その160 『次なる障害』
(何?)
後方に漏れる光は、目を閉じていてもうっすらと感じることができた。そして次の瞬間、ぶわっと風を浴びたと思ったらイユの周りの空気が変わる。周りの白い霧が晴れ、雲を抜けたのだと分かった。
すぐにセーレの勢いが止まり、イユの体は見張り台へと収まる。
「こちら、航海室。全員無事か?」
伝声管は無事らしいと、音を聞いて思う。
イユはまだ握ったままだったシェルの手を放そうとし、そこで気が付いた。
「シェル?」
シェルの体をみてぞっとしてしまう。両足のところどころから赤いものが流れていたからだ。魔物に襲われたのだと、この時初めてイユは気が付いた。
しかも恐ろしいことに、本人の体がぴくりと動かない。イユは慌ててシェルを揺さぶった。だが反応が返ってこない。続いて傷を確認する。そこではじめて全てかすり傷の類だと気がついた。魔物の牙には触れたものの、食べられるところまではいかなかったのだとほっとする。
「シェルが風に煽られて気絶しているわ。……あと見張り台を少し壊したから」
そう報告しながらも、イユは再度心配になり脈を確かめた。顔は真っ青だったが、脈はしっかりしている。運が悪ければ足の一本や二本なくなっていたかもしれない。さらに運が悪ければイユが握っていたのは死体だっただろう。だが現にこうやって生きている。その事実に涙ぐみそうになった。
「甲板のメンバーもなんとか全員無事です。魔法が効く範囲内だったようで」
ミンドールの説明で、イユは甲板へと顔をのぞかせた。
リュイスが申し訳なさそうにイユを見上げてくる。
それで初めて、この中で一番悲惨な目にあったのが誰だったかを悟った。ひとまず全員無事だと知って、ふぅとイユは息をつく。落ち着いて息を吸うことすらできなかったからだ。
だがそれすらもほんの数秒しか許されなかった。風の動きが変わったように感じて、ふいに背後をみた瞬間のことだ。イユは見てしまった。雲を抜けて、セーレの後方へと下り立つ一隻の戦艦を。
僅かに残った雲が遅れて、戦艦からはがれていく。その隙間から覗かせる白銀のフォルムだけでも、セーレより遥かに大きいこともあり、威圧感を周囲にまき散らす。
「イクシウス戦艦が雲を抜けたわ!」
悲鳴をあげるように伝声管へ飛びつけば、伝声管越しに全員の表情が変わったのがわかった。ブライトの非難の声が聞こえてくる。
「ちょっと!探知機があるから、レパードの魔法で狂わせてって言ったじゃん!」
「うるさい!大体言うのが遅いんだ」
「まさか搭載しているとは思わなかったんだってば!」
レパードたちのやりとりに、口論しているどころではないとイユは焦る。まずはあの戦艦から距離を離さなければならない。
思いが通じたのか、セーレはすぐに走り出した。
しかし、同じ高度にいる戦艦が相手では話にならない。距離などあっという間に詰められるだろう。そうかといって、船の上には魔物の巣の雲があり、船の下には奈落の海以外もう何もない。八方塞がりな状態で、真っ青になる以外どうすればよいのかと、イユは問い詰めたい。
(魔法は?)
