その152 『ちょっとしたお出掛け』
部屋を出れば、広い廊下がブライトを出迎える。
人の気配は、残念なことにあった。だが今は誰も廊下にでていないらしい。
すぐ近くの大きな扉の先から、がやがやと人の声がする。こんなに近くにいたのに、暗殺されそうになっている人がいたことに誰も気づかないのだと改めて驚かされる。
とはいえ、いつ誰がこの部屋から飛び出てくるかわかったものではない。ブライトはナイフで壁に文様を刻む。頭の中で計算しながらなので、中々捗らない。
ようやく刻み終えて魔術を放ち、ほっと息をついた。一見、何も変化はない。だがよく見るとブライトの影がなくなっていた。自身の姿は変わらず見えるので実感はないが、影だけでなくブライトの姿自身も他者から見えなくなっている。透明人間になったわけではない。ただ、自身に到達しようとする光の角度を無理やり変えただけだ。
(この魔術の問題は山ほどあるけど、それでも便利だよね)
これのおかげで、何度ブライトは命が助かったかわからない。だが、この魔術は音や匂いまで変えられるわけではない。
(お風呂、入ってないからなぁ)
と心配する。
くんくん。臭ってみるが、周囲の木の匂いがきつすぎてよくわからない。セーレの前に乗っていた船は、木を使っていないうえに匂いのにの字もなかった。だから、あそこであればばれていたかもしれない。
(まずは合格かな)
勝手に自分に合格点を与えたブライトは、慎重に一歩一歩歩き出した。
抜き足、差し足、忍び足。大きな扉の前を通り過ぎる。扉が急に開きやしないかと心配になったが、杞憂に終わった。ブライトには聞き取れない声が、がやがやと言っているだけだ。
あとは僅かにカレーの匂いが漂ってくる。ブライトはこの扉を開けたことがある。堂々とご飯を食べられたあの記憶が既に懐かしい。
(お腹空いたなぁ)
また食堂に行きたいなどと、逃亡中とは思えない感想を抱く。カレーの匂いは食欲をそそるのだから仕方ない。しかも、ブライトは一日一回しか食事を貰えていない。文句を言ってもいいだろう。
大きな扉の反対側には、ブライトの部屋のと変わらない大きさの扉が並んでいる。恐らく、船員たちの部屋に続いているのだろう。だが扉の先からは人の気配が全くしない。皆、食堂に集まっているようだ。
ひょっとするとブライトが先ほどみたラダの記憶は、ごく最近のものだったかもしれないと、予想した。そんなに頻繁に集まりなどないだろうことも踏まえれば、しっくりくるというものだ。
(そうだとすると、間に合うかな)
そうなると訊きたいのは先ほどのがやがや声の内容だ。貴重な情報があるかもしれない。
だが、残念ながらブライトにはイユのような聴力を高める異能は持ち合わせていなかった。それらしい魔術の存在は知っているが、残念なことに習得していない。
そうこう考えながら進むうちに、廊下の端までたどり着く。ブライトは再びナイフで壁を傷つけた。大きい切れ目はばれるのでほんの僅かな傷だが、それで法陣を描くには事足りる。
(面倒なのは、光の向きが変わる度魔術の再発動がいることだよね)
おかげで屋外では夜間を除き殆ど使えた試しがない。室内も正直にいうと怪しい。固定された明かりですら、一歩歩くことに角度が変わっていくのだから。所詮、魔術は人工的な術なのだ。全ての自然現象を人の手で支配し制御してみせることなどできやしない。
だから正直に言うと、この魔術ではブライトの姿を隠しきることができない。それでも案外どうにかなるのは、錯覚が入るからだ。よく見ればブライトの姿が見えるはずなのに、先入観で人はそこに誰もいないと判断してしまう。人という存在は、随分都合の良い目をしているものだ。
(ん……?)
