その154 『刃を向ける相手』
「なんでお前がここにいる!?」
追いついてきたレパードの声が響く。
まさかさっきまでブライトが椅子に括りつけられていたとは思いもしないイユですら、レパードの疑問には全く同感だった。
「まぁ、そのあたりは、かくかくしかじかと。とりあえず、逃げようよ」
そう言ってブライトは持っていたナイフで、自分の手の甲を傷つけた。
「お前、その傷……」
レパードの声を聞きながら、イユも息を呑む。甲にはすでに傷がついており、そこから血が滴っていたからだ。見れば反対側の手の甲も血は止まっているようだが、傷が走っている。
手の甲に刻まれた法陣が光を放つ。途端、そこから煙が出た。階段を駆け上がっていた兵士たちへとその煙が殺到する。
その刹那、イユはリュイスに横なぎに突き飛ばされた。疲れ果てていたイユに抵抗する術はない。地面に思いっきり尻餅をつく。
そこを刃と刃の交わる音が響いた。
リュイスが斬られそうになったイユを助けるべく突き飛ばし、相手の刃を迎え撃ったのだと分かった。
「逃がしはしない!」
鋭い女の声が聞こえて、はっとする。声から察するに、リュイスと刃を交えているのはアズリアだ。煙にまみれて姿こそ見えないが、その声だけで十分イユをぞっとさせた。
「そこをなんとか」
アズリアの声に対し、そう頼み込んでみせるのはブライトだ。力の抜ける言い草だが、その声でブライトの位置が特定できた。
「ふざけるな!」
アズリアの激昂の声。間髪入れず、何度か刃物の交わる音が聞こえた。その勢いで煙が払われ、再び煙にまみれを繰り返す。
「使って」
イユは這いずりながら腕を伸ばす。ブライトの手の甲は殆ど血だらけだ。そして、腕も傷だらけなのは知っている。つまり放てる魔術はもう殆どないのだ。だから、イユは自身の腕をブライトに差し出すことにした。それに、イユならば異能の力さえ戻れば、いつでも傷は治せる。
すぐにナイフの冷たい感触とともに、チクっとした痛みを感じた。
「お前もお前でしつこすぎるぞ」
レパードがアズリアに向けて発した声は、イユから離れている。煙に覆われる前にいた位置とは、随分違う場所から聞こえた。動いているのだ。
察したイユも、腕だけはそのままに、体を起こし始める。あまり無理に起き上がると、刃を交えているリュイスの邪魔になりそうだ。その為、後方の気配を探りながらゆっくりと行動した。
「だめだねぇ。余裕のない人は視野が狭いから」
イユが起き上がるのを確認してから、ブライトがわけのわからないダメ出しを入れる。法陣も書き終わったらしく、イユの腕からは淡い光が漏れだした。
呆然としているイユは、すぐに誰かに腕を掴まれる。ブライトだと気づいたイユは、促されるままに走り出した。
そんな中でも、ブライトの言葉は続いていた。
「襲っている相手が誰かもわからないんじゃ、話にならないよ」
その声に、アズリアの手が止まった。
「何?」
鎌の持つ手を弱めたというのに、相手はそれ以上の力で斬りかかってはこない。むしろ力は依然として拮抗していた。勿論、相手は平和主義者のリュイスなので隙をついて斬りかかる人物ではない。しかし、アズリアはそこまでリュイスのことを知っているわけではない。
だが、何かがおかしいと気が付いた。
ところが、煙がアズリアの視界を遮っているせいで、おかしさの原因が分からない。唯一アズリアの視界に見えるのは、鎌とぶつかる刃のみだ。相手の顔どころか足の一本さえ煙に隠されて、見えていない。だから相手の出方が読めず、戦い辛さを痛感していたところだった。
アズリアは悩んだ末、思いきった行動に出ることにした。鎌を横なぎに払うことで煙を払おうと考えたのだ。そのためには鎌の向きを変えるため、今交えている刃から身を離す必要がある。力で押し切られる形になる為、本来なら隙を突かれる愚策だ。それでも、抱いた違和感を払拭したいという思いが勝った。
斬られる覚悟をして鎌を一気に引く。
しかし不思議なことに、刃は迫ってこなかった。
疑問に思いながらも、一転、全力で一気に鎌を振り回す。
途端、周囲の煙が嘘のようにひいていった。そこには、確かに気配を感じていた一行の姿はなく、ここで初めてアグリアは取り逃したことに気が付いたのだった。
その唖然とするアグリアの表情を見送るように、目の前で刃物の形を纏った煙だけが僅かに残っていた。それも、すぐに立ち消える。
「何なのだこの力は……」
逃げられたことよりも、ぞっとした。
「戦っている相手が誰かもわからない、か」
先ほどの女が言っていた言葉を思い返す。
確かにアズリアにはわからなかった。煙に火花に水といった、あの多種多様な力。
「まさかな」
アズリアは実際の人物を目にしたことはなかったし、そもそも先ほどは煙に包まれてしまって姿かたちを捉えること自体できなかった。
だが、あれだけのことができる人物に心当たりがあった。まさかひょいひょいと顔を見せるとは思わなかったのが、間違いないだろう。だからこそ、アズリアは女の忠告を改めて吟味することにしたのだ。
「捕まえろ!」
追いついてきた部下に命令だけは下し、その場でじっと考え込んだ。