リュイスは甲板を中心に風の魔法を使うのに忙しいかもしれない。けれどレパードならば、戦艦に光を落とすぐらいできないのだろうか。そう考えて、先ほどのブライトの言葉を思い出した。レパードは何も航海室で指示を出しているだけではない。どうも魔法を使って何かをしているのだ。
「イユ、聞こえるかい?」
伝声管からミンドールの声が響いた。
「聞こえるわ。どうすればいいの」
ミンドールの声にすがりつくように、イユは伝声管を握りしめた。
「戦艦は乗り込むためにセーレの右か左に船を寄せようとする。だから、どちらの向きから爪がとばされようとしているのか教えてほしい」
そんなこと、教えられなければ気づきもしなかった。わかったと返事を返してから、イユは唐突に気づく。
「ねぇ、大砲を撃たれたらどうするの」
可能性は大いにあるはずだ。むしろ今まで乗り込もうとしてきたのが不思議だった。
「狙いはブライトだろう。連中はあわよくば生け捕りにしたいんじゃないかな」
つまり、大砲でセーレを木っ端微塵にしたら目的のブライトごと沈んでしまうので、大砲を撃ってくる危険は少ないと言いたいらしい。なんてありがたいことだろう。その配慮に涙が出そうになる。
イユは戦艦を睨みつけた。こうなればイユのやることは一つだ。
「セーレの船頭からみて、彼らはどちらにいる?」
右か左かそんな単純なことを答えるだけだ。けれど、イユの目には戦艦はセーレのすぐ真後ろにぴったりと寄り添っているようにしか見えなかった。
焦れるイユは、ありったけの異能を使って戦艦を観察した。そこでようやくイクシウス戦艦は、無傷でないことに気が付いた。月明かりを通して、白銀の体に赤い染みが飛び散っているのがわかる。また、魔物に衝突されたのか、ところどころ異様にへこんでいるようだ。船の上部に設置されている三門の大砲のうちの一つに至っては、砲門が潰れてしまっている有様だ。
そこまでしてまで、イユたちを追ってどうするというのだろう。『龍族』や『異能者』を見つけてしまったから、仕事として追わなくてはいけないのだろうか。さらにそこに指名手配犯までいたから、追う覚悟をしたのだろうか。どうしてもイユには命の危険を冒してまでする価値があるとは到底思えないのだ。
ふいに、イクシウス戦艦が速度を落とした。セーレに向いていた船頭が僅かに逸れる。
「右よ!」
イユが叫んだ声に合わせて、船員たちの掛け声が挙がった。
「可動翼を展開しろ!」
と、誰かの声が風に乗って聞き取れる。
その間に、イユは、戦艦から鉄の爪が飛ばされるところを目撃した。無機質の壁から僅かな切れ目が開いたと思うと、そこから爪が姿をのぞかせる。そして、そのままセーレへ向かってまっすぐに飛ぶのだ。
(来る!)
迫ってくる爪を前に、イユは固唾を呑むことしかできない。
その時、セーレが大きく動いた。その衝撃で、イユは手すりに思いっきり体をぶつける。次に体を起こしたときには、掴み損ねた爪がだらんと海へと伸びていくところだった。
「こんな荒業、何度もできやせんぜ!」
伝声管から雑音とともにそんな声が聞こえてくる。
「分かっている!どうにか持ちこたえてくれ!」
レパードは何をしているのだろう。文句の一つでも言いたくなったが、ぐっとこらえた。今文句を言ったところで事態は好転しない。イユはイユのできることをしなくてはならない。
「左からくるわ!」
戦艦が左へと傾くのをみてイユは再び叫んだ。
「可動翼展開!」との声が上がり、船員たちが一斉に動く気配がする。リュイスの風の魔法と合わさって、船は大きく向きを変えることができる。その魔法だけは、戦艦にもないセーレの取り柄だ。
イユはあらかじめ衝撃に備えた。そうすることで今度は手すりに思いっきり体をぶつけずにすむようにとの判断だ。おかげで、とんでもない光景を目に焼き付けることになる。
それは発射された鉄の爪がだらりと垂れ下がった瞬間のことだった。やった、今度もうまくいったと喜んだイユの目の前で、爆音とともに黒色の帳が下から上へと上げられていく。戦艦の姿どころか、空の色すら隠されていく。それに合わせて、月明かりを浴びていたセーレも影に隠されていった。見張り台にいたイユまですっぽり影に包まれていく。
イユは、初め何が起きたのかわからなかった。急に闇に包まれたのかと思ってから、そうではないと気が付いた。何故なら目の前に立ちふさがった色は、闇というには青すぎた。かといって空の青とは似ても似つかない深い色をしている。それは、夜の色のようだった。
それを意識した途端、突然の水飛沫が、セーレを襲った。
避ける間もなかった。顔面から一気に水をかぶって、イユは慌てて目を閉じる。
「きゃっ……!」
口にまではいった水に、予想外の味を感じて声をあげた。それから再び目を開けて、ようやく現実に気づいた。
目の前に聳えていたのは、先ほどの魔物なんて比でないほど大きな怪物の皮膚だったのだ。セーレ以上の大きさをもったそれは、水を弾くのかつるりとしている。
そして、それは、光すらも遮って、セーレの目の前にある光景を隠してしまったのだと悟った。
「海獣だ……!」
誰かの叫び声が響いた。その声は絶望を孕んでいた。




