その156 『いつも見る夢』
いつも、夢は一番幸せな頃から始まる。
しとしとと降る雨が、霧とともにその街を包んでいるようだった。
ルインは雨宿りのために、僅かに張り出した屋根の下、壁によりかかってその街を見ていた。地面のところどころに作られた水溜まりは、ぽつんぽつんと雨粒が当たることで、波紋を描いている。視線を少し上に上げれば、生垣が並んでいるのが見えた。薄紫色、薄紅色の花を満開に咲かせた紫陽花から、雫が零れていく。
その奥にある家は赤い屋根が印象的な可愛らしい一軒家だった。二階の窓から、てるてる坊主がぶら下がっているのを見つける。そのてるてる坊主は、ルインを見つめて、にっこりと笑いかけてくる。子供が作ったものだろうか、作りはぞんざいだがどこか愛嬌があった。
雨が止んだらこのてるてる坊主を作った子供も外で遊べるのだろうが、ラヴェの話ではこの島で雨が降らない日は殆どない。そう思うとこの街の子供たちはかわいそうだなと思った。
だが、この静かな街の雰囲気が、絶えず匂う水の香りが、ルインには嫌いになれない。それが、ラヴェの生まれた島だからだろう。我ながら単純な男だと笑いたくなる。
「待った?」
ルインがもたれている建物の脇からひょこっと、その人物が顔を出した。燃えるような金糸の髪が肩よりも下の位置で波打っていて、湿気のせいで髪が大変だと喚く彼女のことを思い出した。ギルドで一緒に仕事をしているときには、泥まみれになることも魔物の血に顔が汚れることもあった。それなのに、湿気ごときでごちゃごちゃ言うのが何とも妙で面白かった。
思い出し笑いをしてしまったルインに、青い澄んだ大きな目が、訝し気に見つめてくる。
「大丈夫だ。街を見ていたらあっという間だった」
ルインがそう言って先ほどの家を見やると、ラヴェは首を傾げた。
「そう?雨ばっかりで随分湿っぽい場所でしょう」
特に見て楽しい場所ではないだろうと、ラヴェは言う。
「ねぇ、こんな場所にずっと居続けた、私の気持ちが分かる?どうにかなっちゃいそうでしょう?」
だからこの島を出てやったのだと、ラヴェはいつも語る。しかし、そんなラヴェも、今回は里帰りを決心したのだ。
あまり彼女の心を刺激しないような言い回しを考えて、
「紫陽花は美しいと思うがな」
とルインは答えた。お前の故郷だからなどと言うには少々気恥しかったので、そう言うに留めたのもある。
「まぁ一年中咲いているのはここだけね」
ラヴェもそれには同意を示し、それから持っていた傘を差しだした。
「……?」
分かっていないルインに、呆れたような顔をする。
「まさか女の子に傘を持たせるつもり?」
「いや、そんなつもりは」
ルインは慌てて傘を受け取る。広げると真っ赤な花が雨の中に一輪咲いたかのようだった。
二人でその花の下に身を置きながら、雨降る地を進んでいく。しとしとと花弁に伝う雨音が、しんしんとした空気にリズムを与えた。
「村はここから三十分ほどだって?」
「えぇ。何?ひょっとしてもう、緊張しているの」
それは緊張もするだろう。これからルインが向かっているのは、ラヴェの親元なのだ。
何も言えないでいるルインに、ラヴェは面白そうに笑った。
「もう、心配しなくても大丈夫よ。言ったでしょう。私の村は、あなたたちと共存しているって」
あなたたちと、ラヴェは発言した。それは、ルイン個人ではなく、『龍族』のことを指している。人間と『龍族』とが共存できる村の存在を、ラヴェと会うまでルインは知らなかった。それどころか、ずっと人間に紛れて存在を隠して生きてきたルインには、ラヴェに話を聞いても暫く半信半疑だった。だが、今は違う。ラヴェは確かに『龍族』の知識が豊富であり、ルインの魔法を見ても怖がらなかった。彼女を介してそんな理想郷が本当に存在するのだと思うに至ったのだ。
「そのこととは別問題だ」
とはいえ、自身が普通の人だったとしても、思うことはあるわけだ。むしろ一男児として、彼女の親に挨拶に行くというのは中々に勇気のあることだった。
「全く意外とナイーブなんだから」
ラヴェはルインの言いたいことを察して笑った。
「こんな巨漢が硝子の心の持ち主だなんて、誰が信じるものかしら。ほんと、笑っちゃうわねぇ」
「硝子はないだろ、硝子は」
言い返すルインに、笑うラヴェ。
二人の進む道を見守るように、或いは幸せな時間を包み込むように、二人の姿は真っ白い霧に覆われていった。
次に視る景色は、まさしく悪夢だった。夜の闇の中、ルインは必死に逃げている。村からは火の手が上がり、銃声が木霊する。その全ての音がルインを捕えようとしている。
死にたくない。激痛とともにルインの頭に過ぎるのはその言葉だけだった。おいてきてしまったラヴェのことすら、頭になかった。
体中が熱かった。それが火を浴びたせいなのか、興奮状態でこの村の中を逃げ回っているせいなのか、ルインには判断がつかなかった。
(助けてくれ、誰か、誰か……!)
