その143 『女暗殺者の目的』
「しかし、どこに逃げますか。このままでは行き止まりに」
女だけではない。兵士もいたのだ。万が一、捕まったらたまったものではない。しかもまたどういうわけか、この女は速度に自信のあるイユに追いついてきている。イユがラヴェンナや刹那に合わせて速度を落としているせいもあるだろうが、或いはこれも執念の賜物なのかもしれない。
「あの乗り物よ!」
イユは道なりに進んだその先に、ヴェレーナの街に行く時に乗ったトロッコ列車があるのを見つけた。あの時以上に可愛らしい見た目に変わったトロッコ列車の先頭には、大きなぬいぐるみのマスコットが乗っている。夜だからか、そのマスコットは、ぼんやりと淡い色に光る魔法石をぶら下げていた。しかし好都合なことに客は乗っていない。
走りではどうしても、いつか限界が来る。だが乗り物ならば話は別だ。それがイユの全力速度に適わないトロッコ列車であっても、追いかけてくるのが普通の人間ならば、一か八か賭けてみてもいい。そう判断したイユは、リュイスの方を見た。
イユの意図に気付いたリュイスがすぐに答える。
「あれなら、園内を一周するはずです」
リュイスの確認もとれ、イユは一目散にそこへと目掛けて走った。
「出して!追われているの!」
トロッコの近くにいたスタッフに声を掛ける。スタッフの返事を待たずに、雪崩れ込むように少年一人と女たちがトロッコに押し寄せる。
スタッフは慌てて周囲を確認した。スタッフの目にも追いかけてくる女の姿は入ったのだろう。だが、それよりもスタッフの目に大きく映ったのは女の後ろまで迫っていたイクシウスの兵士たちだ。追いかけているのが兵士だと考え、急いでトロッコを発車させる。兵士の言葉よりも、民間人を助けることを優先する。園内ではその考え方が根付いているようだ。
「待て!」
気づいた女が叫んだが、生憎ともう遅い。トロッコは女を置いて既に出発していた。
「さすがに、振り切れるわよね?」
イユはトロッコから乗り出して女を探す。
諦めればよいのに、あの女は足を止めていない。何やら叫びながら走ってくる。その顔が必死を通り越して、まるで悪鬼のように歪んで見えた。
ぞっとしたイユは顔を正面に向ける。話す余裕がないのか荒い息をついているラヴェンナがまず目に入った。一方で向かいに座っている刹那とリュイスは、まだ余裕そうだ。
その時、耳がピュッと言う音を拾った。
「口笛……」
刹那の言葉にイユは頷く。確かに、女が出したと思われる音をこの耳で聞いてしまった。内心激しく後悔した。逃げることに精一杯になり、すっかり失念していたのだ。あの女の相棒の存在を。
突如、トロッコの上空が翳った。
見上げれば明かりに照らされてそのシルエットがはっきりと浮かんでいるのが分かる。その形は羽を伸ばした飛竜以外の何者でもなかった。
一行の誰かが、呻いた声を聞いた。
飛竜はそのままトロッコを追い抜き、女の元へと急旋回、急降下していく。女は走りながら、近くまでやってきた飛竜へと乗り込んでみせる。その動きに一切の無駄も躊躇いもない。恐ろしいほどのファインプレーだった。すぐに女を乗せた飛竜がやってくる。
イユは心の中で天を仰いだ。飛竜がトロッコより早いことは、このあっという間に迫ってくる一人と一体を見れば十二分に伝わった。
「もっと急げないの?!」
悲鳴に近いイユの声に、スタッフが「これ以上無理です!」と泣き言を言う。所詮遊園地のトロッコだ。出せる速度には限界があるのだろう。
頼りになりそうなのは、疲労から立ち直ったラヴェンナが銃を構えていることだ。照準を定めて、何発か撃ち放った。
銃声にスタッフが真っ青な顔をしていたが、気にしている場合ではない。
「ああ、もうちょこまかと」
ラヴェンナはいらいらした声を隠さない。銃口を小刻みに動かし、引き金を引き、弾を入れ直す。その動作は、素人目からみても無駄がなく美しかった。
しかし、その全てを飛竜は華麗に避けてみせる。撃たれて落ちることを期待したいが、この様子では難しそうだ。イユは内心舌打ちする。あとはリュイスの魔法だろうが、同じように避けられてしまったら話にならない。それに、イユ自身も飛竜相手に何かをしたかった。ぼうっと追いつかれるまで待つのは何かが違うとそう思った。そうなると、残る道はどこになるのだろう。救いを求めて、周りを確認する。
今、トロッコは橋の上を走りつづけている。橋の真下にはコーヒーカップが見えた。カップの器がくるくると回転している。
それが案外小さく見えて、イユは気が付いた。意外にもこのトロッコは高い所を走っているのだ。だが、この高さでもイユならば行けなくはない。そう、イユだけならば何も問題はないのだ。
「リュイス」
声を掛ける。
「やれる?」
すぐに答えは返ってこなかった。少しして、迷いをみせた答えが返ってくる。
「五分五分です」
飛竜は確実に近づいている。迷っている暇はない。今回ばかりは掛けるしかない。
「仕方ないわね、さっき買ったばかりだけど……」
何やら呟くラヴェンナが分かっていなかったようだったので声を掛けた。
「ラヴェンナ、行くわよ」
「は?ちょっと何を企んで……」
ラヴェンナはイユの発言に動揺した様子を見せながらも、銃に弾を入れる手を緩めず聞いてくる。
「決まっているわ」
イユはいつでも発てるようにと構えた。隣でリュイスが意識を集中させている。その隣で、刹那も構えた。
飛竜が迫る。口を大きく開けて息を吸う。
そして――、
「飛び降りるのよ!」
間髪入れず、イユは体をトロッコから投げた。熱を感じた。ぴりぴりと痛む肌に、飛竜が放った炎がぎりぎりのところまで迫ったことを知る。けれど、それだけだ。少なくとも火だるまにはなっていない。
まず、空中で受け身の姿勢を取った。いつの間にか真っ暗なせいで下の様子が分かりにくい。だがそれは逆に明かりが必要な建物の下ではないことを意味する。下手なところに飛び降りると命がなかった。目に意識を集中させる。耳は風の音を捉えているため後回しだ。
硬い床が、イユたちを出迎える。
その時、風がイユたちの体を包み込んだ。ふわりと体が浮く感じがして、落下の勢いを和らげる。だがもって数秒のことだった。すぐにかくっと体が重力に従った。
(間に合わなかった?)
