その16 『方針』
「……イユ。イユ。起きて」
誰かが近づく気配を感じ、イユははっとして目を覚ました。意識が一気に覚醒し、瞬間的に誰かから距離をとる。視界が安定したときになってはじめて、目の前で小首を傾げる刹那を認識する。
蒼色の瞳が驚くように瞬かれるのを見て、バツが悪くなった。言い訳になるが、一人でいたときは、こうでもしないと兵士に捕まったり魔物に襲われたりする心配があった。癖なのだ。
「交代の時間?」
努めて冷静に取り直すように聞くと、刹那から頷きが返った。切り替えたのか、特に今のイユの行動には何も言うつもりはないらしい。
有難いと感じたところで、肩までかかっていた布に気がつく。一部地面へと落ちたそれを見て、布で包まって寝ていたのは自分だけだということに気が付いた。
リュイスを探すと、少し離れたところで横になっている。
「布、なんで私だけ?」
「イユが包まって寝たから」
まるで取り上げたみたいに聞こえる。寝る前の布のことを思い出そうとして、できなかった。どうも相当眠かったらしい。すぐに寝た記憶がある。あのとき全ての布を抱え込んで寝たのだろうか。
とりあえずと、刹那に布を渡す。
「時間経ったら起こす」
そう言われてから気が付いた。リュイスに布を掛けにいく刹那を引き留めて、聞く。
「時間って、どうやってわかるのよ」
ここは洞窟の中なのだ。淡い色を放つ岩壁に、時折聞こえる水の音。そして水の中にいる巨大な魔物。それしかない。
「感覚」
「わかるわけないでしょう」
怒鳴りたくなるところを小声で留めた自分を評価してほしいものだ。少なくともイユの感覚では朝の時間なんてわからない。
「冗談」
おまけに、全くの無表情での発言である。冗談とはもう少し笑みを携えて言うものだろう。
リュイスに布を掛け終えた刹那は、また腰布の隙間から何やら漁りだしている。
「これを使う」
刹那が取り出したのは小さな砂時計だ。
一体、あの布の隙間にはいくつの物が入っているのだろうと感心しながらも、地面に置かれた砂時計を覗き込む。上にたまっていた砂がゆっくりと流れ落ち始めたところだった。
「この砂が落ち切ったら、ひっくり返す。それを一回として、七回やったら起こして。そうしたら出発する」
「え?」
リュイスと交代ではないのかと、イユが質問をするより先に刹那が答える。
「リュイスの分、見張っといた」
心配だったのだろうか。刹那自身の寝る時間を減らしてまでどうしてそこまでするのだろうと不思議に思う。刹那までお人よしなのだろうか。
「過保護なのね」
「休まないと、倒れそうだから」
それには同感である。
「それに、私に睡眠はいらない」
「なに、それ?」
十分に休んだばかりということか。こうやって交代するぐらいなら最後までずっと見張ってほしい、とちらりと考えて刹那を見る。
どうやら会話を続ける気はないらしい。既に地面に横たわっている。
「ねぇ、最後に一つ」
刹那は寝返りを打つ形で、イユへと振り返る。完全に眠る態勢だ。
イユは砂時計を指差した。
「こういうのって、常に持ち歩いているわけ……?」
刹那はこくんと頷いて目を閉じる。
「布と武器と食料と砂時計は持ち歩く」
睡眠はいらないとはなんだったのか。次の瞬間、寝息が聞こえた。
静かだ。かすかな寝息に、水の音、そして砂の落ちる音以外何も聞こえない。岩壁に波打つ水面。ひんやりと冷たい岩場。生き物が住んでいるなどと思えない世界だ。
体だけは休めようと、肩の力を抜いてじっとする。異能もずっと使い続けるわけにはいかない。視力も完全に戻してしまう。戻したところで苔の明るさの為に大した障害にはならない。ただ、眠ってしまわないように心掛ける。足を中心に体全体の脱力感、痛み、肌寒さ、普通の人間が感じている感覚を解放する。聴力だけは怠るわけにはいかないので、残しておく。異能を使わないようにすることで自身の体が非常に疲れていることを実感する。
何よりも傷が痛む。船に乗る際に撃たれた背中の傷が治りきっていない。傷自体は癒えているはずなのだが、体が痛みを忘れていない。異能で無理に治したから感覚がそれに追いついていないのだ。残念ながら暫くはこの痛みと向き合うしかない。痛覚を鈍くしてしまえば問題はないのだが、それにもそれだけの集中力が必要になってくる。
動かすと痛みが出るので無理に動かさないように気をつけてそっと水面を見た。
魔物の姿は全く見えない。苔から漏れる淡い光が水面にも差し込む。碧色に見えるのはもともとの水の色か、光のせいか。今の視力では到底捉えられない。水の下で大岩が聳えている。手を伸ばせば届きそうにみえるが、あの大岩のある場所が手どころか体全体が浸かっても届かない程に深いことを実際に溺れた今ならば知っている。そしてそうした深い場所だからこそ、あの魔物たちは生息できるのだ。