魔術の発動とともに、風を感じた。何かと目を凝らせば、あろうことか、曲がり角の先の扉が開いている。扉が大きいのを見ると、個人の部屋というわけではないらしい。
「ラダの奴、まだ戻ってこないのか?」
先ほど聞いたばかりの声だ。皆にからかわれていた少年、ヴァーナーのものだと気付く。
すぐに扉の先から黒髪の少年がでてくる。その後ろに連なるのは金髪の少年だ。気弱そうな様子が見受けられた。
「……うん。ブリッジにもいなかったみたい」
少年二人はブライトには気づいた様子をみせず、そのままこちらに向かって歩いてくる。
ブライトは、ぶつからないようにと、壁に張り付く。さしものブライトも心臓がどきどきしている。こんなに近付かれて、果たして見つからないものだろうかと、不安になる。ごくりと、唾を飲み込んだ。
あっという間に、少年たちが近づいてくる。
そして、彼らはすぐ目の前にーー、
少年たちは、ブライトの存在に気付いてはいなかった。けれども、僅かにヴァーナーの指先がブライトの服をひっかけそうになる。
間髪いれず、ブライトは自身の僅かに膨らんだ服を引っ張って、引っ込めた。
もし、少しだけ引っ込めるのが遅れていたら、間に合わなかっただろう。まさに、紙一重だった。
少年たちの動きにつられて、カレーの匂いが漂う。
ブライトは、二人が通りすぎるのを待つことはしなかった。足音でばれる危険性はあるが、どうせ、長くは隠しきれない。声を挙げられた途端扉から船員が殺到する絵が浮かび、心の中で首を横に振った。その事態はあんまりだ。少なくとも食堂からは離れておかなくてはならない。その食堂が、少年たちが出てきた扉からも行けるのであれば、尚更だ。
足早に、廊下を進んでいく。
「……あれ?」
気弱少年の疑問の声が、耳に届いた。その声音に、ブライトの背筋がぞくっとする。
「どうした、レッサ?」
食堂の扉まであと少しのところだったので、出来れば勘付かれたくなかった。
「こんな傷、あったっけ?」
振り向く時間がもったいなかったので、想像だけにとどめた。その想像では、金髪少年が不思議そうな顔で先ほどブライトのつけた傷を見ている。そして傷に指をさして、ヴァーナーに見せるのだ。
なんということだ。あんなに浅い傷を見抜くなんて、よほど細かい性格をしているのだろう。と少しずれたことを考えながら、ブライトは扉を超えた。
次の曲がり角が見えてくる。
「……いたずらか?変な模様が描いてあるみてぇだけど」
「……これ、法陣じゃないかな。『魔術師』の」
想像の中のヴァーナーとレッサが顔を合わせている。そして、まさかの事態を悟った二人がブライトの部屋へと駆け出すに違いない。
「……レッサ。皆に報告だ」
「え、見に行かないの」
レッサの疑問とブライトの疑問がシンクロした。そうこうするうちにようやく曲がり角へと到達する。
「皆はすぐそこにいるだろ。念のため大勢で行った方がいい」
ヴァーナーという少年は、見た目とは裏腹に慎重派なようだ。
とはいえ、その判断は間違ってはいない。『魔術師』に一人で会いに行くとどんな目に合うかは、ラダが実証済みというものだ。
ブライトはナイフで次の法陣を完成させる。通路を曲がれば、甲板への入口が見えてくる。はじめてセーレに乗った時に通った道だ。あの時は足の怪我でふらふらだったわけだが、記憶を失うほどには重傷ではなかったので、鮮明に覚えている。だから甲板の扉までは順調だった。
ところが扉にたどり着いたブライトは、そこで予想外の苦戦をする。
(重っ?!)
まさかの扉が開かない。
ここで、ブライトは普段よりも体力が落ちていることを痛感した。この程度の扉は、いくら非力の『魔術師』といえども、開けられるはずだからだ。
「はぁ?!『魔術師』がいない?!」
厄介なことに追い打ちをかけるように声が響いた。ばたばたと駆け回る音も聞こえてくる。甲板へと近づいてくる足音もだ。
ブライトの部屋で倒れているラダを見つけたら、船員はどう思うだろう。イユですらあの反応だったのだ。外傷がないなどの言い訳は通用しないだろう。
ブライトへの怨嗟が聞こえてくる気がして、気が急いた。
一度扉から身を引き、思いっきり体をぶつける。普通に開けるだけでは開かなかった扉が、ようやく大きな音をあげた。
だが体が勢い余って、そのまま扉と一緒に外へと飛び出る羽目になる。
出口への第一歩。眩しい光に目を射られまいと目を閉じ、しかし目には何の衝撃もこなかった。慌てて目を開ければ、夜空には小さな星々が舞っている。
あんまりだとブライトはひとりごちる。こちらはお日様をご所望していたというのに、肝心なお日様はブライトに会うのが恥ずかしくて、夜の帳の向こうへと身を隠してしまったらしい。
「『魔術師』のねぇちゃん?!なんでこんなところに」
声の方をみれば、望遠鏡を抱えた少年がブライトを見下ろしていた。病室以来の再会だと呑気に考える。
「確か、シェルだっけ?久しぶり!」
「久しぶり……じゃないぜぃ?!見つかったら、船長に怒られるって」
すぐに捕まえようとする素振りをみせないシェルのお陰で、体を起こす時間を得ることができた。ついでに情報収集も事欠かない。
「でも今船長いないでしょ?どこにいるんだっけ」
「アルティシアだけど……、もう帰ってくるって!」
自分のことを棚にあげて思う。吞気な人物で助かったと。
後方から駆け足音が響いてこれば、さすがのシェルも顔をしかめた。
ブライトを捕えることへと考えが至らないうちに、先手を取る。あくまでも友好的に手を振ることを忘れない。
「じゃ、行ってくるね」
すぐに距離をとって、走り出す。我ながらふらふらな走りだと思ったが、進まないよりはマシだ。
「行ってくるって……えぇ?!」
驚いた声のシェルに重ねた。
「晩ご飯は、あたしもカレーがいいって言っておいて!」
ブライトは敢えてそう要望することで、帰ってくるアピールをしておいた。
船と陸をつなぐ渡り板を走り、港へと下り立つ。後方からシェルを詰る声が聞こえてきたが、きっと気のせいだろう。
有り難いことに、足音は追いかけてこない。ブライトの存在を思えば、下手に追いかけてもよいことは何もない。指名手配の『魔術師』など、去ってくれたほうが有り難いぐらいであろう。
リミットまでに戻ってこなければ、置いていかれることが予想できた。