だが、そのまま叩きつけられることに比べたら断然ましだ。イユは足に意識を集中させた。すぐに地面へと着地する。足が僅かに痺れた。けれども、無傷だ。
隣で一歩遅れて刹那がふわりと着地するのが目に入る。それで気が付いた。イユと刹那ではかけている風の魔法の長さが違うことに。全員にかけている余裕がなかったのだろうか。それとも飛び降りるタイミングによって魔法がかかる時間が変わったのだろうか。不思議に思ったところで、何かが盛大に地面に叩きつけられる音がした。
イユは恐る恐る振り返った。視界にいるのは刹那だけだ。残り二人の身が心配になった。いや、リュイスならば翼を出せるはずだ。そのリュイスであれば、ラヴェンナを傷つけるようなことにならないよう極力配慮するはずだ。そう期待して、振り返る。
そして、愕然とした。その目に入ったのは、倒れているリュイスの姿だった。翼は出ていたが、その片方があらぬ方向を向いていた。それを確認するイユの目の前で、その翼が残滓となって消えていく。
(あの馬鹿!)
きっと、イユたちに魔法を使ったせいか、自身の翼を満足に広げる余裕がなかったのだろう。思いつくことといったらそれしかない。
「無事?!」
刹那とともに駆けつける。イユはロック鳥の巣での出来事を思い出さずにはいられない。あの時、リュイスは叩きつけられた後、暫く起き上がることができなかった。正直、もう駄目だと思ったものだ。またあんな風になったらと思うと、全身が粟立った。
「リュイス!」
顔の見える範囲まで近づいて、イユはそこでほっとした。
リュイスは痛そうに顔を歪めてはいたものの、目を瞑ったままではいなかった。それに、ゆっくりと体を起こしてみせたのだ。
「僕よりラヴェンナさんを」
治療にあたろうとする刹那を押しとどめる。
(そうだわ、ラヴェンナは)
彼女は一緒に逃げる必要なんてなかった。イユたちが巻き込んでしまっただけの、ただの人間なのだ。万が一大けがをさせてしまったら、どうしたらよいのだろう。
見つけたのは刹那が先だった。ラヴェンナが離れたところでぐったりと倒れていた。
すかさず駆け寄っていく。
「飛び降りるのが遅れたんです。だから魔法が落下地点より高い位置で発動したはず」
リュイス自身も打ち身がひどいらしい。立ち上がろうとしてふらりとよろめくので、イユは慌てて支えた。こんな時にも「ありがとうございます」と律儀に礼を言うリュイスには全くついていけない。
「大丈夫、生きている!」
駆け寄れない二人に、刹那が声を張り上げた。
それを聞いて、イユは心底ほっとした。ラヴェンナにはなんだかんだで助けられたのだ。サーカスでの出会いがなかったら今のイユはない。それに、半ば無理やり押し付けられたとはいえ、配膳の仕事もやってみれば楽しかった。巻き込む巻き込まない以前に、そんな彼女にこんなところで死んでほしくはなかったのだと、イユは自分事ながら気が付いた。
「でも、足が折れているみたい」
ところが、刹那の追加報告に、かぶせるように聞こえてきた声があった。
「逃がさない」
飛竜に乗った女が、イユたちの元へと降下してきたのだ。そして、イユの目の前へと飛び降りた。
その軽々とした動作がイユには恨めしかった。腰からナイフを取り出す所作に寒気すらした。この距離に、けが人付きときた。後々考えれば、無関係のラヴェンナを置いて逃げるという手もあった。女の目的はリュイスなのだから、ラヴェンナに危害を加えることはないという判断ができたはずだ。だが、このときにはもう、置いていくという発想は頭から抜け落ちていた。それにどの道ふらついているリュイスを連れてでは逃げきれたかは怪しい。
「……どうして、僕を狙うのですか」
仕方なくだろう、リュイスが腰の剣を抜く。刹那はラヴェンナを看ている。満足に戦えそうな者はイユしかいない。不利な状況だったが、やるしかなかった。あまり時間をかけると今度はイクシウスの兵士までやってきてしまう。
「お前は……」
女はきりっとその長い眉をあげた。
「お前は、カルタータの、皆の仇ッ!」




