

「全員、衝撃に備えろ!」

 レパードのようやくの合図に、何が起きるのかとイユはシェルを抱えて手すりへと摑まる。

「リュイス、頼む!」

 初めに起きたのは、雷鳴だった。突然周囲から青白い光が走ったと思ったら、その光と音が一斉に広がった。そして次の瞬間、下から上へと突き上げる突風がイユを襲った。

(何よこれ!)

 声に出している余裕はない。あっという間にセーレは再び雲の中を突き抜ける。今回は落下速度でなく、リュイスの魔法で上がっているからだろう。雲があっという間に巻き添えになって、消えていく。そこに巣くう魔物が泡を食って逃げ出す。

 イユは必死に手すりにしがみつきながらも、眼下、甲板の外に漂う波を視界にとらえた。その波が突如盛り上がって、蒼色の皮膚をした大鯨が再び空へとやってくる。大きく開けられたその口は、セーレよりもはるかに大きく、その歯は野生の魔物にしてはあまりにも綺麗に揃っていた。たった今自分たちがいた場所をその口が聳えている、その瞬間を目撃してしまった。

 一瞬見えたその光景だけでも、イユの体を凍らせるには十分すぎた。しかもその口はどんどん大きくなって、迫ってきている。消えてくれと、間に合えとイユは願った。その巨大な怪物を目の前にイユはあまりにも無力だった。『異能者』だろうが『龍族』だろうが、それは意味をなさなかった。こうしてしがみつくしかないイユたちには、ただただ祈る以外に何も残されてはいなかった。

 その誰に向けたかもわからずに願った祈りが届いたのか、幸いなことに、その光景は霧の中へと溶け込んだ。まるでそこには初めからなにもなかったように、白い霧だけが船の周りを覆う。

 だが、安心はできない。いつ、大鯨が雲の層すらも突き抜けて、セーレを呑み込もうとしてくるかと気が気でなかった。じっと睨み続けるが、その最悪の事態への想像は中々に掻き消えてくれない。


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