その150 『記憶を覗いて』
ブライトは決して気を緩めなかった。完璧にみえる魔術だが、ナイフの傾きを少しでも変えれば法陣は消えてしまう。とにかくと、呪文を唱えた。
「……分かれよ」
法陣は何も一回使ったらそれっきりというわけではない。呪文さえ唱えてやれば、何度でも再使用できる。最も使用後も原型を留める魔術の場合という条件が付く。その為、万能とはいえない。だが今回の場合には有効だ。
ブライトはやれやれとナイフを下ろした。分けた法陣は、ナイフの位置を変えなくても変わらず作動している。先ほど描いたものと同じ効力を持つものを用意し、それで再び相手の動きを封じさせた。
それから、溢れたままだった手の甲の血を地面へと擦り付けた。指にその色を絡ませ、描く。
「時間はあまりないかな」
次に描いた法陣は、扉に向けて発動する。どのみちここまできては外に出ることも視野にいれるしかないが、念のため簡単に開けられないようにと封印を施した。
最後に、ちらっと男を見る。
「近況ぐらいは聞かせてもらわないとね」
男のその目を見る限り、大した情報は取れそうにない。だがやらないよりはマシだろうと判断する。
「大丈夫、大丈夫。イユみたいにはしないから」
ゆっくりと近づく『魔術師』の影が、男に覆いかぶさるのにそう時間はかからない。
男に声を挙げる余力があったなら、部屋中に悲鳴が響いたかもしれない。だが実際には、声まで封じられた男の喉からは、空を切るような微かな音が聞こえただけだった。
何度目かの経験とはいえ、慣れるものではない。ブライトはその様子に眉をひそめる。けれども、手を止めることはしない。指先に浸透するぬくもりから、男の記憶を引き上げた。
記憶は、時系列にはなっていない。
はじめに男の瞳を通して見た光景は、古い写真だった。帽子をかぶった男と、その隣にいる女。そしてその周りを取り囲む複数の男女。記念撮影だろうか、背後には見慣れない船が映っていた。
その情報を目にいれたうえで、改めて中心にいる男をよく見る。
帽子には、不相応なほど大きな赤い羽根がぶら下がっていた。
間違いないと、ブライトは思い当たる。これは、レパードの帽子についている装飾と同じものだ。
(前の船の船長かな)
男から感じる威厳も併せて、そう判断する。よく見れば、その男の隣の女には、どこか既視感があった。茶髪の美しい女だが、顔立ちが誰かに似ているのだ。
少しして、気が付いた。確か、マーサと呼ばれていた女だ。だが見たところ、体は痩せていて、若干丸みのある顔には、僅かに幼さが残っている。
それでその写真が少なくとも十年以上は昔のものだということが予測できた。
恐らく今ブライトが記憶を見ている男も、この写真のどこかにいるのだろう。探そうと思ったがそれは叶わなかった。
次の瞬間、写真が引き出しへと入れられる。
引き出しのある棚が、壁に取り付けられているのが視界に入る。それが今ブライトのいる部屋と変わりない造りをしているのに気が付いた。
この映像は、男がよくみている光景。つまり、ここはセーレの男の部屋というわけだ。
(さて、近況は……っと)
いつまでも同じ光景ばかり見てはいられない。僅かではあるが目の前の景色に霞がかかったので、時間も短いことを知る。
ブライトは記憶の中を探し出した。
魔術を通して人の記憶を覗くとき、その目に飛び込むのは、その対象者が過去に体験したあらゆる場面の集合体となる。『魔術師』は、その景色の海のなかで、気になったものを取り出すのだ。
まるで記憶の迷宮に入ったようで、ブライトはこの瞬間にいつもわくわくする。そもそも『魔術師』は知的好奇心を刺激されやすい生き物だ。だから人の記憶であることすら忘れて、その迷宮を探索したくて仕方がない。
今も、クロヒゲとブリッジで仕事をしている景色から抜け出し、甲板でナイフの素振りをしている風景に映る。その後、食堂で眼鏡の船員と酒を飲んでいる光景も見つけた。
同時に、霞がだんだんひどくなってくる。男の意識が切れかけているのだと気づき、冷静になった。
全ての記憶を視るのならば、意識が切れた相手に対して無理やり、その意識を呼び覚ます手段も考えられる。だが、今回ばかりはそんな時間はない。扉に魔術はかけたとはいえ、長い間男が帰ってこなければ仲間が探しに来るだろう。
今のうちに目的のものを見つけてしまわなければならない。焦ったところで、気になる光景を捉えた。
「何だ、誰か探しているのかい」
場面は航海室だ。二人の男が談笑しているところに入ってきたのは、黒髪の少年である。ブライトと同じくらいの年にみえる。しかし、何があったのか、どこか気まずそうな顔をしている。
「ちょっとな……、あいつ、きてねぇか?」
男が他の船員と顔を合わせたため、視線が少年から一度外れる。
「あいつって……、リーサのことかい」
再び少年に映れば、真っ赤になって否定する顔が映った。
「ちげぇよ!そうじゃなくって、よく差し入れにくる……」
「イユのことかい?」
意外な名前がでて、ブライトは意識を集中させた。この記憶は、ブライトの知らない情報を含んでいる可能性がある。
「……ああ」
男は、少年が持つカメラに気が付いたようだ。そこに視点が移動する。