ふと、水の底から魔物たちが潜んでいるのが見える気がした。
魔物たちがじっと息を殺して光を探している。揺れる水面は彼らの呼吸だ。吐き出す息とともに水が押し出され底を捉えた水面の絵はいとも簡単に崩れ去る。崩れた絵は中々戻らない。揺られ、揺られて、大きく揺られて底の様子は隠される。そして水面が少し深みを帯びるのだ。それは決して目がおかしくなったからではなく、魔物の影なのだ。大きすぎて水全体が暗くなったようにみえるだけだ。そして盛大な水音を立ててイユを食べようと……
「つっ!」
反射的に跳ね起きた。同時に体中に激痛が走る。意識が一気に底から引き上げられたように感じる。
慌てて水面を見たが、静寂という名のキャンパスを掲げていただけだった。
「夢?」
うとうとしていたのかもしれない。はっとして砂時計に目をやる。砂が完全に落ち切っていた。これでは、正確な時間はもう数えられない。ひとまずひっくり返す。残りの二人に視線をやった。
じっと聞いていると寝息が聞こえてきて安堵する。見張りの番をする人間が寝ていたせいで誰かが欠けでもしたらさすがのイユでも罪悪感が残る。
怠けている。そう反省した。一人でいたときはずっと心のどこかで警戒していたものだ。だから、刹那が声を掛けてきたときのように、眠りについても気配ですぐに目を覚ますことができた。いや、複数人でいたときも、変わらない。今回だけ気を許して夢なんてみてしまったのはそう、見たことのないお人よしと今日一日一緒にいすぎたせいだろうと心の中で八つ当たりをする。
とはいえ、彼らは今寝ているのだ。下手をしたら、全員死んでいた。
今生きているのは、運が良かっただけだ。安心している場合ではない。ここは、イユの過ごしている世界はもっと容赦のない場所なのだ。運が悪かったら、夢が現実になって魔物の腹の中だったなんてことは起こりうることなのである。
だからこそ、気を引き締め生き延びるための方策を考えるべきなのだ。少なくともこのような場所で怠けていてはいけない。
だが、実際のところこれからどのように立ち回れば上手くいくのか、イユには分からないでいる。それではいけないのだ。砂時計を逆さにして、じっと目を閉じ、頭の中を整理していく。
ひとまず、鎌を持ったあの女のいるこの島からは離れる。それは確定だ。刹那が助けに来たのだ。このままリュイスの船に乗せてもらえばいい。脱出手段はほかにないだろうから、断られてもついていく。けれど、そこからはどうするのが良いのか。
そもそも、あの船はどこにいくつもりなのだろう。どこであれば、安全といえるのだろう。
そこまで考えて、彼らのことを何も知らないことに気が付いた。はっとして二人を見やる。布をかぶった二人は身じろぎひとつせず冷たい地面に横たわっていた。
これほどのお人よしならば大丈夫だろうと思い込んで、気を許していた自身がいることを自覚する。けれど、彼らは信用できるのだろうか。もし全てが芝居だったらどうすればよいのだろう。
イユは首を横に振る。あるはずがない。それは幾ら何でも考えすぎだ。感情で考えるのは危険だと気が付いた。生き残ろうと思ったら、もっと論理的に考えなくてはならない。
ふぅっと息をつく。砂時計の砂はあと半分程だ。彼らについて知り得ることを洗い出してみる。
まず彼らは船を所持している。木造の飛行船だ。船員もたくさんいる。そして二人は同じ船の仲間らしい。仲間は大切にするらしく、危険を顧みずわざわざ洞窟まで探しに来た。船員の殆どはナイフを手にしていて二人も戦い慣れている。二人に共通しているのは生き残る術を身につけていると感じるところだ。リュイスの強さは身に染みて感じている。僅かな間だが、刹那はやけに準備がよく旅慣れていると感じた。一つの場所に定住するようならば幾ら龍族でもここまでなれるものではない。旅生活が長いのだ。知識について或いは能力についてイユは完全に二人より劣っている。そしてこれらは間違いなく必要なものだ。彼らから吸収していくべきという点では何も迷うところはない。暫くは一緒にいようと決心する。決めたからには二言はない。
けれど、その先は……? 彼らに対する情報が断片的すぎるというのがイユの抱いた感想だ。龍族が船に乗って仲間と一緒に旅をしているというのがこれまでの情報だが、それはあまりにも、ふざけている。まず仲間がいるとは思えない。龍族は異能者と一緒なのだ。弾圧されている。にもかかわらず普通の人間と一緒に過ごしているとは思えない。船員が全て龍族ならばともかく、耳は尖っていなかったように思う。それとも、船員は異能者なのだろうか。けれどあれだけの異能者と龍族がいて、何故彼らは捕まらないのだろう。
「彼らも、どこかから逃げ出してきた?」
思いついたその言葉は比較的説得力のあるものだった。
まずは知ろう。そう決める。一緒にいて彼らを知り、そして、生き残ろうと。