ルインは縋るように家々の間を走り抜ける。その合間から聞こえてきたのは怨嗟の叫びだった。
***
(クソッ!)
右腕に銃弾がかすり、痛みに顔が歪む。頭だけは守るように、身をすくめたすぐ背後で今度は殺気を感じた。
かろうじて、反転してルインはその凶器から身を逃す。凶器の正体は包丁だった。
***
あり得なかった。これは夢だと叫びたかった。
はっとした。ルインのいる地面が僅かに盛り上がったのだ。
「あぶねぇっ!」
気づいたルインは、突き倒すようにしてその場から離れた。
間一髪。ルインのいた地面からつららが生えた。そのままあそこにいたら、串刺しにされていただろうことは、容易に想像できた。躱したにも関わらず、寒さがルインの足を縛るかのようだった。あれは、恐らく氷の魔法なのだ。
「ぐっ」
痛みが胸を貫いて、声が漏れた。見やれば、包丁がルインの胸へと突き刺さっていた。血が滲む感触に、慌てて飛びずさる。その勢いに、生暖かいものが飛び散り、ルインはよろけた。必死にひっぺはがして、ルインは走った。
止血する時間はなかった。逃げるしかなかった。体中ぼろぼろで血だらけで、それでも死にたくはなかった。意識が朦朧としてくるのを感じる。その中で、ルインは必死に駆け抜けた。生きるために、魔法も放った。それが火の手を呼び、更に混乱が広がったが、もうそんなことも把握できなくなっていた。
掠れていく意識を呼び覚まそうと、声を張り上げて叫んだ。気が狂ったかのようだった。襲ってくる影を突き飛ばし、夢ともしれないその硝煙の中を走り抜けて――、
草の感触に、はっとする。気づくとルインの体は地面へと倒れ込んでいた。視界に影が視えた。六つほどあるその影がルインを取り囲んでいる。その手に鈍色に光った何かが見えて、ルインは絶叫した。影にタックルを食らわせ、その勢いのまま草の上を駆けた。暗闇の中を突き抜け、そして、ルインの体が宙を舞った。
羽を出したが、風はルインに味方しなかった。むしろ煽るように、ルインの体は何度も空を舞った。そしてやってきたのは衝撃だ。右も左もわからず、息すらもできない。何度か激突する痛みが断続的に響いた。それでようやくルインは、木へと衝突し落ちていっているのだと気づいた。しかし分かったのはそれだけだった。最後にやってきた強い衝撃に、ルインの意識は一瞬飛んだ。
それでも、ルインは生きていた。無駄に丈夫な『龍族』の体を呪いたくなった。けれども、生きることを止めようとはしなかった。本能のままに、ルインは叫んだ。
「やめろ、殺さないでくれ……!誰か、誰か……!」
一体誰に助けを求めているかもわからず、ルインは地面を這いずった。体はもう満足に動かなくなっていた。滴る血が地面に目印を作るように残っているということにも頭が回らなかった。そして、その跡をたどって、再び影がやってきた。
僅かな音には敏感になっていた。ルインが振り返ると、その影が蜃気楼にぼんやりと浮かんでいた。その手に握られた何かに、ルインは慌てて銃を手に取った。
「来るな、来るんじゃない!」
影は小さかった。それなのに、自分を見下ろしていた。
ルインの手が小刻みに震えているせいで、銃の狙いは覚束ない。右手だけではだめだと悟ったルインは左手でも銃を抑えた。
影が口を開けて何かを呟いた。
「やめろ、殺さないでくれ……!」
叫んだルインには何も見えていなかった。ルインは必死に引き金を引いた。
銃弾が乾いた音を立てて、影を穿った。しかしそれだけだった。満足できず、ルインは何度も引き金を引き続けた。
影が撃たれながらもその口を開けて何か告げている。
一体なんだ。何が言いたいんだ。
弾切れになってもまだ引き金を引こうとしたルインは、そこで初めて気が付いた。
影は子供だった。そのもえぎ色の瞳は怯えたようにこちらを見ていた。その口は「殺さないで」と訴えていた。その手には、包帯が握られていた。
気づいてしまったルインの視界に入ったのは、崩れ落ちる子供の姿だった。慌てて駆け寄る力はルインに残されていなかった。今の子供は、関係なかったのだ。その理解に、ルインの頭が真っ白になった。
夜になってから止んでいた雨が、その雨粒が、ぽつりとルインの足元に落ちた。それを機に、一気に雨の音が激しくなる。
豪雨が、咽び泣くルインを世界から押し流そうとするかのようだった。