ブライトもブライトで、あんなものがよく手に入ったなと感心した。ヴェレーナの街で買ってきたのかもしれないと想像する。
「意外だね。君が贈り物なんて」
「ん、ヴァーナー君。まさか乗り換え?」
先ほど顔を合わせた船員、茶髪の青年がからかった。少年が更に赤くなるのは必然だ。
「ちげぇよ!」
「だけど、カメラなんて高価なものだろう。ふつう、おいそれと渡せないしねぇ」
「他に気の利くものなんて持ってねぇよ。それに、こいつをやるなんて言ってねぇ、貸すだけだ」
からかいがいがあると思われているらしい。茶髪青年は続ける。
「やっぱりそうなんじゃないか。そうかあのヴァーナーがイユをねぇ。確かに見た目は悪くないけど」
「んなわけあるか!そうじゃなくて……」
言いかけたところで口ごもるので、
「どういうわけだい?」
と、気になったらしい男が訊く。
「……ちょっとどうにもならねぇことを言ったから」
小声だが、男の耳に入ったからこうして記憶に残っているのだろう。
「やっぱ何でもねぇ、邪魔して悪ぃな、ラダ」
「えぇ、なんで僕は謝罪対象に入ってないんだ?」
「キドはいいんだよ、キドは。むかつくから」
そんなやりとりで男の名前がラダだと知ったブライトは、次の言葉に息を呑んだ。
「……イユなら、今日は刹那とリュイスとで外に出てから戻ってないぞ」
ヴァーナーが入ってきた扉からひょこっと顔を覗かせたのは、ブライトもよく知る人物、レパードだった。
「せ、船長!お疲れ様です」
慌てたヴァーナーが敬礼の姿勢をとる。
「……まさかお前がイユに贈り物か」
「船長まで?というより、全部聞いていたんですか?!」
イユのことを発言したあたり、レパードは結構前から立ち聞きしていたのかもしれない。
あいつも人が悪いよねと、思わずにやにやしてしまうブライトがいる。
「というか丸聞こえだ。通信機は切っとけよ」
真っ青になったヴァーナーは中々見物だった。慌てて茶髪の男、キドの元に駆け寄って、彼が繰っていた機器を確認する。察するに、このキドという男が船内中の指令伝達を担う通信機を整備しているのだろう。
「冗談だ。ムキになるなって」
間髪入れずレパードが言えば、周りの男たちの笑い声が響いた。当の本人は、むっとした顔をしている。
「船長。俺、何かしましたか?」
「別に。ちょっとした骨休めだ。大事になりそうなんでな」
さらっと言ってレパードは通信機へと近づく。
「大事ですか」
「あぁ、イクシウスの国王が崩御した」
その言葉に、周囲の船員たちの表情が固まった。
「出航の準備だ」
発言した当の本人は、素知らぬ顔で続けている。ブライトも驚かなかった。そろそろだと察していたのだ。
さて、主犯は誰かなとイクシウスの貴族たちの顔を思い浮かべる。最も怪しいのはジャスティスあたりだろうが、オスマーンやサロウも容疑者に入る。あの国王は敵を作りすぎたよねと、自身のことを棚に上げた。
それよりも興味深いのは、レパードが国王の崩御の情報を平然と晒け出していることだろう。すぐに出航というあたり、ギルドから訊かされていたのかもしれない。
ブライトにとって一番読めないのがそのギルドの長、マドンナだ。同じイクシウスの脅威に晒される者同士で手を組みたいところではある。だが、如何せんブライトの持つパイプにギルドマスターへとつながるものがない。おかげで信頼に足るかどうか判断がつかないでいるのだ。幸い、レパードへの依頼を聞く限り、マドンナはブライトに賭けてくれているようではある。それが唯一の吉報だろう。
「国王の崩御って、戦争が起きるのか?」
心配そうな声を出したのは、先ほどまで散々ヴァーナーをからかっていたキドだ。
「あの国王って和平派で知られていたよな?それが死んじまったってことは……」
「いきなりそんなことにはならねぇだろ」
と答えつつも、自信なさげな様子をしているのはヴァーナーだ。
「俺らの知ったことじゃない」
どうでもよさそうに答えながら、レパードは通信機のスイッチを入れた。
「あーあー、聞こえるか?」
伝声管を通って、声が木霊していく。それに反して、ふいに周囲の霞がひどくなった。
「全員、以前から言ってあったとおり出航の時期がきた。準備のないものは食堂に集合。点呼には遅れるなよ」
レパードの声が遠くなる。レパードが振り返って口を開く。その動きが、どこか遠くのものに思われる。
「……とりあえず今いないことがはっきりしているのは、あの三人か」
「呼び戻しにいきますか」
ラダの声に、首を横に振っているのが、かろうじて見えた。
「お前らは出航準備を済ませておけ。俺がいく。キドもヴァーナーも、……」
ふいに声が途切れた。一気に世界の色が真っ白に染まる。
タイムリミット。ブライトの意識が、一気に引き戻った。まるで長い夢でも見ていたような感覚だ。
「ごめんね」
気が付けば、眼下で、紫の髪の男、ラダが崩れ落ちていた。変なもので、一度記憶を視てしまうと、この男が赤の他人には思えない。そして男のいるこの場所もだ。
要するに記憶を見る魔術とは、相手の記憶を通して追体験することをいうのだから、他人事に思えなくなるのは当然と思えた。
だが、今はそんなことよりも大事なことがある。




