その148 『消えていく文字』
サロウがパティオから出ると、そこでは一人の男が待ち受けている。ひょろりとした長身にいつもの背広姿が映えていた。細く険しい顔は相変わらず余裕が感じられない。最も、わざわざこうして出てきたということは良くない報せを持ってきたということだ。余裕がないのも当然かと、サロウは考える。
「何事だ」
小声で問いただせば、サロウの部下であるその男も囁き返す。
「『堕ちた島の姫』を発見しました」
サロウは軽く鼻を鳴らした。
「ようやくか。それで?」
部下の言葉がいつもより重い。その為、大体のことは察せられる。やれやれと内心呆れるサロウの近くを、二人組のメイドが横切ってきた。その視線がちらちらと向かってくるのを見て、サロウは部下に顎だけで合図をする。
サロウの認識では、メイドという生き物は噂好きの集まりだ。それはマーレイアの管轄にあたるここのメイドも同じことである。彼女たちが聞き耳を立てているこのような場所で、物騒な話はするものではない。
廊下を歩きだすサロウに、同じようについていきながら部下が再び報告に入る。
「『堕ちた島の姫』は逃走し、行方をくらましました」
つまりこの男は、任務について失敗しましたと報告しているわけだ。呆れて言葉もでなくなるサロウに、部下は挽回しようと声を張る。
「しかし、部下たちが集めた情報により『堕ちた島の姫』の狙いが分かりました。アレは使えます」
人気のない廊下まで出たところでサロウはため息をついた。遅い。とにかく遅すぎる。
「お前のいうアレとはこれのことか?」
ポケットから羊皮紙を取り出して見せる。そこには『予定を変更する代わりに、お土産を持参します』と血文字で刻まれていた。
「サロウ様。あの、その文は……」
「違う。その先だ」
文のすぐ下に、小さく単語が刻まれている。さらにその先には短いながらも説明文のような文章。先ほどの文とは違って、紙を斜めにして書いたのかと思われるほどそれらの文字は歪んでいた。すぐに男はその字の意図に気づく。
「まさか」
書かれていたのは名前だった。しかも、簡単な説明文つきだ。
「そのまさかだ。これはマーレイア様にお会いする一刻前に、魔術によって送られてきた手紙だ」
内心、サロウは舌を巻く。手が異様に熱くなったと思ったら、その甲に文字が浮かんだのだ。ぎょっとしたものの、甲の文字の指示に従って、自室の羊皮紙を手に取った。その瞬間、インクも何もないにも関わらず、羊皮紙に文字が浮かび上がったのだ。
あんな魔術は見たことがなかった。一体何を変換させれば、あの手のことができるのだろう。サロウが思い当たったのは自身の血だった。とにかくと思いつくばかりの解呪の魔術を施した。それでも、不安は消せない。恐ろしさにぞっとさせられる。ましてや、この魔術の持ち主がいるのは何日も船で渡った先の空なのだ。
「お前たちは他所の国の魔女にすら出遅れるのか」
一方でサロウは部下への叱咤を忘れない。面目丸つぶれもいいところなのだ。説教ですむだけ寛容な方であろう。
「申し訳ございません」
部下も恐縮したようで、すっかり大人しくなった。この寒さだというのに、顔から冷や汗すら浮いている。
それ以上怒る気にもならず、サロウはもう一度羊皮紙を読み直す。今までゆっくり読んでいる暇がなかったので、ざっとしか頭に入っていなかったのだ。
「……それにしても、この魔女。やはり自国の裏切りには怖気づいたようだな」
読み進めるうちに、魔女の狙いが形になる。最も、そもそもの話もどこまで信用したものか怪しいものだ。だから、この『変更』とやらも意図的なものかもしれない。提示されている条件が書かれた部分を眺めながら、考える。『いつもの三人で会えることを楽しみにしています』とは、言ってくれるものだ。
その間に立ち直ったらしい部下が、恐る恐る口を挟む。
「要求の変更があったのですか」
「あった。一番大きいのは……」
明らかに大きな一文をわざと飛ばして、サロウは笑ってやった。
「『式神』の貸し出しだな」
「は……?『式神』?」
手紙の本文には実のところ、『式神』なんて一言も書いていなかった。それでも要求が分かるのは、確かに付き合いが長いからだ。羊皮紙の内容を見せられた部下は、分かっていないのか、ぽかんとした顔をしている。いつもの険しい顔が崩れて、なかなか見ものであった。
「なるほど。俺への餌は用意できたから、代わりに克望の奴に飯をやってくれというわけか」
訳が分からないという顔を隠せないでいる部下に、サロウは一々解釈などしてやらない。
「行くぞ。お前たちの無能さのせいで、乗らないわけにはいかなくなった」
「申し訳ございません。ですが、それでは派遣している船は」
まさか一から説明してやらないといけないのかとサロウはしかめ面をつくる。
その様子に、部下がさらに恐縮してみせた。
「こちらは手紙しか使えないのだ。連絡が遅くなった関係で、『誤って捕えてしまっても仕方がない』だろう?」
そういってサロウは部下を置いて、足を早める。
彼が握った手紙から鮮やかな赤い血文字が消えていくことに、暫く誰も気が付かなかった。




